イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
偽善者について
「ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、
その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:48-51)
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主人のいいつけを守らず、それどころか好き放題やらかしている悪いしもべ。
「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」た主人にばれて、「その報いを偽善者たちと同じに」される。
悪いやつと偽善者とが同じ扱いなのである。
では、この偽善者とはどういう存在だろうか。
ひとことで言うと、表と裏が違いすぎたり、建て前と本音がかけ離れていたりしている人とでもいえばいいだろうか。
ところが、表と裏であれ、建前と本音であれ、これら両面は本質的には同じなのだ。
それは「抜け目なくやってやる」ということで、建前と本音を器用に使い分ける。嘘も平気だ。
我らがパリサイ人もそうであったし、近代資本主義下のこの競争社会でも数多い。
したたかといえばしたたかなのだが、一方で彼らは自分の内面を見つめるということがないのではないか、どうもそのような気がする。自分の内面を見ることはそら恐ろしいと思っている人にも何人か会ったこともある。
そして自分の内面を見つめることがないのであれば、他者の気持ちを分かろうとする回路もまたないだろう。
だから、彼ら偽善者は意図して、または意図せずに、人々に害悪を及ぼす。
悪についての自覚そのものがないのだから、先の悪いしもべよりもなおさらたちが悪い。
上の聖書箇所には「その報いを偽善者たちと同じにする」と書かれているが、偽善者についてはいうまでもないことだ、というニュアンスの突き放し方だ。
そして実をいえば、この偽善者とは、かつての自分のことだ。
人の気持ちなんてまるで分からなかったし、考えもしなかった。平気で人を傷つけていた。
こんな自分であっても、御父は忍耐強く待ち続けていてくださったのだ、これを神のあわれみと言わずしてなんと言えばいいのだろう。
主人が帰ってくるまでの間に、あとの者が先になる(マタイ20:16)喜びが多くあるに違いない。
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健やかな一日をお祈りします!
その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、
そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。
そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:48-51)
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主人のいいつけを守らず、それどころか好き放題やらかしている悪いしもべ。
「思いがけない日の思わぬ時間に帰って来」た主人にばれて、「その報いを偽善者たちと同じに」される。
悪いやつと偽善者とが同じ扱いなのである。
では、この偽善者とはどういう存在だろうか。
ひとことで言うと、表と裏が違いすぎたり、建て前と本音がかけ離れていたりしている人とでもいえばいいだろうか。
ところが、表と裏であれ、建前と本音であれ、これら両面は本質的には同じなのだ。
それは「抜け目なくやってやる」ということで、建前と本音を器用に使い分ける。嘘も平気だ。
我らがパリサイ人もそうであったし、近代資本主義下のこの競争社会でも数多い。
したたかといえばしたたかなのだが、一方で彼らは自分の内面を見つめるということがないのではないか、どうもそのような気がする。自分の内面を見ることはそら恐ろしいと思っている人にも何人か会ったこともある。
そして自分の内面を見つめることがないのであれば、他者の気持ちを分かろうとする回路もまたないだろう。
だから、彼ら偽善者は意図して、または意図せずに、人々に害悪を及ぼす。
悪についての自覚そのものがないのだから、先の悪いしもべよりもなおさらたちが悪い。
上の聖書箇所には「その報いを偽善者たちと同じにする」と書かれているが、偽善者についてはいうまでもないことだ、というニュアンスの突き放し方だ。
そして実をいえば、この偽善者とは、かつての自分のことだ。
人の気持ちなんてまるで分からなかったし、考えもしなかった。平気で人を傷つけていた。
こんな自分であっても、御父は忍耐強く待ち続けていてくださったのだ、これを神のあわれみと言わずしてなんと言えばいいのだろう。
主人が帰ってくるまでの間に、あとの者が先になる(マタイ20:16)喜びが多くあるに違いない。
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健やかな一日をお祈りします!
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