イエスはスケープゴートか

 「シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
 そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」
 そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕えて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼がその年の大祭司カヤパのしゅうとだったからである。
 カヤパは、ひとりの人が民に代わって死ぬことが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」(ヨハネ18:10-14)

---

 希代の芸術家である岡本太郎は、こう書いている。
 「この現し身(うつしみ)は自分自身のそして社会の、象徴的な生けにえであってかまわない。そう覚悟したんだ。」
(「自分の中に孤独を抱け」,p.92)

 これは、上の聖書箇所で大祭司カヤパが言ったことを自分自身についてそうあろうと覚悟したということだろう。岡本太郎は、精神的に追い詰められた青年時代を過ごしたらしく、そのさなかにこの覚悟をしたようだ。
 通勤電車の中でこの言葉に接したとき、私は感動のあまり泣いてしまった。
 カヤパの言うことは今でも多く行われていることで、スケープゴートをしつらえて集団の維持を図るということだ。ここではあえて善し悪しは問わないが、自らそのスケープゴートたらんとはと驚いて感極まった。
 さてイエスは捕らえられたが、これは多くの人の罪が赦されて自らの肉を御父への捧げ物とするためであり、およそすべての人への神の愛の現れである。
 イエスはパリサイ人社会のスケープゴートにさせられたのでも、また、パリサイ人社会のために自らスケープゴート役を買って出たのでもない。まさに「父がわたしに下さった杯」なのである。
 人は自分を造った御父とあまりにも離れてしまったが、イエスを介してこの御父に赦され懐に戻るとき、自然さと満足感を取り戻すことができる。
 今朝、駅の構内を歩いていると、「私は許さない。あなたは許されない」と書かれているポスターに出くわした。
 「あなたは許されない」。
 聖書のメッセージとは真逆でむき出しのこの言葉を前にして、私はしばらくその場に立ちつくしてしまった。コロナ禍はもう1年以上になり、先もまったく見えてこない。現代の貪欲なパリサイ人たちは、次から次へとスケープゴートを消費してゆく。
 帰宅してこの文章を書き始めたのだが、聖書に向かうと揺れた自分をすぐ取り戻せる、自分の軸にすぐ戻れるので、杯を飲んでくれたイエスに改めて感謝した。

---

 健やかな一日をお祈りします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 信仰を与えら... 肉の弱さについて »