イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
あわれんでくださる神による
「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16)
---
ことわざに、「天は自ら助くる者を助く」というのがある。
そのとおりだ。この世で生きるためにはそれ相応の努力が必要であり、その努力は必ずや実を結んで報いられる。
しかし、今日の聖書箇所にある「事」というのは、上のことわざのようなことではない。
すべてアダムの肉を持つ人間に必要な、魂の救いのことを指す。
その救いは、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と仰る神に全ての決定権があるのであり、人間の側の何らかの努力やわざの結果ではない。
これが神の恵みである。「あわれんでくださる神による」のである。
人間としては、恵みを祈り求めること以外に何ができるだろうか。
この世のことはもっぱら自力で行う必要があっても、救われることについては全てを神の御手に委ねるのである。
---
[一版]2011年11月 3日
[二版]2015年 7月20日(本日)
よろしければクリック下さい。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:15-16)
---
ことわざに、「天は自ら助くる者を助く」というのがある。
そのとおりだ。この世で生きるためにはそれ相応の努力が必要であり、その努力は必ずや実を結んで報いられる。
しかし、今日の聖書箇所にある「事」というのは、上のことわざのようなことではない。
すべてアダムの肉を持つ人間に必要な、魂の救いのことを指す。
その救いは、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と仰る神に全ての決定権があるのであり、人間の側の何らかの努力やわざの結果ではない。
これが神の恵みである。「あわれんでくださる神による」のである。
人間としては、恵みを祈り求めること以外に何ができるだろうか。
この世のことはもっぱら自力で行う必要があっても、救われることについては全てを神の御手に委ねるのである。
---
[一版]2011年11月 3日
[二版]2015年 7月20日(本日)
よろしければクリック下さい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )