駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『マーキュリー・ファー』

2022年02月17日 | 観劇記/タイトルま行
 世田谷パブリックシアター、2022年2月3日18時半、15日18時半。

 暴力と略奪に支配され、荒廃した街。人々は幻覚をもたらす「バタフライ」の快楽で正気を麻痺させて生きている。エリオット(吉沢亮)とダレン(北村匠海)の兄弟は「バタフライ」を売買しながら、スピンクス(加治将樹)やローラ(宮崎秋人)と怪しげな仕事をして日々をつないでいる。ふたりは廃墟となったボロボロの部屋にやってきて、あるパーティの準備に取りかかるが…
 作/フィリップ・リドリー、演出/白井晃、翻訳/小宮山智津子。2005年初演、15年日本初演の再演。全1幕。

 初演の感想はこちら。その後の白井×リドリーの『ラディエント・バーミン』を観たときの記事はこちら
 大空さんの出演ニュースで再演を知ったときに、「イヤ私はおもしろく感じた記憶があるけれど、しかしかなりニッチな舞台だった気が…!? さすが大空さん、ホント仕事のセレクト半端ないよね…!」と震えたものでした。とはいえ内容はほとんど覚えておらず、自分のブログも斜め程度にも読まないようにして、ほぼまっさらで出かけてきました。
 初回は下手端で観て、二回目は上手寄りセンターブロックで観ました。そのせいもあったかもしれませんが…主にラストについて、初演も初回も二回目も、違った印象を受けました。以下完全ネタバレで語ります。
 初演では、私のブログによると、エリオットがダレンを撃ち殺し、次いで自分を撃って、爆撃がそのあとに来て轟音とともに暗転して終演…だったようです。でも今回のマイ初日、私はエリオットが自分を撃つところは見なかったしその銃声も聞きませんでした。ダレンを撃ち殺したあと、ほとんどすぐに爆撃の轟音が被さってきたように思いました。そしてマイ楽では、エリオットはダレンをも撃たなかったように見えました。ダレンがエリオットにしがみついているところに爆撃の轟音が被さって、エリオットはダレンの頭に銃を押しつけていたけれど銃声は聞こえず、ダレンも絶命して脱力するような仕草がないままに暗転したように思いました。
 これは、いずれが正しいのでしょうか。脚本にはどう描かれているのでしょうか。はっきり明言せずとも初演と違った印象を受けたような感想ツイートはいくつか見ましたが、やはり何かが変更されているのでしょうか。世田パブの客席は丸まってきゅっとしていて、トラムの客席はまっすぐフラットです。見え方、見えるものが席によって違うのかもしれません。照明も席によってだいぶ違って感じられました。トラムのときは上手寄りセンターブロックで観た記憶がある気がするんだけどな…壁沿いに立ち見がズラリいたことを覚えている気がするのです。
 まあそれはともかく、「ものすごく愛している、だからおまえを殺す」というようなふたりの呪文みたいな合言葉は、エリオットにとって誓いであり支えであり呪いだったのでしょう。私は観ていて『パーム』の、「世界はお前が生まれた時はじまって死んだ時に終わるんだ」という台詞を思い出しました。爆撃を知らされて、エリオットはいつ世界の終わりを予感したのでしょうか。戦争や、砂嵐などの天変地異や災害や騒乱、麻薬の紊乱で文化文明が崩壊していくさまを見て育ち、それでも聡明であり続けたエリオットには、ダレンより先に見えてしまったものがあったのでしょう。今度はもう逃げられない、ついに世界は終わるんだ、と。でも、自分の死後の世界なんて知ったこっちゃないのです。自分が死んだあとの世界が崩壊しようと関係ない。世界が終わるるというなら、それより先に死ぬ。死んで自分ごと世界を終わらせる。その前に弟も死なせてあげる。そうやって崩壊から逃げ切る。それが彼の愛なんだと思うのです。
 でも…彼が弟を殺さないように見えたら、自分も殺さないように見えたら…印象が、変わりません? 彼らがただ抱き合って立ち尽くして爆撃に巻き込まれただけに見えてしまうのは…彼らがかわいそうすぎません? 『パーム』の台詞は「だからその身体に熱量のあるうちは/……闘え……!」と続きます。エリオットがしたことも、そういったことではなかったの? 爆撃を前に、世界の終わりを前に、それでも戦って、先に自分たちの命を終わらせようとしたのではないの? そうすることで爆撃を無視し、無効化し、世界の崩壊に抗い、勝とうとしたのではないの…? それが虚しい戦いだったとしても。私たちしか見守っていない戦いだったとしても…
 舞台は二次大戦に負けたロンドンのような、あるいは三次大戦後のロンドンのような、そんな印象を受けました。シティでスーツ姿で働く金融マンもいれば、スラム化した街で怪しい麻薬の売買や怪しいサービスの仕事で生き延びるしかない者もいる、荒んだ、詰んだ世界。それでもエリオットとダレンは兄弟で、スピンクスとローラも兄弟で、スピンクスはエリオットたちの母、「お姫さま」(大空ゆうひ)の恋人というか保護者というかなんというか…で、要するに家族のようなつきあいでともに仕事をしている。そこに現れたナズ(小日向星一)はダレンとすぐに親友になる…人はいつでも、愛すること、つながることをやめられない。そうしなければ生きていけない生き物なのです。なのに世界はあまりに過酷すぎて、ついに崩壊を始めてしまう(その崩壊を引き起こすのもまた人間なのだけれど)。どこにも行けない、誰も生き残れない。もちろん人類が滅んでも地球は残るし世界は続き、なんの問題もないのでしょう。でもその人の世界はその人が死んだときに終わるのです。こんな世界に神様なんているの? いるなら何故こんなふうに人間を、世界を作ったの…? 誰にもなんにも問えないようなぼやぼやした、あるいはざらりとした想いを観客の胸に残して、舞台は轟音とともに終わるのでした。

 初演のナズやスピンクスはもう少し線が細いイメージがあった気がしますが…なんせ細かく覚えていないものですみません。でも、こんなに怒鳴り合ってばかりのようでも誰ひとり喉をつぶす気配もない達者ぶりが素晴らしい。ちゃんとコントロールされているんですね。暴力に関してもそうです。あれは逆に間違っても手や足が当たったりしていないと思う。冷静でないとできない演技なんだと思いました。 
 大空さんはそんな中の紅一点。これまたほぼ忘れていたので、こういう役か!と驚きました。でも階下のパブのステージで水色のきらきら光るドレスを着て歌う大空さんの母親は、それはそれは美しかったことでしょうね。そして優しく愛情深い母親だったに違いありません。そう思わせる豊かさがありました。エリオットやダレンというのは私にはアイルランド系の名前に思えます。彼らは別にユダヤだったわけではなくて、単なるミュージカル映画として『サウンド・オブ・ミュージック』を愛していたのかもしれません。
 何十回も言う「パパ」という台詞が全部ニュアンスが違って聞こえるのがさすがでした。フェスタでは若者たちがシャイでまだ仲良くなれていないと言っていたけれど、その後どうしたかな(笑)、みんなと仲良くなれているといいな。
 姫も歌った「Climb Every Mountain」の原曲がかすかに流れる中、轟音とともに暗転した舞台にゆっくりと明かりが戻り、舞台は空になっていて、セット(美術/松井るみ)のあちこちにある扉や窓から役者たちが現れてカーテンコールになる形で、ほっとしました。あれで兄弟が板付いていたままだったら私は本当に耐えられなかったと思いますよ…大空さんが黒メガネ(サングラスというより…(笑)てか大空さんの月影先生にスミカのマヤとか観たい)だったのはもったいない気もしましたが、加治さんに手を引かれていたのはキュートでした。
 世田パブでは1日2公演のみアンダースタディの池岡亮介がダレンで出た回があったそうですね。先日の『ヴェラキッカ』大阪公演でもスウィングの出番があったと聞きますし、こういうシステムももっと認知され活用されていくといいのでしょうね。福岡の大楽まで、どうぞご安全に。祈っています…!




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