私の愛すべき現場である滝野すずらん丘陵公園で、ヒグマの痕跡が発見されたために臨時閉園をしているというニュースにびっくり。
新聞報道では「前回は1999年にクマが目撃されて閉園した」と書かれているが、その時の所長はかくいう私である。ヒグマ対策は危機管理の結晶である。
今日は、
■思い起こせば~滝野公園のヒグマ事件 の1本です。
【思い起こせば~滝野公園のヒグマ事件】
もう6年も前のことだが、私が滝野公園事務所の所長をしていたときの同じ9月に起こったのがヒグマ発見事件である。
そのときはまだ中心ゾーンが未開園で、現在のカントリーガーデンに草花を植える工事の真っ最中だったのだが、中央口の駐車場南側の斜面を大きな黒い動物がのそのそと上がって行くところを、駐車場に止めて休憩中のバスの運転手さんが発見して、管理事務所に連絡をくれたのだった。
「犬の見間違いでは?」という希望も、目撃者である運転手さんはかつて本物のクマを見たことがあって、「間違いない」ということで臨時閉園を決断したのだった。後から植栽工事に従事してくれていたおばちゃんたちに聞いてみたところ、「ああ、大きな犬が通りました」ということだったので、ぞっとしたものだ。
とりあえず臨時閉園をしたものの、この状態から一体どうやったら開園にこぎ着けられるかということで大いに悩んだのだった。
まずはクマの専門家のお話を聞くのが一番と、知人のつてで専門家からお話を伺うことが出来た。
それによると、ヒグマの目撃情報があったときに一番大事なことは、そのクマが「問題熊か非問題熊なのか」ということなのだ。
「問題熊」とは人間社会のうま味を味わってしまった熊のことで、こうなると人間からえられる食物などを求め、人間を恐れないのだ。こうなると可哀想だが危険な存在なので、もう処分せざるを得ない。
これに対して「非問題熊」はその反対で、自然の中で暮らしているだけで人間やその社会を恐れ、逃げ出して行く存在なので人間に危害を加える心配はほとんどない存在である。
この見極めが大事なのだが、その時は園内でゴミ箱をあさった形跡もなかったのと、足跡や移動の痕跡が南から一直線にやってきて一直線に帰っていったことが伺えた。そのため専門家の見立ては、「若い雄熊は独立する際にテリトリーを広げるために一日に20~30kmも歩くことがあって、その典型的な行動パターンです。また園内を見る限り問題熊である様子もない」とのことだった。
翌日にアドバイザーとして来てくれたハンターの方も現場を一目見るなり「ああ、もうこの辺りにはいないね」といともあっさりと言ったものだった。
いないことを証明するというのは難しいものだが、専門家の見立てを信じるのが一番と確信した。
* * * *
次には開園のためにどうするか、ということだが、危機管理上の対応としては、「出来うる最大限のことをする」というのが鉄則である。
これは軽々しい対応ですませようとしたときに、もしも再び熊が現れたりしたら「判断が甘かったのではないか」と批判を受けてしまうのに対して、「もうとりあえずはこれ以上のことは出来ない」というくらいの対応をして「そこまでやるのですか」と感じてくれれば、再び熊が現れても「そこまでやったのだから、相手は動物で仕方がない」という考えに至りやすい、ということである。
予算もけちらずに大盤振る舞いをしても大丈夫である。外部から「そんなにしなくても良いのでは」という声には「利用者の安全第一」という考え方の方が支持されるだろう。
このときには、「ゴミ箱を全部鉄製に変える」、「園内の一斉清掃で空き缶を全て拾う」、「主要な園路沿いを10mで草刈りをして、園路際に隠れる場所をなくす」、「青少年宿泊施設の周りに有刺鉄線を張り巡らせる」、「熊鈴、熊スプレー、なたの大量購入」などを措置を矢継ぎ早に行って、その間の巡視結果などを持ち寄って、警察・区役所・開発建設部などからなる対策会議へ報告して、開園への反対意見がなかったことで開園に導いたのだった。
これらの対策の中では熊専門家に言わせると「有刺鉄線はくぐると毛を引っかけてくれるので通過した証拠として分かるということはありますが、基本的には熊には効きません。かれらの剛毛には棘が刺さらないんです」とのことだったが、気休めくらいにはなったろう。
結局開園するか閉じるかは、現場の所長の判断が全てなのでプレッシャーが大きいが、利用者が安全と感じてくれなければ開けるだけのことには意味はないのである。
結局このときにはこれらの対策全てを講じて会議を開催するのに9日間を有してしまったわけだが、このときの記録は報告書としてまとめて事務所に残しておいたため、事務所に電話をしてみたところ「参考にしています」とのことだったので、まああのときの知見も少しは役に立ったのだろう。
* * * *
熊の専門家と一緒に園内を歩きながら「山の中で熊にあったときはどうすればよいのですか?」と一番興味のある質問をしてみたところ、返ってきた答えは「その質問は、『町の中で歩道に立っているところへダンプカーが突っ込んできたらどうしたらよいですか』という質問に似ています」というものだった。
「それはどういう意味ですか?」
「ダンプカーにはねられるとしたら、頭を守るとか、背中から受け身をするなどということが多少は効果的かも知れませんが、そういうことを考えるよりはまず交通ルールを守るとか、歩道でもぼーっとせずに周囲に気を配るとか、あまり車道に近寄らない、といった方法でダンプが突っ込んで来るというリスクは簡単に軽減されることでしょう」
「なるほど」
「熊に出会って殺されるということはリスクとしてとらえられるべきで、リスクである限り確率的に低い確率に抑えることで現実的な事故は防げると考えるべきでしょう。年間に何千人もが交通事故では死んでいますが、熊に殺されるという事故は年にほんのわずかではありませんか。熊に会って殺されるというのは、交通事故よりはずっと確率の低いリスクなのです」
「ではどういう形でリスクを低く出来るのでしょう」
「それが良く言われるように、山の中にはいるときは熊鈴やラジオをつけて人間の存在を知らせるということが一番です。お互いが静かに歩いていて、曲がり角で突然ばったりと出会うというのは双方にとって一番の不幸なのです」
「問題熊でなければ、音を聞いたら逃げるものなのですね」
「そのとおりです。彼らだって怖い目には遭いたくないものです。しかし人間の行動が彼らを問題熊にしてしまうのです。山の中にジュースの缶を捨てたりすると、そのなかのわずか数滴の甘い汁が、彼らに『これはなんとすばらしいものだろう』と思わせてしまうのです。どうか彼らを不幸にしないでください」
* * * *
我々人間も自然の恩恵を受けて生きている限り、自然との付き合い方という教養を常に身につけていたいものだ。
同時に、現場にあっては危機管理ということを常に念頭に置く必要がある。現場の緊張感を大本営である作戦本部は常に想像出来なくてはならないのだ。
正論だが杓子定規な指示は有害で無益と知るべきである。滝野公園の無事故を祈るばかりである。

新聞報道では「前回は1999年にクマが目撃されて閉園した」と書かれているが、その時の所長はかくいう私である。ヒグマ対策は危機管理の結晶である。
今日は、
■思い起こせば~滝野公園のヒグマ事件 の1本です。
【思い起こせば~滝野公園のヒグマ事件】
もう6年も前のことだが、私が滝野公園事務所の所長をしていたときの同じ9月に起こったのがヒグマ発見事件である。
そのときはまだ中心ゾーンが未開園で、現在のカントリーガーデンに草花を植える工事の真っ最中だったのだが、中央口の駐車場南側の斜面を大きな黒い動物がのそのそと上がって行くところを、駐車場に止めて休憩中のバスの運転手さんが発見して、管理事務所に連絡をくれたのだった。
「犬の見間違いでは?」という希望も、目撃者である運転手さんはかつて本物のクマを見たことがあって、「間違いない」ということで臨時閉園を決断したのだった。後から植栽工事に従事してくれていたおばちゃんたちに聞いてみたところ、「ああ、大きな犬が通りました」ということだったので、ぞっとしたものだ。
とりあえず臨時閉園をしたものの、この状態から一体どうやったら開園にこぎ着けられるかということで大いに悩んだのだった。
まずはクマの専門家のお話を聞くのが一番と、知人のつてで専門家からお話を伺うことが出来た。
それによると、ヒグマの目撃情報があったときに一番大事なことは、そのクマが「問題熊か非問題熊なのか」ということなのだ。
「問題熊」とは人間社会のうま味を味わってしまった熊のことで、こうなると人間からえられる食物などを求め、人間を恐れないのだ。こうなると可哀想だが危険な存在なので、もう処分せざるを得ない。
これに対して「非問題熊」はその反対で、自然の中で暮らしているだけで人間やその社会を恐れ、逃げ出して行く存在なので人間に危害を加える心配はほとんどない存在である。
この見極めが大事なのだが、その時は園内でゴミ箱をあさった形跡もなかったのと、足跡や移動の痕跡が南から一直線にやってきて一直線に帰っていったことが伺えた。そのため専門家の見立ては、「若い雄熊は独立する際にテリトリーを広げるために一日に20~30kmも歩くことがあって、その典型的な行動パターンです。また園内を見る限り問題熊である様子もない」とのことだった。
翌日にアドバイザーとして来てくれたハンターの方も現場を一目見るなり「ああ、もうこの辺りにはいないね」といともあっさりと言ったものだった。
いないことを証明するというのは難しいものだが、専門家の見立てを信じるのが一番と確信した。
* * * *
次には開園のためにどうするか、ということだが、危機管理上の対応としては、「出来うる最大限のことをする」というのが鉄則である。
これは軽々しい対応ですませようとしたときに、もしも再び熊が現れたりしたら「判断が甘かったのではないか」と批判を受けてしまうのに対して、「もうとりあえずはこれ以上のことは出来ない」というくらいの対応をして「そこまでやるのですか」と感じてくれれば、再び熊が現れても「そこまでやったのだから、相手は動物で仕方がない」という考えに至りやすい、ということである。
予算もけちらずに大盤振る舞いをしても大丈夫である。外部から「そんなにしなくても良いのでは」という声には「利用者の安全第一」という考え方の方が支持されるだろう。
このときには、「ゴミ箱を全部鉄製に変える」、「園内の一斉清掃で空き缶を全て拾う」、「主要な園路沿いを10mで草刈りをして、園路際に隠れる場所をなくす」、「青少年宿泊施設の周りに有刺鉄線を張り巡らせる」、「熊鈴、熊スプレー、なたの大量購入」などを措置を矢継ぎ早に行って、その間の巡視結果などを持ち寄って、警察・区役所・開発建設部などからなる対策会議へ報告して、開園への反対意見がなかったことで開園に導いたのだった。
これらの対策の中では熊専門家に言わせると「有刺鉄線はくぐると毛を引っかけてくれるので通過した証拠として分かるということはありますが、基本的には熊には効きません。かれらの剛毛には棘が刺さらないんです」とのことだったが、気休めくらいにはなったろう。
結局開園するか閉じるかは、現場の所長の判断が全てなのでプレッシャーが大きいが、利用者が安全と感じてくれなければ開けるだけのことには意味はないのである。
結局このときにはこれらの対策全てを講じて会議を開催するのに9日間を有してしまったわけだが、このときの記録は報告書としてまとめて事務所に残しておいたため、事務所に電話をしてみたところ「参考にしています」とのことだったので、まああのときの知見も少しは役に立ったのだろう。
* * * *
熊の専門家と一緒に園内を歩きながら「山の中で熊にあったときはどうすればよいのですか?」と一番興味のある質問をしてみたところ、返ってきた答えは「その質問は、『町の中で歩道に立っているところへダンプカーが突っ込んできたらどうしたらよいですか』という質問に似ています」というものだった。
「それはどういう意味ですか?」
「ダンプカーにはねられるとしたら、頭を守るとか、背中から受け身をするなどということが多少は効果的かも知れませんが、そういうことを考えるよりはまず交通ルールを守るとか、歩道でもぼーっとせずに周囲に気を配るとか、あまり車道に近寄らない、といった方法でダンプが突っ込んで来るというリスクは簡単に軽減されることでしょう」
「なるほど」
「熊に出会って殺されるということはリスクとしてとらえられるべきで、リスクである限り確率的に低い確率に抑えることで現実的な事故は防げると考えるべきでしょう。年間に何千人もが交通事故では死んでいますが、熊に殺されるという事故は年にほんのわずかではありませんか。熊に会って殺されるというのは、交通事故よりはずっと確率の低いリスクなのです」
「ではどういう形でリスクを低く出来るのでしょう」
「それが良く言われるように、山の中にはいるときは熊鈴やラジオをつけて人間の存在を知らせるということが一番です。お互いが静かに歩いていて、曲がり角で突然ばったりと出会うというのは双方にとって一番の不幸なのです」
「問題熊でなければ、音を聞いたら逃げるものなのですね」
「そのとおりです。彼らだって怖い目には遭いたくないものです。しかし人間の行動が彼らを問題熊にしてしまうのです。山の中にジュースの缶を捨てたりすると、そのなかのわずか数滴の甘い汁が、彼らに『これはなんとすばらしいものだろう』と思わせてしまうのです。どうか彼らを不幸にしないでください」
* * * *
我々人間も自然の恩恵を受けて生きている限り、自然との付き合い方という教養を常に身につけていたいものだ。
同時に、現場にあっては危機管理ということを常に念頭に置く必要がある。現場の緊張感を大本営である作戦本部は常に想像出来なくてはならないのだ。
正論だが杓子定規な指示は有害で無益と知るべきである。滝野公園の無事故を祈るばかりである。

多様性をどのように受け入れていくのかはこれからのわが国にとって極めて重要な課題です。
特に一神教であるキリスト教文化には重要だったのだと思います。
日本も多神教なのですが、多神教というのは日本の神様がたくさんいると言うことで、他の国の神様は多神教としては受け入れないと言うことでしょうか。
自国の誇りのこだわりと、良いものは受け入れるという柔軟性のバランスが問題です。