隠されていた宝

 「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

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 私はカネを求めていたようで、そうではなかった。
 人からの栄誉を求めていたようで、そうではなかった。
 ほんとうに求めていたもの、それが実に、聖書にあった。
 「わたしはいのちのパンです。」(ヨハネ6:48)
 まさしくイエス御自身こそが、いのちのパン、わき出る泉(ヨハネ4:14)、また永遠のいのち(ヨハネ6:27)そのものであったとは!

 今の私は、特に何かを失ったわけでもない。
 明日も、今まで通り、ごく普通に売り買いするだろう。今まで通りに、怒り、泣き、笑うだろう。ストレスも、依然として大きいだろう。
 人としての営みには、さほどの変化があるとは思えない。
 けれどもなんといっても、イエス、この宝を見いだした満足感の大きさといったらない。

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[一版]2006年 9月 2日
[二版]2008年 8月 2日
[三版]2010年 7月12日
[四版]2012年 4月22日
[五版]2013年11月23日
[六版]2016年 4月10日
[七版]2016年 9月 2日
[八版]2018年 4月14日(本日)

[上記2016年9月2日付記事での後書きの再掲]
 今日は、上の記事を書いてから丁度10年にあたります。10歳の誕生日といって差し支えないでしょう。
 10年前のこの記事を今読んでも、自分の中に違和感がありません。まったくそのとおりです。
 ちなみに最近は、周りに恵まれてストレスも当時よりずっと少なくなったと思います。

 いろいろ書いてみたのですが、どれも思いつきの域を出ないので消してしまいました。
 ああ、あの日から10年経ったのか、という思いが全てです。
 求め続ける人には、恵みによってイエスは会ってくださいます。このことは確かなことです。
(再掲おわり)

 健やかな一日をお祈りします!
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