苦痛のない愛は愛とはちがう

 「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14-15)

---

 遙か昔、教会にいた頃、足を洗い合うということがあった。
 総勢20人くらいだっただろうか、はしゃぎながらやっている。
 自分も誰かの足を洗った。誰かはまるで覚えていない。多分、向こうも覚えていないだろう。
 思うに、足を洗った相手をまるで覚えていないというのは、私にとってその人は大切ではないわけで、上の聖書箇所でイエスが言った意味での足を洗うというのとは似て非なるものだった。
 このような、自分にたいして痛みの伴わない行為というのは、誰でも彼でもやっている。
 しかし、ここでイエスが相手に行ったことは、自身に大きな苦痛を伴うことである。
 当時、足を洗うことは下僕がやっていたことでもあり、苦痛感や屈辱感は大きかったろう。
 足を洗うでもケツを拭くでも、その苦痛を伴うことを相手に対して行うことをイエスは示したのである。
 それどころか、イエスはこれから十字架の苦痛を一身に受けて多くの人を救うのである。

---

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )