イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
偽善の華
「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)
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人前で善行を行うことの報いとは、人から褒められることである。
むしろ、褒められたくて善行をやっている。イエスは彼らを偽善者と呼ぶ所以である。
程度の大小はあれ、私たちの誰もが持っている気持ちだ。
イエスは、その偽善そのものを問題にしているのではない。
自らの偽善、その偽善をはらむアダムの肉に気付けと言っている。
つまり、自分の罪に気付けということであり、気付いた時点が救いへのスタートラインだ。
御父はキリストを介して彼を救い、子としてくださる。それこそが報いである。
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だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:1-4)
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人前で善行を行うことの報いとは、人から褒められることである。
むしろ、褒められたくて善行をやっている。イエスは彼らを偽善者と呼ぶ所以である。
程度の大小はあれ、私たちの誰もが持っている気持ちだ。
イエスは、その偽善そのものを問題にしているのではない。
自らの偽善、その偽善をはらむアダムの肉に気付けと言っている。
つまり、自分の罪に気付けということであり、気付いた時点が救いへのスタートラインだ。
御父はキリストを介して彼を救い、子としてくださる。それこそが報いである。
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