北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

浜頓別でつながる御縁

2015-04-20 22:02:06 | Weblog

 地域の自治体への挨拶周り最後の一日。今日は猿払村と浜頓別町を訪問。猿払村は道路沿いの家が新しくしかも大きいことが目立ちます。

 いわゆる「ホタテ御殿」と言われる立派な家ですが、猿払村はホタテをはじめとする海産物の売り上げが素晴らしく良くて、町民所得も大きく増えました。

 先日毎日新聞が、安倍政権下で地域間格差が大きくなったという記事を掲載していましたが、そのなかで自治体別平均所得額のランキングを掲載しました。

 そしてその中でなんと猿払村が数多ある都会の市区を超えて堂々の五位にランキングされたとのこと。「マスコミが取材に来て参りました(苦笑)」とは猿払村の伊藤町長さん。

 やはり地域の経済状況はかなり良さそうです。
 

『毎日新聞』平均所得:地域間格差くっきり 安倍政権下で拡大(2015年04月17日)
 

 
       ◆  


 続いて浜頓別町へ移動しましたが、こちらも水産関係は調子が良さそう。

 菅原町長さんは、「うちでは小学校の卒業式に、子供たちに将来の夢を書いてもらうんですが、そのなかで三人の子供が『将来は漁師になりたい』と書いてくれたんです。多分初めてじゃないかと思いますが、親のことをちゃんと見て将来を考える中で漁師になるという未来を描いている子供がいたことをとてもうれしく思いました」と言います。

 また今回は九州から家族で移住してきた方もいるということで、経済状況の良さが人口増や地域の活性化にしっかりと繋がることを期待したいものです。


       ◆   


 今日は札幌から大学の後輩が二人連れで稚内に来るというので、待ち合わせて居酒屋で一杯飲みました。

 四方山話をしているうちに、一緒に来ていた25歳の青年が『実は僕、浜頓別町で開かれたオホーツク100kmウルトラマラソンに昨年参加しました」と言い出しました。

「へえ、大変だったでしょう」
「ええ、この大会は制限時間が100kmを14時間ということなのですが、私は13時間50分でゴールでき、記念になるメダルと賞状をもらいました」

「若いから体は大丈夫だったんですかね」
「それがレースの後に、土踏まずと股関節の痛みが続いて、病院へ行ったところその二カ所が疲労骨折していました(笑)」

「えーー!やっぱり過酷なんだなあ」
「でも走っている間は本当にスタッフや地元の皆さんのおもてなしが素晴らしくて、とても心地よかったんです。あれは本当に走って良かったなあと思わせてくれる素晴らしいレースだと思いますよ」

 こんなところで、浜頓別つながりの若者と知り合えたとは実に面白い出会いでした。

 稚内はいろいろな人を惹きつけます。
 
 

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稚内とコーヒーの関係~北辺警護のお供にどうぞ

2015-04-19 21:30:10 | Weblog

 今は車を稚内に持ってきていません。そこで市内を観て回るのに、ガソリンステーションが経営する安いレンタカーを借りてみました。

 今日は当日の申し込みでも幸い空きがありました。しかし観光シーズンになると予約しなければ無理なときも多いよう。予定は早めに立てなくては。

 レンタカーを借りるとまずは西へ進んで日本海側へ出ました。ここから海岸線を見るだけでもなかなか見られない雄大さです。

 今日は利尻富士が雲に隠れていましたが、次回は夕日の頃に見たいですね。


 ちょうど利尻富士を正面に見るところに、稚内温泉「童夢」があります。日曜日のお昼だというのに随分混んでいます。稚内市民の高齢者は利用料が100円だというのですからお年寄りの利用が多いはずです。

 お湯は少し塩の味がして肌がツルツルになり、大いにリラックスできました。島を除くと本土では最北の温泉です。


 

      ◆   
 
【北辺警護とコーヒーの関係】
 ノシャップ岬を巡って今度は一路宗谷岬方面へとひた走ります。

 途中の宗谷公園には海の神様である厳島神社があったり、北辺警護に当たりながら志半ばにここで無念の死を遂げた津軽と会津藩士の墓が並べられています。

 面白いのは、この地で野菜不足による水腫病で多くの越冬死者を出したことの反省で、後に予防薬として和蘭(オランダ)コーヒーが配給されたという記述が残されています。

 今日この藩士の墓の傍には、津軽藩の後裔である弘前市の雄姿たちの手によってコーヒー豆の形をした碑が作られました。北辺警護がコーヒーに繋がるとは実に面白い。

 『稚内コーヒー物語』 

  
       ◆  

 旧の宗谷村に今は稚内市役所宗谷支所がありますが、ここに『稚内発祥の地』という碑がありました。

 津軽や会津藩士の墓が残されているように、かつては今の稚内よりも東の宗谷岬周辺の方が重要でした。

 明治12(1879)年に戸長役場が置かれたとき、宗谷は宗谷村、泊内村、猿払村、稚内村、声問村、抜海村の中心地で、戸長役場と共に宗谷・枝幸・利尻・礼文郡の宗谷外三郡役所も置かれるほどの中心地だったのです。

 それが後に船舶が大型化され、港が稚内に移ったことで中心地としての役割は次第に稚内に移り、昭和30年に旧宗谷村が稚内市と合併して今日に至っています。

 この碑があるところは、かつて長い間宗谷戸長役場と共に宗谷外三郡役所が置かれていた場所だそうで、まさにこの地域発祥の地と言えるでしょう。

 私、こういう歴史って大好きです。面白いじゃありませんか。

 今日はたくさんめぐりすぎたのでこの辺りで。これからも少しずつ小出しにして行きまする。

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住所変更でのドジ

2015-04-18 22:50:20 | Weblog

 自宅の固定資産税の納税通知書がこちらに届きました。

 自宅に電話して、「これって札幌の家のだよね」と言うと、「あれ?住所変更した?」という妻。

「うん、この間郵便局へ行った時に(今でしょ)と思って住所変更手続きをしたよ」
「札幌の住所をそちらに変更したでしょ」
「したよ」
「だめだよー。そちらの住所登録をするだけにして、札幌の住所は変えないんだよ、言ったじゃない」

「…あ、あ、そうだっけ…」
「もう、言ったことをちゃんと聞いていないんだから(笑)。こっちで必要な書類も全部そっちへ行っちゃうよ」

 最近はいろいろな届け物は、送り先に対してネットで住所変更ができますから、必要なものは選択してこちらに変更しなくてはいけません。

 何度転勤を繰り返しても、細かいところが分かっちゃいませんね。そういえば、そんなことをささやかれたような気もしますが、ドジっちゃいました。


 昨日の出張経路のGPSデータログを貼っておきます。

 次は礼文島をもっと回りたいですね。

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利尻礼文二島めぐりのあいさつ回り

2015-04-17 23:35:26 | Weblog

 行ってきました、利尻・礼文の二島の日帰りあいさつ回り。

 今日の行程はまず礼文島へ行き、それから利尻島へと回る予定なので、朝6時30分の礼文島香深港行きのフェリーに乗船。薄曇りながら太陽の姿も見えていて明るい朝の出港です。

 船はそれほど揺れもせずに定刻通り8時35分に無事香深港へ到着しました。風が強く吹いていましたが、利尻富士が間近に見えて雄大な姿です。

 

 まずは礼文町をお訪ねして着任の挨拶と、併せて今年度の事業の概要などを説明。礼文町からは昨年8月の豪雨災害の際に、東海岸と西海岸を結ぶ道路が不通になって物資が運べなくなった集落に港湾業務艇で物資輸送支援を行いました。

 礼文島での稚内開発建設部の仕事は港や漁港の整備ということに限られますが、災害時の支援などでは日頃からの関係を深めておきたいところです。

 
 礼文町での意見交換を終えた後は、利尻行きのフェリーまで少し時間があったので、島に置いてある官用車で島の南側を視察して回りました。丘の上からの利尻島は雄大で、映画「北のカナリアたち」でのシーンを髣髴とさせました。

 撮影時に使われた学校のセットは今も「北のカナリアパーク」という形で残されていますが、オープンは5月1日からだそう。

 花の季節は5月末から7月一杯くらいまでだそうですが、今年は早目に行きたいものです。

      ◆  

 次に10時50分香深発利尻島鴛泊行きのフェリーに乗り込みいよいよ利尻島へ。以前に礼文島へ入ったことがあるのですが、利尻島は生まれて初めてです。

 少し風が出始めて船が揺れましたが、まあ40分ほどの船旅。

 鴛泊港にはボーディングブリッジという、船の二階部分に直接繋げられて雨や風がしのげる船渡し橋があるのですが、風が強くて船が揺れるためにこれが使えませんでした。

 そのため以前と同じく直接岸壁に板を渡して降りることになりましたが、利尻町さんからの要望はまさに折角できたこのボーディングブリッジをしっかりと使えるようにしてほしいというもの。

 担当の港湾事務所がそのあたりは準備を進めているとのことで、地元の期待にしっかりと応えたいところです。

 観光で言うと、かつては3月から12月まで年間20万人もの人が島を訪れていたのが、今ではほぼ夏のシーズンに限られてきて入れ込みも約半分になっているのだとか。

 しかも台湾や香港、中国など海外からの来訪者が増加しているということで、島でも外国人観光客の受け入れ態勢を強化しているところだそう。

 また漁港関連でも衛生面を強化するような屋根施設が整備されたりしていて、漁業を支えるインフラ作りにも期待の大きさが示されました。
 
 利尻町の保野町長さんの名刺は蛇腹になっていて、うち一枚は利尻ふれあい温泉の無料温泉券になっています。これは使いたくなるのでまた島へこなくては、という気持ちにさせます。アイディアですね。

 最後にお訪ねしたのは利尻富士町役場。こちらでも港と漁港関連での要望を強くいただきました。
 港インフラの整備はもちろんですが、災害時の支援対応でも連携を深めさせていただきたいところです。


      ◆   


 利尻島には港事業関連の車と運転手さんがいるので、島を一周しながら視察をしてきました。

 利尻富士町のオタトマリ沼という沼からは晴れていれば利尻富士が眼前に迫るように見えるのですが、ここからの風景が実は「白い恋人」の包装に使われています。

 案外気が付かないのですが豆知識ですね。


 さて、利尻島からは17時発のフェリーで稚内へ寄港。念願の利尻島に渡ることができて今日は充実した一日でした。

 それにしても日帰りでの二島めぐり。移動だけならできることは分かりましたが、次回は家族や友人を連れてプライベートでも離島観光を楽しみたいものです。早く予定を立てなくては。

 同行してくれた職員諸兄もお疲れ様でした。

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明日は利尻・礼文!…しかし日帰り(笑)

2015-04-16 21:55:28 | Weblog

 今週から始まった管内の市町村挨拶ですが、明日はいよいよ利尻・礼文の二島へ渡って礼文町、利尻町、利尻富士町の三町へ伺います。

 多くの人が憧れる離島の旅ですが、一日で二島を日帰りするという強行軍。

 朝一番のフェリーで礼文島へ向かい、礼文町で町長さんと意見交換をし、次に礼文島から利尻島へのフェリーで利尻島にわたり、こちらで利尻町、利尻富士町の町長さんにお会いしてその日の最終フェリーで稚内に返ってくるというので、どんなことになるのかちょっと不安です。

 風が穏やかで船が揺れなければよいのですが、揺れたときのために船酔いの薬も買って万全の態勢です。


       ◆ 


「礼文島へ行くのだったら、参考までにこれを見ておくと良いですよ」と部下の一人から渡されたのが、「北のカナリアたち」という映画のビデオ。

 主演は吉永小百合さんで礼文島が舞台になっていて、利尻富士が大きく見える背景が印象的な映画です。

 映画のストーリーは、は礼文島の分校で小学校教師を務める川島はる(吉永小百合)が、生徒たちを誘って行ったバーベキューで夫を事故で亡くします。

 傷心の思いで教え子を残して学校を去った川島はるでしたが、20年後に教え子の一人が殺人を犯したという知らせが届きます。そこからかつての教え子を探して会いに行き、当時の一人一人の思いが分かってきて、次第に謎が解けてゆくというもの。

 この撮影の時の学校のセットは今でも「北のカナリアパーク」として残っているそうで、行くにしてもこの映画を観ておくことが大事です。

 明日の島渡りのスケジュールではちょっと行けなさそうなのですが、いつか行ってみようと思います。地域の財産ですので皆さんもぜひご覧になってください。

 

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多様なヨソ者のあつまり

2015-04-15 21:55:48 | Weblog

 市内にある組織・団体のトップが一堂に集まって昼食をとる、いわゆる名士の会とでもいうべき会合に参加しました。

 名称は「三水会」というのですが、月の第三水曜日に定例で行われるのでこの名称にしたそうです。今回は約60名もの人たちが参加していて、始まる前の挨拶では名刺交換を仕切れないほどでした。

 四月の第一回目の今回は転任してきた人が14名にもなり、昼食のお弁当を食べた後に、それぞれ挨拶の機会が与えられました。

 割り当ての時間は一人二分とのことで、トップバッターは私。私がペース配分を示さないと行けないと思ってちょっと緊張しました。

 他の方の挨拶を聞いていると、稚内勤務がこれで三回目です、という方もいれば、ずっと東京で勤務していて初めての北海道勤務が稚内と言う方まで様々。

 北海道が初めてと言う方は、「道端にフキノトウが当たり前にあって、おまけに道端でエゾシカを始めて見ました」と何を見ても驚いている様子で、われわれから見るとなんだか可笑しくてたまりませんでした。

 多様なよそ者が集まってきて、仲良く情報を共有して地域に貢献しようという気持ちがよく伝わってきました。

 こういうご縁を大切にしたいものです。

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枝幸町~元気と活気のある町

2015-04-14 22:16:28 | Weblog

 管内の町村を巡っての挨拶回りで、今日は枝幸町へ向かいました。

 稚内から枝幸へ向かう途中にある漁村猿払村では家並みが新しく立派な家が続きます。

「ホタテや海産物で活気が出ていますね」

 オホーツク海側の港は海産物の調子が良いようです。


       ◆  


 枝幸町でも事情は同じようで、町長さんにお会いすると、「町内で加工できる施設を作ったところ、ホタテだけではなくナマコやタコなどの価値も上昇して水揚げも増えて来て調子が上向いています」

「それは喜ばしいですね」
「ただ問題もあります。働き手が高齢化して少なくなっていて、手が回らないんです。そこで中国からの研修生を受け入れていますし、最近はベトナムからも受け入れを増やしています。働き手が少なくなっているのは残念です」

 地域経済が上向きでもなかなか若い働き手がそれを目当てにやってくるということはないようです。やはり田舎と言うことが敬遠されているのでしょうか。


 そういえば、今朝の地元新聞に枝幸町のよさこいソーランチームが連覇を目指して熱心に練習しているという記事がありました。

「私は全然知らなかったのですが、枝幸の『夢想漣えさし(ゆめそうらんえさし)』さんたちはよさこいで素晴らしい成績を収めているんですね。それに旭川や札幌にも支部があるのだとか」
「ええ、旭川も札幌も、枝幸を出た子供たちが中心になって練習をしていますし、頑張っているうちに、このチームに入りたいという人も増えているみたいです。それに、同じチームで踊っているうちに仲が良くなって結婚したという若者もけっこういて、そういう子らが地元に帰って来たりしています」

「なるほど」
「それに町の職員が慣れないカメラを持って、練習の様子をずっと撮影しているんですが、最後に優勝するまでの記録を編集すると感動的なドキュメンタリーが出来上がりました。これを町内のケーブルテレビで何度も放映すると、お年寄りなどもかじりついてそれを観て感動していますよ(笑)」

 
 経済の調子も良くて、おまけに若い人たちが元気を出して結果を出すということが活気を呼んでいます。しかしそれでもなかなか人口が増えるということにもなりにくい。
 しかし逆に考えると、人口は増えなくても元気と活気はある…。

 地方経営の難しさがこういうところに垣間見えます。

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間宮林蔵~歴史を学ぶには癖のある人を探すとよいのです

2015-04-13 21:51:45 | Weblog

 稚内での新しい住まいの良いところの一つが図書館に近いこと。距離にしてわずか400m足らずなので、10分も歩けば到着します。

 蔵書は一般図書が約15万3千冊、児童図書が4万4千冊、雑誌約1万9千冊で全部で21万6千冊とのこと。

 閲覧したり学習したりするスペースがゆったりしていて、ライトに加えてパソコンなどの電源のサービスもあり親切です。

 せっかく稚内へ来たので、カラフト関係や北方探検などを勉強してみようと思って昨日は間宮林蔵のカラフト冒険談を口述で記録した『北蝦夷図説』を読んでみました。

 カラフトは、18世紀から19世紀初頭に対ロシア政策を考えるうえで、「どこまでロシアの勢力が及んでいるか」ということに関心がもたれた時がありました。

 そこで松田伝十郎と間宮林蔵に島の探検の命が下され、その結果間宮林蔵は大陸とカラフトとの間には幅二三里ほどの海峡があって、カラフトが島であることを始めて確認しました。

 また間宮はこの時に大陸まで渡り現地の役人とも会って話をし、現地住民の衣食住、生活様式などの貴重な文化記録を残しています。

 間宮の探検による地図と記録はシーボルトにも伝わり、シーボルトは後に名著Nippon」の中でこの海峡を「間宮の瀬戸」と名づけました。

 シーボルトは後の1834年にペテルブルクを訪れたときにロシアの探検家クルーゼンシュテルンに間宮の地図を見せているのですが、そのときにクルーゼンシュテルンは「日本人は世に勝てり!」と叫んだと言います。当時としては大変な冒険だったのです。

 間宮林蔵は、日本とのいざこざの中で捕えられ松前で獄中にいたゴローニン(後に『日本幽囚記』という名著を残した)を訪ねて自慢話をして嫌われたり、そうかと思うと北海道を南半分しか測量しなかった伊能忠敬の後をついで残りの北海道北半分を測量したりと、好奇心と自己顕示欲と胆力を備えた実に癖のある人物です。

 こういう人物を中心に地域を見てみるのも面白いかもしれませんよ。図書館が近いってすばらしい。

 

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稚内周辺のパワースポット

2015-04-12 10:38:33 | Weblog

 昨日「北門神社へ行きました」という記事を書いたところ、地元で地域振興をされている知人から、「そこはシーニックバイウェイ宗谷の中のパワースポットですよ」という紹介をいただきました。

「宗谷管内のパワースポットって、ほかにどこがあるのですか?」と尋ねると「ここをみてください」とサイトを紹介されました。

 ほー、こんな風になっているとは知りませんでした。

 稚内、宗谷丘陵はもちろん、利尻島・礼文島にも広がるパワースポット。温泉も多いのでお湯につかりながらのパワー充填もいいかもしれませんね。

 館内を回るときは意識しておくことにします。

 
 http://www.wakkanai-printing.co.jp/powerspot/

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怖くて入れなかった結界

2015-04-11 18:33:48 | Weblog

 快晴で温かい朝となりました。

 今日は部下である二人の次長と共に市内の北門神社へ安全祈願の参拝をしてきました。

「新しい土地に転勤したら必ず地域一番の神社へ挨拶に行きなさい」というのはかつての建設省時代の上司に教えられたことでした。

「我々公共事業に携わる者は、その土地を削り木を切って小さな命とその棲みかを奪わなくては仕事ができない。そのことを肝に銘じながら地域のお宮さんに挨拶に行くものだ」と教わったのです。

 とても良い話だと思って、それいらい実践していることの一つですが、今日はそのことと併せて管内の安全祈願と職場の安全祈願をしてきました。

 稚内総鎮守である北門神社は市内旧市街地の高台の地にあります。

 御由緒としては、元々宗谷岬で松前藩の場所請負人として地域経営に当たった村山傳兵衛(むらやまでんべい)が人心安寧と北方敬語の守護神として伊勢の皇大神宮を勧進し、天明五(1785)年にかの地に小社を建立し宗谷大神宮と称したことが創祀と伝えられています。

 それが明治期になって、現在の稚内の地に社を移し名前も北門神社と変えて今日に至っています。

 ちなみに村山傳兵衛は能登の国出身で、早くから松前に土着し特に宗谷において誠心誠意地域経営に当たりました。北海道神宮境内にある開拓神社三十七柱の一柱としても祀られているとのことです。


        ◆  


 実はこの神社には八歳まで稚内に住んでいた時のある思い出があります。それは、親にこの神社へ連れてきてもらったときに、階段の前の狛犬が怖くて境内に入れなかったということ。

「何か悪いものでも憑いていて、結界に入れなかったのかなあ」と今では笑い話ですが、今日は無事にお参りができてこの階段を下りてくることができました。

 管内安全、職場の安全祈願と共に、心のどこかに引っかかっていた果たせなかった想いを実現できて清々しい一日となりました。


     【これがかつて怖くて入れなかった狛犬さんたち】

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