駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『ロッキー・ホラー・ショー』

2022年02月20日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 PARCO劇場、2022年2月17日18時。

 友人の結婚式の勢いに乗せられて、婚約してしまったブラッド(小池徹平)とジャネット(昆夏美)。恩師に報告しようと嵐の夜に車を走らせていると、突然パンク。助けを求めて古い城にたどり着くと、現れたのは不気味な執事リフラフ(ISSA)と使用人のマジェンタ(フランク莉奈)、コロンビア(峯岸みなみ)。さらにボンテージに網タイツの城の主フランク・フルター(古田新太)が登場し…
 脚本・作詞・作曲/リチャード・オブライエン、演出/河原雅彦、翻訳/高橋ヨシキ、訳詞・音楽監督/ROLLY、振付/MIKEY(from東京ゲゲゲイ)、TACCHI、東京ゲゲゲイ(MARIE、MIKU、YUYU)。1973年ロンドン初演、78年には『ロッキー・ホラー・ピクチャー・ショー』として映画化もされたミュージカル。日本初演は86年。2011年にいのうえひでのり演出、古田新太主演で上演、17年に河原雅彦による新演出で上演。5年ぶり三度目にしてフランク・古田ー最終公演。

 映画は未見。タイトルだけ知っていていつか観てみたいなと思っていましたが、メンツが良いのでノー知識でチケットを取りました。前回公演はミュージシャン揃いだったようですが、今回はミュージカル俳優揃いでしたもんね。
 映画は「世界初のカルト映画」なんと言われてもいるもののようで、いわゆる応援上映みたいなムーブメントがずっと続いているんだそうです。それを模して、演劇というよりはライブ、むしろ「催しもの」というコンセプトで作られている作品だそうです。まあ、別にそれはいいです。私はノリが悪い人間ですが、必要があれば合わせられるタイプのつもりですからね。
 ただ、劇場ロビーの物販でペンライトとか、歓声NGなので代わりに録音された歓声を鳴らせるグッズとかが売られていて、前回や前々回公演からのリピーターも多いのかもしれませんが客層が若く男性もとても多く、そして開演前も幕間も客席にはずっとロックが流れていてうるさくて、客はハイになってみんな連れとわあわあしゃべってるんですよ…このご時世にこれはほとんど恐怖です。というかこれこそがホラーですよ…しかもスタンディング奨励場面があるので、それを見越してか不精してかコートや荷物を椅子の背側においてその前に座る観客の多いこと多いこと。この劇場の中通路から後ろは角度があって視界はそれほど遮られないため、なんとか容認しましたがこれもちょっとしんどかったです。そして振付講座まである…右向いたり左向いたりして隣とぶつかるっつーの、絶対クラスター出ないわけないじゃんって感じなんですけど。高齢の出演者が多いから公演が延期できないとか中止、中断ばかりしていたら劇場がつぶれちゃうとか、振付講座で冗談めかして言っていましたが、人命より大事なものはないと思うので笑いづらかったです。
 そんなこんななロー・テンションで観ましたが、なんせ役者のスキルがハンパないので歌って踊っても一音も狂わずとても耳福。ただし歌詞が一言も聞き取れないのでした。バンド(バンドマスター/ROLLY)の音量のせいなのか音響(音響/大木裕介)のせいなのかよくわかりませんでしたが…まあものの見事に何も聞き取れない、なかなかない経験でした。プログラムにこと細かくキーワード解説したページがありましたが、何も聞き取れないんだからまったく意味ないですよねえ…でも歌が上手いのはわかるんだからホントたいしたものです。楽曲もポップでわかりやすいのでそれは楽しい。そしてたいした話じゃないので(笑)ストーリー展開にはついていけるから、それはそれでいいのです。しかし不思議な舞台であることよ…
 しかし、二幕になって私はさらにおもしろいことに気づきました。プログラムにも細かいあらすじが書いてあるわけではないのでよくはわからないのですが、ブラッドとジャネットの恩師スコット博士(岡本健一。ところでこのネーミングはもしかして韻が踏んであるのかな…)はUFOの研究者ということで、後半のお話は急にSFめいて?きます。私は古田新太が映画より先に『はいからさんが通る』の欄外コメントで知ったというのと同じでジギーもトランシルヴァニア星雲もそれで知っていたので、フランクが開こうとする「フロアショウ」というのもUFO召還儀式みたいなものに当たるのかな、などとニヤニヤ楽しく観ていたのですよ。簡単かつ乱暴に言うとLGBTQの生きづらさ、ここではないどこかで生きたいみたいな思いが、こういう宇宙人設定なんかに投影されていると思うので、そういう話でもあるのかな、と観ていたんですね。でも逆に、どうもこのあたりで観客の多くは話の道筋を見失い、集中力が切れて退屈したのか、静かになるのがわかりました。曲になってもペンラも全然振られないし録音歓声も流れないのです。舞台は最後に、謎のままに、あるいはご都合主義的に、フランクが消えて静かに終わるのですが、そのあとカテコ絡みでフィナーレがあって、客席は再度スタンディングになって盛り上がって終わりました。で、それで騒いでああおもしろかったね、ってなったみたいですけど、みんなそれで本当にいいのかな?とちょっと思っちゃいましたよね。でも結局やっぱり「物語」がないと駄目なんじゃん、ってことなんじゃないの…?
 さらに帰宅してプログラムを読むと、これは「通過儀礼」の話でありアメリカの「純潔の消失」の物語で「アメリカン・ドリーム」の終焉を描いた作品だ、と原作者が言っているんですが、はっきり言ってミリも伝わっていないと思いました。というかブラッドとジャネットはアダムとイブにあたり、蛇がフランク博士ほかみんな、となるのでしょうが、「どんな人だって思春期を経るのですから、これが分からないという人は『ひとりも』いません。つい昨日まで子どもだったのに、今日はもう性的な存在になってしまう」というのは残念ながら現代日本人には全然伝わらない感覚だな、と痛感しましたね。だって二幕冒頭、フランクがジャネットのベッドに、次いでブラッドのベッドに行くくだりがあるんですが、客席の空気が固まるのが如実に感じられたんですよね。こういうセックス・ファンタジーを楽しむ、おもしろがる素養がない、というか準備が現代日本人は全然できていないのです(過去どうだったかは知りません。江戸時代とかはもっと奔放で成熟していたのかもしれません)。エッチなことはいけないこと、気恥ずかしいこと、隠さなくちゃいけないこと、淫靡なものだと思い込まされて育っているので、健全な性欲を認めることもできないしこうしたファンタジーを正視することもできないし、ジョークを笑うオトナの余裕もてんでないわけです。カップルで来ていても同性同士で来ていても、連れがある人は連れに自分の反応がどう伝わるかが怖くて固まっているのだろう空気を感じました。たとえ風俗に一緒に行くような仲の男性同士で来ていてもダメだと思いますね、とにかくそういうふうには成熟していないのです。私は誰はばかることなく笑いましたし、特にジャネット相手の時は毛布の動き方が生ぬるくてそれじゃ全然わかんないよとか考えたりしていましたけど、一方で気恥ずかしいはもちろん気恥ずかしかったです。昆ちゃんも小池くんもめっちゃ弾けてやっててすごくおもしかったですけど、全然伝わっていませんでしたね。そこから客席のトーンはどんどん落ちていったのです。
 コレ、ムリですよ。イヤ、難しいことはいいんだ、まぐれ当たりの奇跡なだけで名作とかでは全然ない作品なんだし楽しんでもらえればいいんだ、ってコンセプトはわかるけれど、でも観客があまりに幼稚で楽しみ方が稚拙で、そのひとりとして、役者やバンドや振付などのスタッフ含めて作品の持つポテンシャルの高さに私は謝りたくなるくらいだったのです。 私はロックもサイケもよくわからないし優しい人間ではないけれど、この作品が「汎銀河的な優しさ」を本質としている、というのはすごくわかる気がしました。SF者なので「汎銀河的なものの見方や考え方に慣れてい」るからです。翻訳者は「慣れていない」人でもこの作品でその優しさに触れられるのだ、とプログラムで語っていましたが、大半はわあわあ騒いで踊ってあーおもしろかったねでおしまいなだけで、汎も銀河もなんもなく帰っちゃっていたと思うんですよね…もったいないなあ。別に「自分だけはわかった」と通ぶりたいのではありません。でもなんかとにかくもったいないねじれ、ズレを感じたのです。別にもっと真面目にちゃんとやればよかったと言いたいわけではないんだけれど、とにかく二幕のあの微妙な空気は作品にとって不本意だったろうと思えるのです。
 まあ見るよりやりたい作品、みたいな言い方もされているし、それでいいならいいんですけれどね。実際みんなはっちゃけててすごく楽しそうでしたし。前々回公演でリフラフだった岡本健一がエディやスコット博士になるとか(そしてカテコでリフラフになって出てくる)、前回エディだった武田真治がロッキー・ホラーになるとか、古田新太の前に長くフランク・ローリーを演じたROLLYがバンドマスターで参加しているとか、そういうのってすごく素敵だと思いますし、笹本玲奈、ソニンと来ていたジャネットになった昆ちゃんとか、トップアイドルだったことは間違いないけどミュージカル女優としても断然イケるね推せるねってみーちゃんとか、ホント素晴らしかったです。今回お初の三人娘のバランスは完璧だったと思います。一見コドモに見えかねないコンパクトさの昆ちゃんと、長身でスレンダーでモデルばりのスタイルのフランク莉奈と、意外と肉感的なダイナマイトボディの持ち主のみーちゃん。ことにみーちゃんは薄っぺらいアイドル体型じゃないところがよかったし、それで歌えて踊れるんだからホント強いと思いました。ガンガン舞台の仕事するといいと思う。応援する、観に行く! まあそんなわけで、大人が本気がバカやるのがカッコいい、というのは一応伝わっていたかとは思うので、それならそれでいいのかもしれません。
 しかし改めて『怪物くん』ってよくできていたんだなあ、と思うな…異形の者として吸血鬼と狼男とフランケンシュタイン(の怪物)のどれに行くかどれが刺さるか、ってのは嗜好の方向性を計るいい設問なのかもしれません。
 ところでプログラムはめっちゃキッチュでお洒落でしたが、この材質のピンクの紙に青いインクの小さな文字は老眼にはかなりキツかったです…印刷が凸版で笑ったわ。珍しくないですかね?
 神奈川公演は結局中止になったんでしたっけ? 大阪、広島、北九州と回ってファイナル東京が月末まで。どうぞご安全に…!








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『天日坊』

2022年02月19日 | 観劇記/タイトルた行
 シアターコクーン、2022年2月16日17時45分。

 平家一門を都から追い落として、源頼朝に先んじて上洛した木曽義仲は、横暴な振る舞いの末に頼朝方の軍勢に討たれた。その死後、都では化け猫騒動が起き、修験者の観音院(片岡亀蔵)らが退治するが、その際に弟子の法策(中村勘九郎)は「生き延びよ」という不思議な声を耳にする…
 演出・美術/串田和美、脚本/宮藤官九郎。幕末に人気を博した河竹黙阿弥の歌舞伎を練り直して2012年に初演、その再演版。全2幕。渋谷・コクーン歌舞伎第18弾。

 コクーン歌舞伎、いくつか観た気でいたのですがこれが初めてだったのかしら私…めっちゃ楽しかったです。歌舞伎ってそもそもかぶいているものだと思うから、どのあたりがコクーン歌舞伎らしいかぶき方なのかわからないくらいでしたが(「虚空雲座」って表記、素敵ですよねえ)、現代の流行り言葉やジョークも交えつつ軽快に進む舞台で、わかりやすくとっつきやすく、とてもチャーミングなピカレスク・ロマンで、とてもおもしろかったです。
 原作はおそらくもっと大部な、そしてやや大味なもので、江戸時代や幕末の観客はそれを飲み食いしながら日がな一日観たような、そういう作品だったのではないかしらん。それをなんとか絞ってまとめて、さらに今回の再演では初演より30分ほど尺を巻いたそうです。でも「今風に言えば、承認欲求の物語。あるいは、好きじゃない言い回しですが、親ガチャの物語」とまとめてしまえるほどシンプルな、あるいは痩せたものにはなっていなかったと思います。おそらくもともとあったのであろう「人間だもの」と言いたくなるようなしょうもなさや、おかしみや悲しみが豊かに残った作品になっていたと思いました。
 確かに法策は産みの親も氏素性もわからぬみなしごで、でも拾ってもらえて育ててもらって、師匠もいい人で、そう不自由なく暮らしている、いい子でした。それとも17歳というのはもう大人かなあ、でもちょっと幼い、のほほんとした役作りになっていましたよね。でも、そんな汚れを知らぬおぼこい少年でも、お三婆(笹野高史)から娘が頼朝のご落胤を産んでいたと聞くと、その子供になりかわれるかな、と考えてしまう。そして婆を手にかけてしまう。根っからの悪人というわけではないのに、今の暮らしになんの問題もなく、自分はどこの誰だろうなんて今まで深く考えたこともほとんどなかったのに、何者かになろうとしてしまう、欲に目がくらんでしまう。その魔の差しっぷりがすごいです。
 でも人間なんてそんなものかもしれないな、と思わせるかのように、お話は素軽くひょいひょい進んでいく。悪いことやったるで!みたいな熱い気負いも、悪いことをしてしまった!みたいな重い罪悪感もない。いや法策はオタオタはするんだけれど、なんかちょっとのんびりしているというか、あまり悲壮感がないのです。勘九郎がまたそういうキャラにめっぽうハマり、上手いんです。だからノセられて観てしまう。この主人公が嫌いになれない、憎みきれない。さりとてどうにかしてあげたい、というほどにもならない。なんかやってることが、というか本人の心情の在り方がほややんとしていてしょうもないからです。腹をくくりきっていない、そこがまた人間臭い。
 彼に絡んでいく地雷太郎(中村獅童)もお六(中村七之助)も、けっこう雑に悪事を働くワルなんだけれど、これまた飄々としていて、悲壮感やワルをがんばっている感がない。仇討ちみたいなことも、口では言うけどそれほどの真剣さや執着がなさそうに見えます。行き当たりばったりのいい加減さが本当に人間臭いのです。これまた人ってそんなものかもしれないなあ、と思わせられてしまうのです。
 けれどお話は彼らをどんどん絡め取っていきます。詮議の場に出ていく三人の決まり方ったら、どこの組のトップトリオかと思いましたよ…! さらに大詰めの大立廻りの鮮やかさ、もう目が覚めるようでした。ことに七之助、本当にすごい! というか女形ってすごい!! これは普通の女優さんではできないでしょう。あんな重そうなお衣装で、あれだけ俊敏に動いて、体幹がものすごく強くてブレもせず美しく、バンバン魅せて、そして散っていく…圧巻でした。ハケはどこの『WSS』かと思いましたよ!(笑)捕手たちも素晴らしすぎました。
 さらにもう一押し、最後は主役の大立廻りで魅せまくる! 自分が何者か、自分が何をやっているのかわからなくなっちゃった法策が、泣き笑いしながら暴れまくる…おかしいやらもの悲しいやらアクションがすごすぎてあきれるやらで、胸が詰まりました。
 そして意外にも静かな幕切れ…美しい物語でした。

 暗転後に幕まで降りたのに、幕が上がったら勘九郎が板付きでまだ同じポーズを取っていたのは個人的にはやっぱり残念でした。ハケていてくれてよかったし、そこにいるにしてももう正面向いて猫抱いてニコニコしてたらよかったと思うんですよ、カテコなんだから! そこだけは本当にしょんぼりでしたが、あとは本当に大満足な観劇でした。舞台の使い方もとてもおもしろかったです。
 平蔵の小松和重とか、歌舞伎役者でない人が入っているのもとてもよかったと思います。あとバンドがとても素敵でした。こんなにトランペットを多用することもそうそうないような…とても効果的だったと思います(音楽監督/平田直樹、Dr・kyOn)。
 初演の千秋楽にはラストのトートみたいな(笑)お役をサプライズで勘三郎が演じ、それが彼の最後の舞台となったそうですね。「あれは頼朝なの?義仲なの?」「……頼朝でいきましょう」ってのもすごい。ちなみに私は観ていて義仲なのかなと思っていました。このエピソードは観劇後に帰宅してプログラムを読んで知ったので。シシィは最期にトートを見たわけですが、法策が見たのは誰なのか、誰を求めていたのか、これくらい定かではない。それすらあいまいなくらいに、自分は誰か、何を望んで生きているのかなんて本当はあいまいなことなのかもしれません。「その答えを探す旅こそが人生」というのは、ちょっと綺麗にまとめすぎた言葉だと思います。本編の、笑って泣けて驚いてワクワクしてざらりとしてほろりとしてぞっとして…というような揺さぶられた感情全部が、人生そのものなんじゃないかしらん、と観劇の醍醐味を味わったのでした。




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『マーキュリー・ファー』

2022年02月17日 | 観劇記/タイトルま行
 世田谷パブリックシアター、2022年2月3日18時半、15日18時半。

 暴力と略奪に支配され、荒廃した街。人々は幻覚をもたらす「バタフライ」の快楽で正気を麻痺させて生きている。エリオット(吉沢亮)とダレン(北村匠海)の兄弟は「バタフライ」を売買しながら、スピンクス(加治将樹)やローラ(宮崎秋人)と怪しげな仕事をして日々をつないでいる。ふたりは廃墟となったボロボロの部屋にやってきて、あるパーティの準備に取りかかるが…
 作/フィリップ・リドリー、演出/白井晃、翻訳/小宮山智津子。2005年初演、15年日本初演の再演。全1幕。

 初演の感想はこちら。その後の白井×リドリーの『ラディエント・バーミン』を観たときの記事はこちら
 大空さんの出演ニュースで再演を知ったときに、「イヤ私はおもしろく感じた記憶があるけれど、しかしかなりニッチな舞台だった気が…!? さすが大空さん、ホント仕事のセレクト半端ないよね…!」と震えたものでした。とはいえ内容はほとんど覚えておらず、自分のブログも斜め程度にも読まないようにして、ほぼまっさらで出かけてきました。
 初回は下手端で観て、二回目は上手寄りセンターブロックで観ました。そのせいもあったかもしれませんが…主にラストについて、初演も初回も二回目も、違った印象を受けました。以下完全ネタバレで語ります。
 初演では、私のブログによると、エリオットがダレンを撃ち殺し、次いで自分を撃って、爆撃がそのあとに来て轟音とともに暗転して終演…だったようです。でも今回のマイ初日、私はエリオットが自分を撃つところは見なかったしその銃声も聞きませんでした。ダレンを撃ち殺したあと、ほとんどすぐに爆撃の轟音が被さってきたように思いました。そしてマイ楽では、エリオットはダレンをも撃たなかったように見えました。ダレンがエリオットにしがみついているところに爆撃の轟音が被さって、エリオットはダレンの頭に銃を押しつけていたけれど銃声は聞こえず、ダレンも絶命して脱力するような仕草がないままに暗転したように思いました。
 これは、いずれが正しいのでしょうか。脚本にはどう描かれているのでしょうか。はっきり明言せずとも初演と違った印象を受けたような感想ツイートはいくつか見ましたが、やはり何かが変更されているのでしょうか。世田パブの客席は丸まってきゅっとしていて、トラムの客席はまっすぐフラットです。見え方、見えるものが席によって違うのかもしれません。照明も席によってだいぶ違って感じられました。トラムのときは上手寄りセンターブロックで観た記憶がある気がするんだけどな…壁沿いに立ち見がズラリいたことを覚えている気がするのです。
 まあそれはともかく、「ものすごく愛している、だからおまえを殺す」というようなふたりの呪文みたいな合言葉は、エリオットにとって誓いであり支えであり呪いだったのでしょう。私は観ていて『パーム』の、「世界はお前が生まれた時はじまって死んだ時に終わるんだ」という台詞を思い出しました。爆撃を知らされて、エリオットはいつ世界の終わりを予感したのでしょうか。戦争や、砂嵐などの天変地異や災害や騒乱、麻薬の紊乱で文化文明が崩壊していくさまを見て育ち、それでも聡明であり続けたエリオットには、ダレンより先に見えてしまったものがあったのでしょう。今度はもう逃げられない、ついに世界は終わるんだ、と。でも、自分の死後の世界なんて知ったこっちゃないのです。自分が死んだあとの世界が崩壊しようと関係ない。世界が終わるるというなら、それより先に死ぬ。死んで自分ごと世界を終わらせる。その前に弟も死なせてあげる。そうやって崩壊から逃げ切る。それが彼の愛なんだと思うのです。
 でも…彼が弟を殺さないように見えたら、自分も殺さないように見えたら…印象が、変わりません? 彼らがただ抱き合って立ち尽くして爆撃に巻き込まれただけに見えてしまうのは…彼らがかわいそうすぎません? 『パーム』の台詞は「だからその身体に熱量のあるうちは/……闘え……!」と続きます。エリオットがしたことも、そういったことではなかったの? 爆撃を前に、世界の終わりを前に、それでも戦って、先に自分たちの命を終わらせようとしたのではないの? そうすることで爆撃を無視し、無効化し、世界の崩壊に抗い、勝とうとしたのではないの…? それが虚しい戦いだったとしても。私たちしか見守っていない戦いだったとしても…
 舞台は二次大戦に負けたロンドンのような、あるいは三次大戦後のロンドンのような、そんな印象を受けました。シティでスーツ姿で働く金融マンもいれば、スラム化した街で怪しい麻薬の売買や怪しいサービスの仕事で生き延びるしかない者もいる、荒んだ、詰んだ世界。それでもエリオットとダレンは兄弟で、スピンクスとローラも兄弟で、スピンクスはエリオットたちの母、「お姫さま」(大空ゆうひ)の恋人というか保護者というかなんというか…で、要するに家族のようなつきあいでともに仕事をしている。そこに現れたナズ(小日向星一)はダレンとすぐに親友になる…人はいつでも、愛すること、つながることをやめられない。そうしなければ生きていけない生き物なのです。なのに世界はあまりに過酷すぎて、ついに崩壊を始めてしまう(その崩壊を引き起こすのもまた人間なのだけれど)。どこにも行けない、誰も生き残れない。もちろん人類が滅んでも地球は残るし世界は続き、なんの問題もないのでしょう。でもその人の世界はその人が死んだときに終わるのです。こんな世界に神様なんているの? いるなら何故こんなふうに人間を、世界を作ったの…? 誰にもなんにも問えないようなぼやぼやした、あるいはざらりとした想いを観客の胸に残して、舞台は轟音とともに終わるのでした。

 初演のナズやスピンクスはもう少し線が細いイメージがあった気がしますが…なんせ細かく覚えていないものですみません。でも、こんなに怒鳴り合ってばかりのようでも誰ひとり喉をつぶす気配もない達者ぶりが素晴らしい。ちゃんとコントロールされているんですね。暴力に関してもそうです。あれは逆に間違っても手や足が当たったりしていないと思う。冷静でないとできない演技なんだと思いました。 
 大空さんはそんな中の紅一点。これまたほぼ忘れていたので、こういう役か!と驚きました。でも階下のパブのステージで水色のきらきら光るドレスを着て歌う大空さんの母親は、それはそれは美しかったことでしょうね。そして優しく愛情深い母親だったに違いありません。そう思わせる豊かさがありました。エリオットやダレンというのは私にはアイルランド系の名前に思えます。彼らは別にユダヤだったわけではなくて、単なるミュージカル映画として『サウンド・オブ・ミュージック』を愛していたのかもしれません。
 何十回も言う「パパ」という台詞が全部ニュアンスが違って聞こえるのがさすがでした。フェスタでは若者たちがシャイでまだ仲良くなれていないと言っていたけれど、その後どうしたかな(笑)、みんなと仲良くなれているといいな。
 姫も歌った「Climb Every Mountain」の原曲がかすかに流れる中、轟音とともに暗転した舞台にゆっくりと明かりが戻り、舞台は空になっていて、セット(美術/松井るみ)のあちこちにある扉や窓から役者たちが現れてカーテンコールになる形で、ほっとしました。あれで兄弟が板付いていたままだったら私は本当に耐えられなかったと思いますよ…大空さんが黒メガネ(サングラスというより…(笑)てか大空さんの月影先生にスミカのマヤとか観たい)だったのはもったいない気もしましたが、加治さんに手を引かれていたのはキュートでした。
 世田パブでは1日2公演のみアンダースタディの池岡亮介がダレンで出た回があったそうですね。先日の『ヴェラキッカ』大阪公演でもスウィングの出番があったと聞きますし、こういうシステムももっと認知され活用されていくといいのでしょうね。福岡の大楽まで、どうぞご安全に。祈っています…!




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『二番街の囚人』

2022年02月12日 | 観劇記/タイトルな行
 赤坂RED/THEATER、2022年2月11日13時半。

 ニューヨークのイーストサイドにある高層マンションの一室に住むメル(村田雄浩)とエドナ(保坂知寿)はふたりの子供を育て上げ、それなりに格好のよい生活を営んでいると信じていた。ここ数日の夫の不調に気づいていたエドナは、辛抱強くその愚痴を聞くが…
 作/ニール・サイモン、翻訳/木村光一、演出/シライケイタ。全2幕。

 70年代の作品で、メルのモデルは当時の妻の伯父だそうです。ちょうど私と同い歳で、典型的な更年期の男性だなという印象でした。当時や今もそういう認識が世間にあるのかは謎ですが。これが神経質とか神経過敏とか繊細とか言われるなら私は鈍感な人間でよかったと思いましたし、私には当たる妻がいなくて幸いだったとも思いました。現代なら精神的DVだとして訴えられかねない案件だとも思います。が、わりと普通にあることなんでしょうねえ…それが夫婦だ、家族だと言われてしまえばそれまでなんですけれど。メルの三人の姉(広岡由里子、山口智恵、谷川清美。みんなめっちゃそれっぽくてめっちゃ上手い)と兄(篠田三郎。めっちゃええ声!)も心配してるんだかなんなんだか…ってちょっととんちんかんな距離感がいかにもそれっぽかったです。末っ子のメルは家族の人気者で可愛がられてしっかり者の自分は放置され早くから働かされた…と、功成り名遂げて実業家になってなお、メルに愚痴っちゃうハリーもとてもそれっぽいなと思いました。私も弟とこういう会話ならしたいです(笑)。
 というわけでコメディでは全然ない気がしましたし、コミカルともシニカルとも言えないままに話は進んでいるように私には見えました。ただ、オチは意外でした。ニューヨークも東京も同じようなものだと思うのだけれど、私は自分が住むこの都会にあまり屈託を持っていないということなのかもしれません。逆に言うとそこまで愛情や執着がないのかもしれない、何故なら私は住民としてマンション前の歩道の雪かきなんざ一度もしたことがないからです。それは一階の店舗か管理人さんの仕事か何かであって、自分がすべきことだと考えたことがない。当然スコップを買ったことすらありません、その用途がなんであれ。
 でも彼らは、雪かきを促すアナウンスを聞いて、スコップを隣人の殺害に使うのを思いとどまる。雪は静かに美しくはらはらと降り続け、やがて彼らの心も静まっていく。せつないような、微笑ましいような余韻を残して、舞台は暗転していったのでした。「都会で」「格好よく」暮らそうとすることがストレスの一部なのだとしても、他のどこへも行けない、ここで暮らしてきたしこれからも暮らしていくしかない…という、諦念とも愛着ともつかない、なんとも言えない感情のうちに物語は終わる。人生とはそもそもそうしたものなのだ…とでもいうような。これこそがサイモン節なのでしょう。
 わめき立て暴れ回ってもマッチョではなくどこかキュートな村田さんと、辛抱強いような適当なような、でも前向きでいようとしてもヒステリーに襲われちゃうこともあるごく普通の女性のチャーミングさを体現した保坂さんが本当に素敵でした。てか特にメルの膨大な台詞はホント大変だよね…でも舞台がずっとマンションの一室の二幕五場かな?の芝居、生声がこのコンパクトなハコに合っていて、とてもおもしろかったです。トラムやシアター東西よりぐっと小さいですよね? いいハコだなあ、ちょっとぎゅっとしすぎて感じられるところまで含めて、好きだなあ。セットチェンジかと思ったら空き巣の芝居までやってハケた黒子さんがよかったです。あとラインナップに明るくなったら主役ふたりがちゃんとハケていて、再度出てきてからお辞儀をしたことも。あのままソファに座っていられるパターンだったらホントに嫌だったと思うので。
 『裸足で散歩』や『サンシャイン・ボーイズ』も機会があれば観てみたいと思っています。



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メアリ・ロビネット・コワル『宇宙へ』『火星へ』(ハヤカワ文庫SF各上下巻)

2022年02月10日 | 乱読記/書名あ行
 1952年、巨大隕石が突如、ワシントンD.C.近海に落下した。衝撃波と津波によりアメリカ東海岸は壊滅する。第二次大戦に従軍した元パイロットで数学の博士号を持つエルマは、夫ナサニエルとともにこの厄災を生き延びた。だがエルマの計算により、隕石落下に起因して環境の激変が起こると判明する。人類が生き残るためには宇宙開発に乗り出さなければならないが…ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞受賞の改変歴史SF。

 作者は私と同い歳、1969年生まれ。つまりアポロ11号の着陸船が月面着陸し、アームストロングとオルドリンが人類として初めて月面を歩いた記念すべき年です。その年生まれの作家が、アポロよりずっと早く月そして火星へ人類が達するSFを描く…とてもおもしろかったです。
 『火星へ』の解説にあったように、この作品には確かに月そして火星へといった「『地球の滅亡に際した人類の別惑星移住』というスケールの大きな黄金時代のアメリカSF--ここでは1940年代~50年代のSFを指している--」の香りがあります。でも現代の知見から書かれたとてもリアリティのある科学技術描写になっているのと、社会的な考察も深いのが特徴だと思いました。だってまだバリバリの人種差別時代、女性差別時代、精神疾患差別時代の物語なんですよ! こういう視点は同時代的に描かれたアメリカ黄金期の似たタイプの作品にはないものでした。作家は女性だけに、それをとても意識して描いているんだと思います。でもヒロインのエルマをバリバリのフェミニストには描いていなくて、そこはちょっと歯がゆいくらいなんですけれど、それもまたリアリティのうちなのかもしれないなと思いました。   
 エルマは父親が軍の高官という環境に恵まれた、向学心に溢れた少女だったというだけでなく、真に数学の天才だったのでしょう。当時それは、しかも女児にとって、全然認められづらいことで、エルマは学年をスキップしただけで周囲の男子から多大なストレスをかけられ、スポイルされています。宗教の支えや理解ある夫に出会えたことなどは大きかったでしょうが、ミセスとだけ呼ばれてドクターと訂正しないアメリカ女性なんて!と私は思ったくらいでした。でもエルマの控えめというかあまり自己肯定感が高くない性格を別にしても、当時はまだそれが普通の感覚だったのかもしれません。またエルマは初めて黒人と口を利いたとか黒人の知人ができた、友人ができたなんてことを言っていて、これも読んでいてえええ!と思いましたが、やはり当時わりと普通のことだったのでしょう。女性が広告塔のように扱われること、精神安定剤に頼ることがヤク中かのように忌み嫌われること…みんなみんな当時は普通のことだったのでしょう。サリー・ライドは大変な思いをしたんでしょうね(まして彼女は同性愛者でした…それはまさか名誉男性のようには扱われなかったと思います)、としみじみ思わされました。まだまだいろいろなことが分断される中、それでも必要に応じれば人類は前進できる…というような物語でした。まあどうしても後半はだんだん「そう上手くいくかいな」って気もしましたけどね。エルマの火星行きで子供を持つ可能性がなくなることやナサニエルと離れることでの夫婦の危機(だって浮気フラグありましたよね!? ノー回収なの!?)なんかはもっと大きな今日的な問題な気もしましたが、わりとあっさりめの扱いでした。作者の眼目はそこにはないということなのかなあ…でも夫婦のセックスをとても大事に考え、読者サービスなのかもしれないけれどちょいちょい匂わせラブシーンで章を締めるのは読んでいて微笑ましかったし好感が持てました。
 「レディ・アストロノート」シリーズは『火星へ』の間に地球で起きていたことをニコールをヒロインにして描いていくものへ続くそうで、これもまたおもしろい視点の物語になるのでは、と思うと訳出が待たれます。ホント、いろんなタイプのSFがまだまだあるものだなあ、と目を開かされました。


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