敵を愛せない

 「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:43-45)

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 山上の説教より。

 私には、自分の敵を愛するということがどうしてもできない。何度も試みた。だが、到底できない。
 むしろ、自分の敵を憎む方がずっと自然なのである。
 神は全世界の人をひとりひとりお造りになられたのであるから、確かに自分の敵もまた神に愛されている。
 そうと分かっていても、アダムの肉を持つ私にはイエスの要求水準は高すぎる。
 アダムの肉にとっての自然とは、敵を憎むことだというほかない。

 では、イエスはできもしないことを命じているのであろうか。
 そうではなく、イエスはアダムの肉の罪深さを指摘し、そのことに気付くことを促しているのである。
 敵を憎む私の肉が神の要求水準には程遠く、罪を宿しており神と断絶している、このことが腑に落ちることを促している。

 その罪深さ、神との断絶を回復する唯一の道は、イエスの十字架と復活にあやかることである。
 十字架とは肉の死であり、復活とは赦し、すなわち義とみなされることである。
 神は敵も味方もなくどんな人にも憐れみ深いので、この狭い道もまた、どんな人にも開かれている。

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