苦しみをとおして見える栄光

 「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」(ローマ8:17-18)

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 「子ども」とは、神の子。
 前回、大略次のように書いた。
 「恵みによって十字架のイエスに出会った人は、肉に頼らず御霊に導かれる。そのとき、私たちは神の子という関係が、この御霊を通して結ばれている」。

 さて、この世はアダムの肉の原理で動いている。
 一方、その罪深きアダムの肉が身代わりの十字架によって赦された私たちは、「いのち」という、肉の原理とは異なる原理で動いている。
 その「いのち」は罪からの解放という素晴らしい自由を私たちに与える一方で、肉の原理で動く「世」とは葛藤が生じることになる。
 私たち「いのち」の原理による者ではあっても、今は依然として「世」に身を置いているので、必然、この「世」で葛藤、苦難、苦しみが発生する。
 しかし、この苦しみを通してこそ、「将来私たちに啓示されようとしている栄光」が見えてくる。
 それは端的に天の御国であり、あまりに素晴らしく、この苦しみなど「取るに足りない」ほどのものである。
 言い換えると、「いのち」の先には栄光が見えているので、当座の居場所でしかない「世」で必然生じる苦しみを、しっかりと受け止めることができるのである。

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[一版]2009年11月28日
[二版]2015年 7月11日(本日)

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