『げんきな日本論 橋爪大三郎×大澤真幸』(講談社現代新書)を読みました。
現代日本は経済的にはかつてのような勢いがない反面、観光や和食などでは世界のどの国にも似つかない独自性を発揮しているようにも見えます。
しょげるほどでもないけれど、自慢するには何を自慢したらよいのやら。
そんなときは、我が国の歴史をつぶさに勉強してみて、世界の標準とどのあたりが違ってきた結果、今日の姿になっているのかを考えてみるのが良いでしょう。
そんな日本の姿へのアプローチにもってこいなのが、この一冊です。
社会学者である橋爪大三郎さんと大澤真幸(おおさわ・まさち)さんの二人が、橋爪さんが設定した18のテーマについて語り合う対談形式で進んでゆく内容はそれほど難しくなく、それでいてときどき「そうだったのか!」と膝を打つような日本論が出てきて感心してしまいます。
一例が、日本の縄文時代と言う不思議に長く続いた時代のこと。
世界史の教科書に出てくるような文明が生まれた地帯と言うのは、かつては豊かな森林に恵まれた土地柄だったのが、人間が集まり住むようになって次第に森林を失って不毛な土地になってしまいました。
逆に森林が残ってきた土地と言うのは、ジャングルのように人間が大量には住めない未開の場所であった。日本のように、人間が大勢住んでいるけれど森林が豊かにあるというのはおよそ日本だけだ、ということをまず考えなくてはならない。
そして、自然が人間を支える力が弱いところでは、人間の方が支えてくれる自然を目指して移動して歩くのが世界の中でのフツーだということ。
人類の歴史の中では農業による作物生産力が飛躍的に向上して初めて人間は定住をするようになるのですが、日本では縄文時代と言う、農業が全く未発達な段階ですでに定住を始めている。
これは照葉樹林と言う豊かな自然があったために動かなくても良い生活を送ることができたというのです。
さらに、日本では縄文時代から土器が盛んにつくられました。これは定住する生活だからこそ作られたもの。移動するならこんなに重いものはもって運べませんからね。
土器は定住の結果作られたもので、農業が発達してからつくられたものではない。それも日本ならではの歴史なんだと。面白いですねえ。
◆
話題は古代から中世、近世へと続いていきます。
「なぜ日本には、源氏物語が存在するのか」という問での対談では、「カタカナはお経を読み上げるときの発音として僧侶が使い、ひらがなは女性が中心になって用いる文化ができた」と考えています。
中世貴族社会になって、男女のコミュニケーションを図るためには和歌を詠んでそれをお互いに届けあうようなことが、現代の携帯メールのように流行しました。
それで女性が文字を書かなくてはならない必要が生じ、それがひらがな文化になっていったんだと。
このひらがな文字が確立した平安時代は今からおよそ千年前のことですが、現代日本人でもちょっと勉強すれば千年前の文学が読み書き出来て味わうことができる。
こんなことができるのは、漢字文化の中国を除くとほとんど例がない。これによって日本は文化的アイデンティティが確立したと言って良いのじゃないか。
◆
こんな対談が延々と続いているのを読んでいると、バーか何かで面白い話をしている二人連れの話に聞き耳を立てているような気がしてきます。
お気楽で難しくなく、それでいて今の自分につながる日本人らしさの源がなんであるかということのヒントが満載の『げんきな日本論』。
当たり前を疑ってみると、日本人って面白いな、と思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます