ことば

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ことばにはそれ自体に意味があり、また、ことばの連なりが意味を生む。
 そのことばによって、人から人へと意味が伝わる。
 聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。

 ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。
 単なる文字面の意味をはるかに超えて、聖書のことばが読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。
 アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。
 これは、大きな苦悶のさなかにいた彼がこの聖書箇所に接して、「そうだ、主イエスを着ればいいのだ!」と悟った、ということではない。全く違う。
 そうではなく、ことばであるところの神が、この聖書箇所のことばを通して彼に出会ってくださったのである。このことによって、苦しみ抜いたアウグスティヌスは回心をとげる。

 ことばが神と共にありことばが神であるのであれば、はじめから神はいらしたのであるから、「初めに、ことばがあった。」となる。
 しかし、そういう文字面の解釈よりも、ある人のある局面において、聖書の一節がその文字面の意味をはるかに越えてその人に「いのち」を与え得る、そのことの方がずっと大切なことだ。

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[付記]
 第1版  2010年 5月19日
 第2版  2010年10月11日
 第3版  2012年 8月25日
 第4版  2014年 4月27日(本日)

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