主イエス・キリストの日に

 「というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」(1コリント1:5-9)

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 パウロがコリントの信徒へ宛てた手紙から。
 ちなみに、「あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされた」というのは、強烈な皮肉(読み進めてゆくと、10節からがらりとトーンが変わる)。

 ただ言えるのは、信じる者は、確かに「主イエス・キリストの日に責められるところ」がない。
 主の日とは、キリストが再び来られる日であり、その日のことは黙示録にも、またイエス御自身も暗示しておられる(例えばマタイ24:5-31)。
 その日に責められない。

 それは、その人に罪が全く見いだされないからではない。
 そうではなく、その人の罪深い肉が赦されているからである。
 その肉は、既に十字架という最高刑により身代わりの処罰が済まされた。
 そのことが理屈を越えて実感できるならば、それが赦しである。
 赦されているので、その日には責められない。
 そのことが、召されて「神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられ」たということである。
 すなわち、赦しとは神との和解であり、その和解により最早その人は責められない。

 その人は、「キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになった」人であり、それだからこそ、「熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待ってい」る。

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コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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コメント
 
 
 
主イエス・キリストの日に (hana)
2008-05-16 03:59:32
Leviさん、お久しぶりです。
今私は、またLeviさんの記事を初めから読みかえしています。
去年も、一文字一文字真剣に呼んでいたのに、その時には気付かなかった事が今度は、「あ!!そうかっ!」「なるほど~!」って感じることが多々あります。

今日の記事も、私は教えられたまま「指で確認して神であると信じた不信仰者」と、ずっと勝手に思っていました。
そうではない事を聖書にちゃんと書いてあったのですね。
 
 
 
Re:主イエス・キリストの日に (Levi)
2008-05-16 20:37:23
 hanaさん、こんにちは。
 コメントありがとうございます。
 読み返しておられるとのこと、面はゆい限りです。

 「私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として」という聖書箇所は、ある種の厄介さがありますね。
 「指で確認して神であると信じた不信仰者」と言われたのですね。「不信仰」の根拠がよく分かりませんね。

 またコメント下さい。
 
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