イエスの狭き道

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

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 世の道は広く、誰しもがそこを通ろうとする。
 みんなと同じように振る舞うのは、さしあたり楽なのである。
 流されるように広い道を通る。
 そこにイエスは、狭き道を貫通させた。
 十字架と復活の、いのちへと至る道だ。

 この狭き道に入る門は、目には見えない。
 だから探してもみつからない。
 この門は、自分からはいる門ではなく、入らされる門であり、気付くとこのイエスの道にいる。
 そして、イエスと同じく死とよみがえりとをくぐってゆくその先には「いのち」がある。

 そののちも、私たちはこの狭い道を通り続ける。
 世とは異なる原理で歩むため摩擦も多く、その道は険しい。
 広い道で流されていた方が、よっぽどいいようにも思える。
 だが、そのように流されていたのではけっして味わうことのできない「いのち」の満足感、充足感が何者にも代え難いのである。

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[一版]2013年11月 7日
[二版]2016年 1月11日(本日)

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