あなたの罪は赦された

 「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。」(マタイ9:1-3)

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 イエスは中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と宣言する。
 それを耳にした律法学者は、「この人は神をけがしている。」と内心くさす。

 この律法学者は誤ってはいない。
 罪を赦すことのできるのは御神ただお一人で、人が人の罪を赦すなどできないからだ。その律法学者にとっては、まさに神がけがされたのである。
 ところがその思い違いは、イエスが何者であるかを律法学者が知らなかったから生じたことで、無理もない。
 イエスが何者かを分かることは、決定的な分水嶺である。

 その神の子イエスは「あなたの罪は赦された。」と宣言する。
 中風の男は罪赦された。
 何故か。人々の献身にイエスが心打たれたからか。
 もしそうなのであれば、友人知人の多ければ多いほど罪赦されるということになる。
 そうではなく、イエスが憐れもうと思ったから憐れんだ、それ以上でもそれ以下でもない。
 恵みとはそのようなものであり、因果関係ではない。

 私たちも求め続ければ、「あなたの罪は赦された。」とイエスが出会って下さる。
 ひとりであっても、何一つよきことのできなくとも、救いを求め続ける限り恵みによってイエスは出会って下さる。
 そのとき私たちはイエスの十字架、復活、そして自らの罪深さも含めた全てを了解するのである。
 上の律法学者のように分かったつもりでいる人が、おそらく最も救いから遠い。

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