イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスが拓く道
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)
---
イエスは行かれる。
「場所」を備えるために、父の家へと。
十字架の道を通って。
この道をかつて通った者はいない。
イエスが初めて拓く道だ。
重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
その十字架の上で死に、三日目によみがえる。
よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。罪を宿すすべての肉は十字架で葬られてしまった。
こうして道が拓かれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。
「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道なのである。
救われるためには極刑を受けて実際に死ななくてはならない、ということではない。
だが、死ぬ、という点では全く変わるところはない。そして、イエスと同じくよみがえる。
このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いている。
イエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とも言う。
この道の先にある父の御許では、イエスが私たちの場所を備えてくださっている。
私たちがどこに属する者であるかが、がらりと変わるのである。
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[一版]2008年 4月11日
[二版]2014年 9月14日
[三版]2017年 5月22日
[四版]2019年 3月 3日
[五版]2021年 2月12日
[六版]2023年 4月15日
健やかな一日をお祈りします!
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わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)
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イエスは行かれる。
「場所」を備えるために、父の家へと。
十字架の道を通って。
この道をかつて通った者はいない。
イエスが初めて拓く道だ。
重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
その十字架の上で死に、三日目によみがえる。
よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。罪を宿すすべての肉は十字架で葬られてしまった。
こうして道が拓かれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。
「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道なのである。
救われるためには極刑を受けて実際に死ななくてはならない、ということではない。
だが、死ぬ、という点では全く変わるところはない。そして、イエスと同じくよみがえる。
このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いている。
イエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」とも言う。
この道の先にある父の御許では、イエスが私たちの場所を備えてくださっている。
私たちがどこに属する者であるかが、がらりと変わるのである。
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