死んだ日々と生まれ変わった日々

 「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」(ローマ1:28-32)

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 「彼らが神を知ろうとしたがらない」とあるので、大昔から無神論者はいたのだろう。
 しかし彼らは「死罪に当たる」のであり、そのことを彼ら自身知っているという。
 では、ここでいう死罪とは何であろうか。
 それは神を知ることがなく、虚しく潤いのない日々に幽閉され続けることとでもいえばいいだろうか。
 ソロモン王は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝12:1)と書き残している。
 秦の始皇帝が遺した兵馬桶や豊臣秀吉の辞世の句なども同じものだと私は思う。

 一方で、復活のイエスが取りなして神と和解できた私たちは、内住の聖霊を宿している。
 私たちは、自分の意志で好き勝手に動いているというよりは、この内住の聖霊によって動かされている。
 これは不自由なことではなく、それどころか、人間生来のあり方としてとても自然なのである。
 上の引用聖句に諸々のことが書かれているが、これらを守るべきものとして守るというよりも、単にそうであることが自然なのである。
 人は神のもとで生きるようにできており、罪赦されて神と和解することによって、失われていた自分、潤いのある自分を取り戻すことができるのである。

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[一版]2019年 8月15日
[二版]2021年 3月13日(本日)

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