偽善者たち

 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3-5)

---

 上の引用聖句そのものについては措く。
 イエスはここで、私たちを偽善者呼ばわりしている。
 さらに、もう少し後の11節でもイエスは「あなたがたは、悪い者ではあっても、」と、悪い者呼ばわりする。
 何故だろうか。
 端的に、私たちが偽善者であり悪い者であるからだ。

 私たちはふだん、自分が偽善者、悪い者であるとは思いたくないし、気付きたくもない。
 イエスは、そのような私たちが自身の罪に思い至るために、この山上の説教を行っている。
 「偽善者」、「悪い者」、あるいは罪深さというのは、神の律法という絶対的な基準に照らしたときに、私たちはそう断罪されざるを得ない、ということである。
 Aさんからはあしざまに言われるがBさんからはほめられる、というような、相対的なものではない。私たちは、絶対的な意味において、偽善者であり悪い者なのである。
 そのことに気付いてストンと腑に落ちることこそが、救いのスタートラインである。
 イエスは、多くの人を救いたくて、それで挑発までしているのである。単に、私たちの悪口を言っているわけではない。

 救われると、神の律法は自分の魂の内に宿る。
 頭の計算づくで「善」をする時代は終わり、自分でも気付かないうちに善をなすようになるだろう(マタイ6:3)。

---

 よろしければクリック下さい。
にほんブログ村 哲学ブログ キリスト教・クリスチャンへ

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )