イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
イエスは何を与えるのか
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
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イエスが与えてくださるものが何かということについて。
このイエスは、「いのち」という光を宿している。
そしてイエスは、世を救うため人を救うため、その「いのち」の光を恵みによって分け与える。
その「いのち」に預かった人は、信仰に至る。
人が本質的にもっとも必要なもの、それをイエスは与えてくださるのである。
いま、人々は、カネ、モノその他物理的なものばかりをもっぱら追い求めている。マモニズムそのものだ。
カネやモノが人を救うのだろうか。生物体の生存維持のためならば、大いに救うだろう。そのためにカネはないよりあったほうがいいに決まっている。
しかし、大切なことは「いのち」であって、生存の維持ではない。
何歳生きるのかが大切なのではなく、どう生きるかが大切だろう。
だから物質的・物理的な満足感と精神的な満足感とは、往々にして全く異なる。
その言葉を用いると、イエスが与えてくださるものはもっぱら精神的な満足であり、マモニズムが与えるものとは全く異なる。
このマモニズムという闇、その中にもイエスの「いのち」の光は輝いている。
そのようにイエスの光はどこまでも輝くので、こころを、魂を自由にするこのイエスの救いには、マモニズムにどっぷり浸かっている人をはじめ誰もが預かることができるのである。
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光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)
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このイエスは、「いのち」という光を宿している。
そしてイエスは、世を救うため人を救うため、その「いのち」の光を恵みによって分け与える。
その「いのち」に預かった人は、信仰に至る。
人が本質的にもっとも必要なもの、それをイエスは与えてくださるのである。
いま、人々は、カネ、モノその他物理的なものばかりをもっぱら追い求めている。マモニズムそのものだ。
カネやモノが人を救うのだろうか。生物体の生存維持のためならば、大いに救うだろう。そのためにカネはないよりあったほうがいいに決まっている。
しかし、大切なことは「いのち」であって、生存の維持ではない。
何歳生きるのかが大切なのではなく、どう生きるかが大切だろう。
だから物質的・物理的な満足感と精神的な満足感とは、往々にして全く異なる。
その言葉を用いると、イエスが与えてくださるものはもっぱら精神的な満足であり、マモニズムが与えるものとは全く異なる。
このマモニズムという闇、その中にもイエスの「いのち」の光は輝いている。
そのようにイエスの光はどこまでも輝くので、こころを、魂を自由にするこのイエスの救いには、マモニズムにどっぷり浸かっている人をはじめ誰もが預かることができるのである。
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