家族の無理解

 「そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。
 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」
 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」(ヨハネ7:3-5)

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 イエスの肉の上での兄弟たちの無理解。

 イエスと兄弟たちは、小さい子どもの頃から一緒だった。
 兄弟たちにとっては、記憶に残るあのイエスなのだ。一緒に遊び一緒にはしゃぎ、時には喧嘩したあのイエス。兄弟間でパンの奪い合いもしたかもしれない。
 しかし、今ここで彼らの前にいるイエスは、彼らの記憶の中のイエスではない。
 肉をまとった神、救い主イエスなのである。
 そうしたら、なまじ家庭で知っていた分、兄弟たちはイエスを救い主と認めることは余計にできなかっただろう。信じていない、というよりは、信じようがないという方が近いと思う。

 この無理解については、イエス自身も「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」(マタイ13:57)と言っているとおりである。
 それどころかイエスは、「わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。さらに、家族の者がその人の敵となります。」(マタイ10:34-36)とまで言い切る。
 つまり、「いのち」を得て生まれ変わることによって、家族、親戚や旧知の間柄からの無理解にさらされ、それどころか敵にまで回られてしまうのだ。
 だが、そうであってすら、いただいたこの「いのち」は素晴らしい。罪に死んでいた私が、今は神との平和の中で安らいでいる。

 だから、パンによって生きるのと、いのちのパンによって生きるのとは、まるで違ってくる。そしてここから無理解が生じるのだろう。
 イエスもそうであったように、この無理解は避けられない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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