イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
『神は死んだ』
「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
その日は備え日であったため、ユダヤ人たちは安息日に(その安息日は大いなる日であったので)、死体を十字架の上に残しておかないように、すねを折ってそれを取りのける処置をピラトに願った。
それで、兵士たちが来て、イエスといっしょに十字架につけられた第一の者と、もうひとりの者とのすねを折った。
しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」(ヨハネ19:30-33)
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十字架にはりつけにされた御子イエスは、その極刑を受けて死んだ。
「霊をお渡しにな」って死んだ。
人間と同じ肉が、極刑を受けた。
それは、御子を信じる者の罪深い肉に極刑を与えたことを意味する。
それが目的で、御子は十字架に架かった。
人間の罪深さを救うためである。
アダムの子孫達の罪深さは、神の御前に極刑に値するほど重い。
だが、神の御子が極刑に死んだので、その十字架を信じるならば、彼の罪深さは既に断罪されたとみなされる。
ただ、そうみなされるのは、御子が復活してからである。
十字架の死と復活とは、常にセットである。
「神は死んだ」ということについて、ニーチェが全く異なることを言っている。(たとえばhttp://www.ne.jp/asahi/village/good/nietzsche.htm)
だが、私たちが神を殺したのではない。
もし私たちが何かを殺したとしても、それは全能の神ではあり得ない。
そうではなく、御子が自ら十字架にはりつけになったのである。
それは、アダム以来死のくびきにつながれている私たち、神をも殺しかねない罪深い私たちを、そこから救うためなのだ。
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しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。」(ヨハネ19:30-33)
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十字架にはりつけにされた御子イエスは、その極刑を受けて死んだ。
「霊をお渡しにな」って死んだ。
人間と同じ肉が、極刑を受けた。
それは、御子を信じる者の罪深い肉に極刑を与えたことを意味する。
それが目的で、御子は十字架に架かった。
人間の罪深さを救うためである。
アダムの子孫達の罪深さは、神の御前に極刑に値するほど重い。
だが、神の御子が極刑に死んだので、その十字架を信じるならば、彼の罪深さは既に断罪されたとみなされる。
ただ、そうみなされるのは、御子が復活してからである。
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だが、私たちが神を殺したのではない。
もし私たちが何かを殺したとしても、それは全能の神ではあり得ない。
そうではなく、御子が自ら十字架にはりつけになったのである。
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