朝から風雪が強く荒れ模様の天気です。九州の友人からも雪かきで大変だ、というメールが届きました。みかん農家が心配ですね。
さて今日は
■雪かきという秩序 の1本です。
【雪かきという秩序】
朝から風雪模様。雪が断続的に降るときの雪かきは、充分に降りたまってからやる場合と、とにかく一度やっておいて後々楽にする場合の両方があるが、今日は後者。まとまった量の雪が降りました。
札幌のわが家の雪かきは、家の前の方の雪を敷地内の裏庭まで運んでそこに溜めておくというやり方をしている。北海道や東北地方の雪の密度は、50~80kg/m3くらいと言われていて、降ったそのままではふかふかしているものだ。そのまま狭い裏庭に捨てたのでは多少の圧密が加わったとしても、体積が大きくて狭い敷地はたちまちいっぱいになるので、踏み固めたりして圧縮したりするものだ。
一言に雪かきと言ってもいろいろあるのである。
以前も書いたけれど、雪国の道路除雪は、大きな道路は別として住宅街の細い街路は道路部分の雪を左右に振り分けるか、せいぜい空き地にちょっと溜めるだけなので家の敷地の間口分は固い雪が山のように残る。
ここから先は住民が自らの責任で処理するということになるのだけれど、結構大変だという声と不満は道路管理者への苦情という形で訪れる。
本当は住んでいる人間の力でやらなくてはならない事であって、住民がお金を出し合って専門家の力を頼んでより効率的にやってもらっている、というだけのことのはずだ。
自分の家の前の道路は他人も通るけれど、本当は自分の生活のために役立つ公共の施設なのに、いつから迷惑施設みたいになってしまったのだろうか。
* * * *
土木の世界の大先生が北海道を応援してくださる意味で講演してくださったのを聞いた事があったけれど、印象的だった一言は、「北海道の有名な風景は、ただただ雄大な自然というものが多くて、人間の営みが写し出されない事が多いですね。ヨーロッパの美しい風景というのは、建物にしても農地にしても、多くは人間の営みの美しさを表現する事が多いのです。北海道でも人が自然の中にあるという美しさを考えてみてはいかがですか」というものだった。
確かに山や川、森や草花などは人間の営みにかかわらず美しいものだし、そういう風景を切り取る写真の世界は人の力を写し出す事を避けているように見受けられる。歴史的な建造物などは人間の知恵と力の結晶だけれど、歴史の浅い北海道にはそんなものも少なくて、雄大な自然の方が絵になるという事か。
しかし実は人間の営みの美しい部分は、建造物や農業風景だけではなくて、秩序ある維持管理をしている様にこそ焦点が当てられるべきだと思う。
自然というものは人間社会にあっては、やりたい放題に無秩序をばらまくものだ。時としてその中に美しさを見出す事があったとしても、人間社会はその無秩序を秩序立て続けるところに美しさがある。
日本語にある「掃き清める」という言葉には、掃くだけでなくその先に清らかな空間を維持しようとする気持ちが込められている。落ち葉がいやでも人間は風を止める事は出来ない。できることはせいぜい、落ち葉を片付け続ける事くらいだ。
北海道の冬も、雪を降らせる天を呪う人はいないのにそれを秩序立てようとする人間の力を呪う人が多いというのは面白い。
住宅街でも、地域が一体となって整然と除雪してある道路を歩くのは見た目にも実に気持ちがよいものだ。まるで京都の古いお寺の石庭の砂目地を見るようだ。雪かきにも確かに美学がある。
人間社会の生活には心根が美しければ、形となって現れる美があるものだ。案外気づいていない事かも知れないけれど。
さて今日は
■雪かきという秩序 の1本です。
【雪かきという秩序】
朝から風雪模様。雪が断続的に降るときの雪かきは、充分に降りたまってからやる場合と、とにかく一度やっておいて後々楽にする場合の両方があるが、今日は後者。まとまった量の雪が降りました。
札幌のわが家の雪かきは、家の前の方の雪を敷地内の裏庭まで運んでそこに溜めておくというやり方をしている。北海道や東北地方の雪の密度は、50~80kg/m3くらいと言われていて、降ったそのままではふかふかしているものだ。そのまま狭い裏庭に捨てたのでは多少の圧密が加わったとしても、体積が大きくて狭い敷地はたちまちいっぱいになるので、踏み固めたりして圧縮したりするものだ。
一言に雪かきと言ってもいろいろあるのである。
以前も書いたけれど、雪国の道路除雪は、大きな道路は別として住宅街の細い街路は道路部分の雪を左右に振り分けるか、せいぜい空き地にちょっと溜めるだけなので家の敷地の間口分は固い雪が山のように残る。
ここから先は住民が自らの責任で処理するということになるのだけれど、結構大変だという声と不満は道路管理者への苦情という形で訪れる。
本当は住んでいる人間の力でやらなくてはならない事であって、住民がお金を出し合って専門家の力を頼んでより効率的にやってもらっている、というだけのことのはずだ。
自分の家の前の道路は他人も通るけれど、本当は自分の生活のために役立つ公共の施設なのに、いつから迷惑施設みたいになってしまったのだろうか。
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土木の世界の大先生が北海道を応援してくださる意味で講演してくださったのを聞いた事があったけれど、印象的だった一言は、「北海道の有名な風景は、ただただ雄大な自然というものが多くて、人間の営みが写し出されない事が多いですね。ヨーロッパの美しい風景というのは、建物にしても農地にしても、多くは人間の営みの美しさを表現する事が多いのです。北海道でも人が自然の中にあるという美しさを考えてみてはいかがですか」というものだった。
確かに山や川、森や草花などは人間の営みにかかわらず美しいものだし、そういう風景を切り取る写真の世界は人の力を写し出す事を避けているように見受けられる。歴史的な建造物などは人間の知恵と力の結晶だけれど、歴史の浅い北海道にはそんなものも少なくて、雄大な自然の方が絵になるという事か。
しかし実は人間の営みの美しい部分は、建造物や農業風景だけではなくて、秩序ある維持管理をしている様にこそ焦点が当てられるべきだと思う。
自然というものは人間社会にあっては、やりたい放題に無秩序をばらまくものだ。時としてその中に美しさを見出す事があったとしても、人間社会はその無秩序を秩序立て続けるところに美しさがある。
日本語にある「掃き清める」という言葉には、掃くだけでなくその先に清らかな空間を維持しようとする気持ちが込められている。落ち葉がいやでも人間は風を止める事は出来ない。できることはせいぜい、落ち葉を片付け続ける事くらいだ。
北海道の冬も、雪を降らせる天を呪う人はいないのにそれを秩序立てようとする人間の力を呪う人が多いというのは面白い。
住宅街でも、地域が一体となって整然と除雪してある道路を歩くのは見た目にも実に気持ちがよいものだ。まるで京都の古いお寺の石庭の砂目地を見るようだ。雪かきにも確かに美学がある。
人間社会の生活には心根が美しければ、形となって現れる美があるものだ。案外気づいていない事かも知れないけれど。