救いによって何が大切なのかが根底から変わる

 「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。
 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、
 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、
 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:13-16)

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 イエスに救われて、気づくと物欲がなくなっていた。
 かつては分不相応な高級車を乗り回していた。それを買うために残業代を膨大に稼いでそれから倹約も随分した。それにしても、残業代で購入する高級車とは、ない見栄を張ることに他ならないのだが、当時はそんなことにも気づかない。
 多くの人と同じく、当時の私もカネという中心軸の周りで動いていた。
 カネを稼ぐか倹約するか、いずれにせよ、カネという軸を右に回るか左に回るかの違いだけで、中心軸がカネであることには変わりがない。
 なぜこんなことを書いているのかというと、御父の世界では中心軸はカネではないからだ。イエスは上の聖書箇所で、宮の中心軸すらカネになってしまっていることに怒りを隠さない。
 イエスの十字架と復活を通り抜けて御父と和解すると、カネではない中心軸、御父の中心軸へと瞬時にして移行する。平たく言うと、何が大切なのかが根底から変わるのである。イエスも「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)と言っている。
 中心軸がカネだけであるマモニズム全盛のこの世では御国への道は見えづらい。しかし光はやみに打ち勝たなかったのであり、恵みに預かる者も少なくない。

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 健やかな一日をお祈りします!

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