今度の土曜日に予定しているおやじの会の忘年会用に注文していた蕎麦粉が届きました。私の一番好きな江丹別の蕎麦です。
週末は美味い蕎麦をふるまいましょう。
【読書とは何か】
「積ん読(つんどく)」をyahooの辞書で検索したところ、大辞林で「『積んで置く』に言いかけた洒落。書物を買い集めるだけで、読まずに積み重ねておくこと」と出ていました。洒落でも、「積ん読」はもはや日常の日本語として認められているんですね。
私自身は活字中毒者だとは思っていないのですが、「本との出会いは一期一会」という思いが強いのか、ふらふらと本屋さんを練り歩こうものなら、本がたくさん並んでいる姿を見せてもらっていることや、立ち読みのお礼のつもりでつい一冊くらい本を買ってしまいます。
言い訳として「本は腐らない」とか「休みになったら読む」というのがありますが、挙げ句の果ては「引退したら読む」という超長期的な戦略までが本を買っておくことの理由になっているのです。
三十代の頃には、若いときにいろいろな経験をしておく意義を、「二十歳で旅行に行けば、八十歳まで生きるとしてあと六十年間もの間その思い出を楽しむことが出来る。それが六十歳で旅行に行ったのならば、思い出を味わえるのは二十年間しかない。だから早い時期にいろいろな経験をしておくと良い」などと言っていたものです。
読書もまた同じで、早い時期に読んで先達の知恵に触れておけば、先人達と同じ過ちをせずに済むだろうし、書物を読むということは、時代の違いで会えなかった人達に会えると言うことだから、進んで書を読むべし、と思っているのです。
しかしながら、何事につけ一つの道を行こうと思えば、基礎から発展、応用という順を追わなくてはならず、それにはまた一定の時間もかかるものですし、読書も又しかり。
日本語の基礎を身につけ、単語を覚え、言葉をとりまく歴史や文化、背景などを身につけるには相当の読書あるいは人間を磨く訓練をしなくてはなりません。
幾ら「この本が良いでしょう」と良書を勧められても、それらの訓練を経ないと理解が深まらないということもあるのです。そう思うと全く今生の人生は短い。
* * * *
さて、そんな私が最近やっと巡り会って、日々わくわくしながら熟読玩味しているのがいつかもご紹介した佐藤一斎先生の「言志録」シリーズ全四巻です。
その言志録の第二巻に相当する「言志後録(川上正光訳注 講談社学術文庫275)」に「書は選び熟読すべし」という項がありました。佐藤一斎先生は読書をどう考えているのでしょうか。
曰く「余は弱冠前後、鋭意書を読み、目、千古を空しゅうせんと欲せり」つまり「自分は二十歳前後の頃に、一生懸命読書をして千古以来の本を読み尽くしたいと思った」と言います。
以下意味だけ抜き出すと「三十歳を過ぎて、そのやり方を反省して、外にばかり思いを馳せることを戒めて、内に省みるようにした。するとこのやり方の方が聖賢の学に背かないことを覚った」とあります。
さらに「今はもう年老いた。少壮時代に読んだ本は半分以上も忘れてしまい、ぼうとしてまるで夢のようである。少しばかり心に残っているものも、まばらでまとまっていない。そう考えるとますます半生を無用なことに力を費やしたことを後悔している」とあります。
そして「今になって考えてみると、書物はむやみに読んで良いものではない。必ず良く選択して、熟読するがよい。ただ肝要なことは、読書して得た知識を一生涯十分応用することである。後世の人たちよ、私の経験した失敗を繰り返す勿かれ」と続きます。
佐藤先生をもってしても、このように考えるのならば、凡百の私たちは一体どうなる事やら。しかしこれもまた立派な先達からの時空を越えたメッセージでしょう。
ある人が言った言葉に、「良書を読むな。最良の書を読め」というのがあるそうです。
深いですね。さて、積んである本は最良の書であったかどうか。うーむ…
週末は美味い蕎麦をふるまいましょう。
【読書とは何か】
「積ん読(つんどく)」をyahooの辞書で検索したところ、大辞林で「『積んで置く』に言いかけた洒落。書物を買い集めるだけで、読まずに積み重ねておくこと」と出ていました。洒落でも、「積ん読」はもはや日常の日本語として認められているんですね。
私自身は活字中毒者だとは思っていないのですが、「本との出会いは一期一会」という思いが強いのか、ふらふらと本屋さんを練り歩こうものなら、本がたくさん並んでいる姿を見せてもらっていることや、立ち読みのお礼のつもりでつい一冊くらい本を買ってしまいます。
言い訳として「本は腐らない」とか「休みになったら読む」というのがありますが、挙げ句の果ては「引退したら読む」という超長期的な戦略までが本を買っておくことの理由になっているのです。
三十代の頃には、若いときにいろいろな経験をしておく意義を、「二十歳で旅行に行けば、八十歳まで生きるとしてあと六十年間もの間その思い出を楽しむことが出来る。それが六十歳で旅行に行ったのならば、思い出を味わえるのは二十年間しかない。だから早い時期にいろいろな経験をしておくと良い」などと言っていたものです。
読書もまた同じで、早い時期に読んで先達の知恵に触れておけば、先人達と同じ過ちをせずに済むだろうし、書物を読むということは、時代の違いで会えなかった人達に会えると言うことだから、進んで書を読むべし、と思っているのです。
しかしながら、何事につけ一つの道を行こうと思えば、基礎から発展、応用という順を追わなくてはならず、それにはまた一定の時間もかかるものですし、読書も又しかり。
日本語の基礎を身につけ、単語を覚え、言葉をとりまく歴史や文化、背景などを身につけるには相当の読書あるいは人間を磨く訓練をしなくてはなりません。
幾ら「この本が良いでしょう」と良書を勧められても、それらの訓練を経ないと理解が深まらないということもあるのです。そう思うと全く今生の人生は短い。
* * * *
さて、そんな私が最近やっと巡り会って、日々わくわくしながら熟読玩味しているのがいつかもご紹介した佐藤一斎先生の「言志録」シリーズ全四巻です。
その言志録の第二巻に相当する「言志後録(川上正光訳注 講談社学術文庫275)」に「書は選び熟読すべし」という項がありました。佐藤一斎先生は読書をどう考えているのでしょうか。
曰く「余は弱冠前後、鋭意書を読み、目、千古を空しゅうせんと欲せり」つまり「自分は二十歳前後の頃に、一生懸命読書をして千古以来の本を読み尽くしたいと思った」と言います。
以下意味だけ抜き出すと「三十歳を過ぎて、そのやり方を反省して、外にばかり思いを馳せることを戒めて、内に省みるようにした。するとこのやり方の方が聖賢の学に背かないことを覚った」とあります。
さらに「今はもう年老いた。少壮時代に読んだ本は半分以上も忘れてしまい、ぼうとしてまるで夢のようである。少しばかり心に残っているものも、まばらでまとまっていない。そう考えるとますます半生を無用なことに力を費やしたことを後悔している」とあります。
そして「今になって考えてみると、書物はむやみに読んで良いものではない。必ず良く選択して、熟読するがよい。ただ肝要なことは、読書して得た知識を一生涯十分応用することである。後世の人たちよ、私の経験した失敗を繰り返す勿かれ」と続きます。
佐藤先生をもってしても、このように考えるのならば、凡百の私たちは一体どうなる事やら。しかしこれもまた立派な先達からの時空を越えたメッセージでしょう。
ある人が言った言葉に、「良書を読むな。最良の書を読め」というのがあるそうです。
深いですね。さて、積んである本は最良の書であったかどうか。うーむ…

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