北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

キャンプ三日目~稚内までドライブ

2005-08-14 23:59:52 | Weblog
 巷の小中学校ではもう夏休みも終わる頃。日記をまとめて書くのが辛いのは子供も大人も変わりません。

 さて天塩中川町でキャンプの三日目。今日は一気に稚内までドライブです。
 今日は 
■最果ての町稚内で思い出を紡ぐ の1本です。

【最果ての町稚内で思い出を紡ぐ】
 九時過ぎにキャンプ場を出発して、まずはサロベツ原野でビジターセンターを訪ねて事前勉強。

 寒冷な気候のために植物体が分解されないまま積もるのが泥炭だが、その積もるスピードは年に1ミリメートルと言うから、この広大で深い泥炭地が過ごしてきた年月の深さが知れるというものだ。

 サロベツ原野のこの時期は残念ながら野草のお花畑はとっくに終わっていて、もう季節はずれ。本当に花の咲きまくる時期は7月上旬なのだそうだ。今度は是非ともその時期に訪れてみたいものだ。

    *   *   *   * 

 車はそこから海岸沿いの道道をひた走るが、会場は霞がかかっていて利尻島も礼文島も見ることが出来なかったのが残念。

 稚内ではまずノシャップ岬で記念写真。周辺は多くの観光客で賑わいを見せていて、残り少ない夏の名残を惜しむかのようだ。

 昼食をどこで取ろうかと迷いながら、かつて私が住んでいたあたりめがけて車を走らせる。

 私は3歳の時から稚内に住んでいて、保育園の後は東小学校、声問小学校、南小学校と市内で転校を繰り返して3年生までの6年間をこの地で過ごしたのだった。

 当時あった国鉄天北線はすでに跡形もなく、昔住んでいた家も無くなっていたり新しい寮が建てられていたりして、いずれももはや記憶の中の姿でしかないのだった。

 転校や転勤を繰り返してきた自分にとって、一番古い思い出があるのは稚内の風景で、それが40年以上の時の流れを超えて郷愁をさそうのだった。
 故郷は遠きにありて思うもの、かな。

    *   *   *   * 

 昼食を取ってからは一応最北の地である宗谷岬を訪ね、再び稚内市内へ戻って多少の買い物をしてからまた中川町へと戻る。

 国道40号線を走っていると見えるのは牧場と牧草地なのだが、離農して廃屋となった牧舎やサイロが多いことに改めて気づく。

 北海道に住んでいても、牧場や牧畜などについては案外知らないことも多い。ここ→でも読んで勉強してみてください。

 牧草はそのままでは栄養価が低いので、発酵させてサイレージという干し草の漬け物を作るのだが、かつては干し草をサイロに入れてそのような状態にしていたものが、最近はロールパックサイレージという干し草を白や黒のビニールで包むことで同じ作用をさせる技術が普及してきて、いまではこの時期牧草地に白や黒の玉が点在するのが北海道の新しい風景となりつつある。

 かつてのサイロはもう無用の長物となり、北海道の風景からはその役割を終えようとしているのである。

 それにしても、沿道からの壊れたサイロや潰れてしまった牧舎がそのまま残っているのを見るのはなんとも心が痛むものだ。 

 農業に詳しい知人によれば、牧場経営は常に競争にさらされてきていて、現在残っている牧場は立派に収益を上げるよう体質が強化されていると思って間違いはなく、現在廃屋として残る建物は、そこに至る過程で経営が立ちゆかなくなった多くの牧場の名残なのだという。

 実際車を走らせていても、廃屋になった牧場であっても牧草地の草は刈られていることが多く、土地は誰かがちゃんと引き取って管理されている様子がうかがえる。

 またパックサイレージや干し草が転がっている様子や牛の姿を見ると、(ああ、ここには人がいるのだな)と安心感が広がる。

 また住民一人あたりの管理する面積が大きいのが酪農の特徴でもあり、広大な土地でありながら住民の数は少ないし、家同士が離れているというのもこのあたりの地域の特徴だ。

 今残っている酪農家の皆さんがさらに経営強化を図って、地域の基幹産業として中心的な役割を果たしてくださることを祈る限りである。

 自分の知らない北海道の姿を改めてかいま見た思いがした。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 天塩川カヌーと資料館の二日目 | トップ | キャンプ最終日~サヨナラ中川町 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事