病人

 「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)

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 イエスが取税人達と夕食を共にする。
 それを見たパリサイ人が、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と訝る。

 このパリサイ人の言葉は、当時の一般人が取税人達に持つごく普通の感覚を代弁しているものと思われる。
 加えて、パリサイ人はイエスに直接言うのではなく弟子にこそりと言うのであるから、取税人とメシを食うなどというのは余程はばかられる事だったのかも知れない。
 しかしイエスは彼らとメシを食う。
 イエスが招いているのは彼ら取税人達だからである。

 義人はいない。ひとりもいない(ローマ3:10)。
 神の律法を前にして、誰一人その全てに適う者はいない。
 取税人達は日頃受けている扱いのこともあって、自らのその罪深さを自覚していた。
 だからイエスに来いといわれれば行く。
 一方で、自分は正しい(義しい)と思いこんでいる人は、救いの手を差し伸べてもその手を握ろうともしない。その必要性自体、わからないだろう。
 所定のいけにえをささげて、それで気が済んでしまう。
 だが、皆が病人なのであり、望まれているのは、病人が救われること、そのために病人が病人と自らを気付くことなのだ。
 取税人達はおぼろげに気付いていた。
 イエスはすべての人のために十字架に掛かり復活した。医者側は準備万端である。

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