何を求めるのか

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7-8)

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 山上の説教より。

 私たちは一体、何を求めるのだろう。何を探し、どこを叩くのだろう。
 それは、狭い道への入り口である。
 イエスは、救いを求める者は救われると、ここで言っている。
 探す者には、恵みが見いだされる。
 「だれであれ」、なのだから、これを福音と呼ばずして何を福音と呼ぼう。

 では、私たちは、果たして実際に求めているだろうか。探しているだろうか。
 見当違いをしてはいないだろうか。
 ここで私たちが求めるのは、私たちの罪深さからの救いである。
 金銭や、うまく事が運ぶことを求めるのではない。そのような御利益のことではない。
 罪の責めからの救いなのである。
 そうであれば、罪の責めに苦しんでいなくては、そこから救われようとも思わないだろう。
 何が罪かがわからなくては、罪の責めも生じないに違いない。
 罪を罪と気付かせて糾弾するのは、律法であり、イエスである。
 私たちが求めているのは、この罪の赦し、御父との和解による安らかさに他ならない。
 その和解を、御子イエスが仲介してくださる。十字架と復活によって、仲介してくださる。
 よって、私たちが求めるものの焦点は、イエスと共に十字架に死に、イエスと共に復活することだ。
 イエスは「だれであれ」、十字架と復活を共にしてくださる。

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