駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『人生の逆転』~韓流侃々諤々リターンズ16

2020年08月23日 | 日記
 2003年、パク・ヨンウン監督。キム・スンウ、ハ・ジウォン。原題は『逆転に生きる』。

 かつてはゴルフのジュニアチャンピオンで、今はしがない証券マンの主人公が、ifの世界にスリップして…というワン・アイディアの、まあラブロマンス、かな? 映画館で観た気もするんだけれど、何故わざわざDVDまで買ったのかとかつての自分に問いたいような、なんてこたない小品でした。
 でも、ヒロインのハ・ジウォンがイイ。やたら薄着だっていうのもあるけれど、健康的な色気というかフェロモンというかしどけなさというか絶妙な体つきというか(いったいどこを見ているのか)で、でもリリカルで愛らしくてキュートな描写なんだよね。
 ちょうど『バリ出来』『ホテリアー』を見返したところではあったのだけれど、ふたりとも今はさらにいい感じの俳優さんになって活躍しているのかなあ? 脇役も知ってる顔オールスターズで楽しかったです。

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宝塚歌劇宙組『壮麗帝』

2020年08月20日 | 観劇記/タイトルさ行
 シアター・ドラマシティ、2020年8月18日11時(前楽)。

 16世紀初頭。アナトリア地方を支配するオスマン帝国の勢いは止まるところを知らず、対外遠征により領土を広げ続けていた。父帝の崩御により、若くしてその大国の首座に就いたのがスレイマン(桜木みなと)、のちに「壮麗帝」と称されるオスマン帝国第十代皇帝である。彼の傍らには、元は異国からの奴隷であった小姓イブラヒム(和希そら)が常に控えていた。スレイマンとイブラヒムは、いつかこの広い世界を統べる「天運の主」になろうと輝かしい未来をともに夢見ていたが、古くから仕える宰相たちの中には出自にかかわらず有能な人材を登用するスレイマンの考えに反感を抱く者もいた。あるとき、イブラヒムを伴い密かに街を訪れたスレイマンは、遙かルテニアから売られてきた娘アレクサンドラ(遙羽らら)と出会うが…
 作・演出/樫畑亜依子、作曲・編曲/手島恭子。宙組3番手スターの初東上公演となるはずだったが、コロナの影響でスケジュールを変更・短縮しての上演。全2幕。

 ずんちゃん主演作としては、『相続人の肖像』の感想がこちら、『パーシャルタイムトラベル』がこちら。カッシー作品としては『鈴蘭』がこちら、『Arkadia』がこちら
 雪組梅芸公演とハシゴしようとチケットの手配をしたので前楽になってしまい、公演が無事初日を迎えたものの千秋楽まで完走してくれるのか、自分が生で観られるのかいたって勝手ながらヒヤヒヤしたのですが、無事に観てこられてよかったです。のぞみはあいかわらずガラガラでした。千秋楽もライブ配信されて無事幕を下ろしたようで、平日にもかかわらずなんとか観た方も多かったようで、まずは一安心ですね。星組東京公演再開も決まって、あとははいからさんがまた通れるようになれば…MSやDSが食事なし客席降りなしどころか無観客ライブ配信になりそう、というのはかなり寂しいですが、劇団もいろいろ模索しつつ、生徒とスタッフと観客の健康と安全を第一にいろいろ手を尽くしてくれているのでしょう。粛々と続報を待ちたいと思います。

 さて、そんなわけで、初日に聞こえてくる感想は「タカラヅカを観た!ってカンジ!!」みたいなものが多くて、そりゃ直前の『SAPA』に比べたら歌も踊りもあるんだろうしコスチューム・プレイだし(お衣装、という意味では『SAPA』もある意味とても素敵だったとは思うのですが)で、そういう感想になるのもわかるんだけれど、以後もフィナーレがいいとかデュエダンのキスがいいとかいったことしか語られていない感じだったので、さて肝心の中身としてはどんなもんなのかいな…と案じつつ出かけてきました。ナウオンも見て行きましたが、りんきらひとりが必死に話を回していてお疲れ様です!って感じでしたしね。3月時点の収録だから、もしかしたら公演中止かも…みたいな空気がすでにあって、それで固かったのかなあ? そらとか、全然しゃべらないのは気になりました。
 この時代の史実に関しては遠い昔に高校の世界史の授業で勉強したかもしれない程度のことと、先日最新刊が出た篠原千絵の漫画『夢の雫、黄金の鳥籠』しか知らない状態で観ました。テレビドラマも見ておらず、いずれもちょっとずつ脚色されているそうなので、何が正しい史実なのかもよく把握していないままの観劇でした。ま、それはいいと思うんですよね、この舞台では何をどう描こうとしているのか、を観に行くわけですから。
 しかして第1幕は…20年前の中村A作品の再演、と言われても信じられるな、と私は思いました。なんならA先生なら新作と言われても私は信じます。おわかりになっていただけるかと思いますが、決して褒めていません。
 キャッチーなプロローグ、状況説明、主人公と2番手の出会い、ヒロインの登場、悪役の伏線、主人公とヒロインの仲の深まり…長命な王様の一代記だからああなってこうなって、とパタパタ展開する形になるのは仕方がないでしょうし、わりとテンポ良くやれていたとは思いました。入りそうなところでソロがちゃんと入るのもちゃんとしていると言えば言える。しかしあまりにも形式的というか、古式ゆかしい宝塚歌劇の様式美に則っただけのような、十年一日のごとく変わらぬストーリー展開の物語で、作者の個性がまったく見えず、これが本当に21世紀に20代の(知らないけど、多分)女性作家によって書かれた新作なのか!?と私はややあきれたのでした。さらに悪いことにもっと劣化している部分もあって、それは台詞や歌詞がものすごく凡庸というか貧弱とさえ言える言葉で紡がれていたことです。ときどき難しい(笑)単語も入ってくるんだけれど、耳で聞いて意味を取るには不向きな言葉だったりしてむしろ稚拙さをより露わにしましたし、とにかく全体に深みや豊かさやニュアンスというものがまったくない、中学生の作文みたいな日本語で、聞いていて悲しくなりました。戯曲は文学であるべきではあるまいか…特に歌詞はもっと詩情あるものが書けないんなら、歌わせる意味はないのではなかろうか…せっかくのずんちゃんやそらの歌唱力が泣くっつーの。あ、スーパーこってぃタイムはアレでいいと思います。歌詞なんざなんだろうと、十分場面として成立していました。こってぃは『リッツ~』からこっち、やっと一皮剥けてきたかなーという印象でしたし、この役ってもっと長く公演していたら、東上なんかもちゃんとあったりしたら一周回ってすごーく人気出たと思うんですよね。あんま褒めているように聞こえない言い方で申し訳ありませんが、残念ながら「皮肉にも」という要素がもちろんあるのでこういう書き方になってしまってすみません。生徒のせいではもちろんなくて、むしろ生徒は大好演だったと思うし楽しんでノリノリでやっていたのではないかしらん。2幕の、まずオフ台詞のあとの登場とかもうたまりませんでした、奥歯噛みしめて観てました。イヤ、大事だと思うんです。てかわざとそう演出しているんだと信じたい。無自覚だったらむしろ絶望的すぎます。
 そんな、クラシカルといえば聞こえはいいが要するに古色蒼然とした中でのただひとつの光明は、ららてぃんアレクサンドラがとてもいいヒロインぶりを発揮していたことです。ららのいいところが出ている役だと思いましたし、もちろんらら自身がとても的確にこの役を演じていたと、いうのもあります。でも、これが本当に2、30年前の(増えた)男性作家の作品だったら、ヒロインってもっと不必要に、ベタベタに、もっともっとヨロメロさせられていたと思うんですよ。奴隷として引っ立てられるところももっといかにもかわいそうっぽくグズグズ泣いたり、奴隷商人(風色日向。上手い! たまらん! いろいろ期待している!)から逃げてきてスレイマンとぶつかっちゃうあたりももっとウダウダすがったり助けを求めて泣き叫んだりさせられていたと思うんです。あげく救ってもらうことになったあとも「あんな素敵な方が、何故私なんかを…?」とか言ってボッと頬染める、とか、いかにもさせられそうじゃないですか。さんざん観せられてきましたよね我々は、そういうイージーなラブロマンス展開を。
 でも、ららアレクサンドラはもっと強くて、しなやかで、まっすぐで、ひたむきです。過剰に卑屈なところがない。ヒロインにしては無口なくらいに思えるのはそのためです(外国人設定があるとはいえここでの彼女の台詞が少ないので、台詞の言葉の貧弱さがここではあまり露呈しないという利点もある)。そうきちんと意図して書かれているのか、はたまたたまたまかもしれませんが(私のこのカッシーの信じてなさぶりよ…)、アレクサンドラは変に女々しいところがなく、人としてごく普通に、すっくと立っていて、ただ真摯に生きようとだけしていて、自立している印象なのが良いのです。隙見て自分でさっさと逃げ出したんだろうし、スレイマンとぶつかってコケちゃったのは不運だったけれど、そこで救助というか助力を頼むのも最低限くらいだし(自分を助けるよう過剰に泣き叫ぶ女って、自分は守られるべきか弱い存在だ、っていうむしろ思い上がりみたいなのものが透けて見えて、嫌なんですよね)、スレイマンとイブラヒムによって宮殿に行くことになっても「仕事をくれるというならやってみるか」みたいな順応性や軽やかな覚悟が見えるし、その仕事が女官じゃなくて側女候補だと判明しても「ワタクシ、そんなフケツな、ハレンチなことはしたくございません!」みたいにヒステリックに騒いだりしないじゃないですか。そこがいい。この在り方は、とても現代的で、女性作家の手によるものならではかな、と私は感じたのでした。
 それでそのまま、マヒデヴラン(秋音光。私はあまり感心しなかったかなー…あきもってファニーフェイスだと私は思っているので、たとえばまりなとかにやらせた方がもっとわかりやすく美人でよかったんじゃないかしらん。ただまりなは今回も他でとてもいい仕事をしているのだった…オカマにして笑いを取る、みたいな無駄なことをしなかった宦官長とか、ホント上手い!)との間にもう息子がいるから、それ以上争いの種になる子供は要らないとばかりにハレムから足が遠のいているという設定の(英雄色を好む、ばかりとは限らない、という視点ももしかしたらけっこう現代的、女性的なものかもしれません)ずんちゃんスレイマンに「ふっ、おもしれー女」とか言わせたら私がキレるところでしたが(笑)、ギリギリで踏み留まり、ふたりの心が寄り添っていくくだりは私はわりと上手に描けていたと思うので、このあたりはよかったなと思ったんですよね。最期の時も、まず皇帝であろうとするスレイマンに対して、皇帝である前に人間だ、幸せな人間でいてほしい、みたいなことをアレクサンドラが言うのには感動しました。あと、ららといえば毎度歌には手に汗握らせられてきましたが、今回はとてもよかったですよね。たくさんレッスンしたのかな、偉いぞ!
 しかしこの、内政か外征かというような、単純かつなかなか難しい命題で話を最後まで引っ張るとは思いませんでしたけどね…
 若干とってつけたよーなラブシーンも、でもこれはずんちゃんの好演もあってよかったです。王のためを思えばこその右腕の暴走、というのも丁寧に描かれていたと思います。だからキャラクターとドラマの布石は十分に打たれている。ただやはりこういうタイプの物語って、真ん中の王子様/王様ってどうしてもただの白い役になりがちで、演じようがない、魅力的に見せるのが難しい役になりがちなんですよね。受け身の主人公あるあるですけれどね。総受けで成立する場合もあるけれど、ずんちゃんはやりづらかったのではないかなーと思いました。特に2幕、そらイブラヒムとのすれ違いが目立ってきてからは、誰か下級生に小姓でもやらせて、彼相手に独り言を言うような場面を作るとよかったのかもしれません。スレイマンのつらさや悩み、絶対王者の孤独、悲しさって、ちゃんと台詞で上手く表現しないとわかりづらいと思うのです。
 というわけで私は第2幕の方がおもしろく観られたんですけれど、それはやはりキャラクター同士の衝突のドラマが俄然動き出したからですよね。時間経過も早いんだけど、それは上手く処理されていると思いました。メフメト(水音志保。かーわーいーいー! てか町の踊り子でもハレムの女でもとにかく可愛くて目立つ!!)が死ぬことやムスタファ(風色日向)が反乱を起こすこととかは史実として知らなかったので、ドラマチックでおおおぉ!とたぎりました。エレナ(花宮沙羅。いいスパイスでしたが、もうちょっと仕事させたかったかなー。てかマヒデヴランでよかったのでは?とも思うのですが…)のエピソードはもうちょっと深めたかった気もしますが、2時間ドラマチックで奥歯噛みしめつつも楽しかったからよかったです。
 でも結局、ずんそらの、スレイマンとイブラヒムのすれ違いと衝突と、スレイマンによるイブラヒムの処刑をやりたかったんでしょ? ツボはソコなんでしょ? ならもっとそこにがっつり注力して物語を作ってもよかったかもしれません。史実に捕らわれるとどうしても他にも枝葉末節がついてくるから、なんなら着想はここから得たのだとしても、どこかの時代のどこかの国のお話だってことにしちゃったってよかったんですよ。イブラヒムの処刑という盛り上がりのあとにもう一回アレクサンドラの死で盛り上げさせるのは、なかなかしんどかったと思います。さらにスレイマンは長生きするので、そこから孤独な晩年を描いて終わり、というのは、まあ宙組初の生え抜きトップスターになる未来に想いはせて…というのはあるにしても、物語としてけっこうしんどい。玉座とずんちゃん、というラストシーンで萌えられるのはかなりのファンだけに限られてしまうことでしょう。だから、もったいなかったです。
 ずんららそらなら、もう一段階深いドラマが描けましたよ。もっと微妙で濃厚な三角関係が演じられました。別にスレイマンの男色を描けとかそういうことではなくて、でも精神的BLというか、つまりアレクサンドラとイブラヒムの政治的信条が違っていて、スレイマンは最初はイブラヒムと同じ外征派だったのに、アレクサンドラとラブラブになってからは内政派に転じたように見える、とあってはイブラヒムだって思うところがあっただろうし、そういう意味で「私と彼女とどっちを取るんです!?」と迫りたい気持ちもあったろうし(「私情か立場か」なんてわかりづらい台詞じゃダメなんですよカッシー!)、一方アレクサンドラだってイブラヒムを夫の良き忠臣と感謝しつつ、夫と国を違う方へ引っ張ろうとして見えるのには危機感を感じていたろうし、そういう愛憎の駆け引きが浮かび上がる脚本にすることはできたと思うのです。そしてもちろんスレイマンは、アレクサンドラもイブラヒムも愛していたし必要としていたのです。
 イブラヒムの暴走が国家レベルの危機となり反逆とされるにいたって、スレイマンはそれを断罪しなければならなくなるのだけれど(だからこそその前の立ち回りで、お互いに背中を預け合って戦うくだりがほしかったなー。結局はお互いのことを信じている、守り合っているという描写を入れておきたかった…)、スレイマンには自責の念もあるしもちろんイブラヒムを死なせたくなんかないしで、煮え切らない。そこに伝家の宝刀、嘘の愛想づかしですよ私の大好きな展開ですよ! 愛する主人のために、国家の安寧のために、自分は主人に斬られなければならない、自分を斬らせるよう主人を追い込まねばならない。そらイブラヒムの芝居はものすごくいい。スレイマンもイブラヒムの意図はわかっていて、でも斬りたくなくて、でもやっぱりどうしようもなくなって、一刀のもとに斬り捨ててしまう。でもそこには台詞があまりに足りませんでした。いや、苛烈な皇帝になるような宣言はしているんだけど、それはスレイマンの強がりなんでしょ? だからそういう方向の台詞じゃなくて、イブラヒムを斬る前に「でも私にはおまえが必要なんだ!」くらい叫ばせてほしかったし、斬ったあと亡骸を抱き寄せて、愛と後悔を吐露し未来を誓い、そして泣かせてほしかった。そこはベタベタでよかったんです、てかここでやらずにどこでやる!? おまえを愛していた、おまえが必要だったんだ、何故こんなことに、すまなかった、おまえの分まで俺は生きる、かつてふたりで夢見た天運の主に俺はなる、いつか宇宙を手に入れる…やらなきゃ! ここでこそ!!
 そしてそれだけやっても、ヒロインの死でもうひと盛り上がりさせることはもちろん可能なんですよ。アレクサンドラはスレイマンから「幸福な者」という意味のヒュッレムという名前をもらっていて、自分はあなたのおかげでその名にふさわしい者になれた、と最期に言います。あなたと生きてこられて幸せだった、というのはとても重く深い愛の言葉ですし、同様にあなたも幸せにしてあげたかった、とさらに語らせればなお泣かせられたのではないでしょうか。家族を大事にするとか国民を大事にするとか、いたってシンプルでまっとうなことを訴え続けたアレクサンドラの健やかさはたいそうまぶしく、さぞスレイマンを心強く支えたことだろう、と思わせられました。
 イブラヒムの名もまたスレイマンからもらったものでした。ふたりとも王を愛し、王もまたふたりを愛したのです。ともに墓に入るよりはともにもっと長く生きたかったことでしょうが、それは叶わない。最愛の妻も腹心の部下も先に逝き、王は孤独な歩みを続けざるをえない。寂しい晩年だったことだろう、しかし内政外征の成果は目覚ましく、人は彼を壮麗帝と称えるのだった…完! みたいに、もう一押し感動的に、できたとは思うんですよねえ…うーん、もったいなかったなあ。

 カッシーは総じて、どこに作家としての萌えや個性があるのかよく見えない人ではあります。三作の中では一番できている気がしますが、それは今回は形式に則っているだけにアラが目立ちづらかったからかもしれません。そろそろ大劇場デビューのタイミングなのかもしれませんが、もうちょっと秀作を積むか、とりあえずショーもやってみるとかもあるといいかもしれません。
 ずんちゃんとしては、もうちょっといい主題歌だったら将来DSで歌ったりサヨナラショーで歌ったりできたかもしれないのに…というところかなあ。でも路線スターにはこのくらいの時期に、将来トップスターになってまた再演するとおもしろいかも、みたいに思える作品が来るものですが、主演3作目にしてやっと一応それっぽいものが来たかな、というところでしょうか。このところの気合いの入り方が顕著で頼もしいことこの上ないですが、今回も歳の取り方が上手く、仕上がりつつあるスターだなあと改めて感じました。フィナーレも手堅い。
 そしてららてぃんはフィナーレは一転、寄り添い芸も素晴らしく、高い娘役スキルを発揮していてキラキラでいじらしく美しく、素晴らしかったです。ドレスの裾捌きも見事なら、よくコントロールされたリフトの乗り方も上手い。何より相手役を見つめる視線と笑顔、愛され力ね! それはずんちゃんがテレもせずしっかりデレて、愛情と包容力をガンガンに見せるキャラだからでもあって、実にいいカップルだなと思いました。組のトップ娘役より上級生だけれど、娘役スキルが高く素晴らしい華と実力の持ち主の娘役って各組にいるので、本当に大事にしていただきたいです。ここにさらにかのちゃんが来るんだから、たとえばららていんは咲ちゃんのお相手役にとかどうかしら…咲ちゃんは外見的には相手を選ばないタイプの男役なので、まあ最有力はくらっちの帰り咲きかもしれませんが、娘役人事はタイミングがすべてとはいえなんとかみんな幸せになってほしいです…
 そらはタッパ以外はホントなんでもできて盤石ですよね。
 じゅっちゃんは「ほんわか要員」とのことでしたが、もったいなかったかなー。ハティージェ(天彩峰里)とイブラヒムのロマンスはもうちょっと深堀りしてもよかったと思うのです。結婚してもなお皇妹として敬語で対し続けるイブラヒムのいじらしさ、萌えたけどなー…あとミレナとイエレナを見たあとだけに、アレクサンドラとのシスターフッドももう一押し描けたろうと思ってしまったんですよね。イブラヒムの処罰を案ずるハティージェに付き添って言うアレクサンドラの「お気のすむまで…」だっけ? それよりもっといい台詞があったろう、ともったいなかったです…
 りんきら、なっつ、ナベさんの仕事人っぷりは毎度素晴らしい。そしてわんたの大活躍には、ホント殊勲賞とか敢闘賞をあげたいです。
 そして私は群舞の端っこについなつを探したよね…ナニーロはいる、キョロちゃんはサパにいた、なのに…とちょっとしょんぼりしました。好きでした…

 3番手主演なので円盤化されないんだろうけれど、スカステ放送はこれもいつもよりは早くされそうですよね。劇団も収益のためにはなんとかいろいろしたいところでしょう、引き続きがんばっていただきたいです。
 何よりこれを機に座付き作家に勉強の機会を与えて、よりクオリティの高い作品作りを目指していただきたいです。こんな時だからやってくれるだけで嬉しい、なんてハードルを下げる気は私はないぞ! もしかしたら人数を完全に半減させて完全ダブルキャストの再演祭り、とかでないとこのコロナ禍はしのげないのかも、とも思わないでもないからこそ、あえて高い目標を掲げておきますよ!! だって生徒は絶対にがんばってるもん、耐えてるもん、チャレンジしてるもん! 頼みますよ、本当に。





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あだち充『KATSU!』(小学館少年サンデーコミックス全16巻)

2020年08月18日 | 乱読記/書名か行
 里山活樹、15歳。光葉高校の一年生。水谷香月、15歳。活樹のクラスメイト。父親は水谷ボクシングジムの会長だが、現在は別居中。母親とふたり暮らしで、大のボクシング嫌い。そんな水谷家の事情を知らず、香月に近づこうとして水谷ボクシングジムに入会してしまった活樹だったが…

 引き続き「あだち充夏祭り」を開催中で、『虹色とうがらし』『いつも美空』『QあんどA』と読みました。珍しくもなんちゃってSFをやってみた『虹色~』は悪くなかったと思うのですが、いかんせん時の将軍とはいえ腹違いの子供を7人も8人も作る父親像が個人的には受け入れがたく、評価対象外としたいキモチになりました。後者2作にいたっては作品として完全に破綻していて、けれども担当編集者がおもしろいアイディアを出せなかったのだろうしそれでも編集部は人気作家の連載が欲しかったのだろうし、という事情が透けて見えて悲しかったので、ここでは取り上げません。
 この作品も、全体として見ると出来は決して良くない気もするのですが、おもしろいことをやっているとは思うので、ちょっと語りたくなりました。水泳だった『ラフ』に続いてスポーツは野球ではなく、ボクシングです。これは担当編集者にプロボクサー出身者がいたからだと思うのだけれど、そういうのがなくても格闘技はまた別枠で好きという男性は多いので、もともと作者の興味はあったのかもしれません。
 でも、ヒロインにもやらせるのはなかなか珍しい趣向だと思います。『ラフ』でヒロインが主人公と同じ水泳部だったのとはワケが違います。なので香月はいわゆる南ちゃんタイプの、女神ヒロインではありません。これだけ腕力が振るえる女性キャラクターというものは、決してそれが単なる暴力ではなくあくまでスポーツに則ったものだとしても、引く男子読者は多いことでしょう。
 しかも、彼女にどんなに才能やセンスがあって幼い頃から親に教わって十分な鍛錬を続けてきたのだとしても、そこらの男子相手のただの喧嘩ならまだまだ勝てても、ちょっとちゃんとした男子がそれなりに練習して試合するとなったら、あたりまえですがもう勝てない。体力、ウェイト、パンチ力…それはもう、明らかな性差によるものなので、太陽が西から昇っても覆らない。でもそれを描いたとて、ヒロインの悔しさや無念さを描いたとて男子読者には1ミリも響かないんですよね。なのに描く。不思議な展開です。
 そして香月は女子ボクシングで勝ちたいとか男子になりたいとかいうのとも違って、ただ男子ボクシングが好きで自分でもやっていただけなので、どこかでその死に場所みたいなものを探していたのでした。そんなヒロインに、普通の男子は明らかにどうとも絡みようがない。まあ活樹はだいぶ無頓着で、彼女に対しても可愛い顔に惹かれての一目惚れみたいな体たらくで、いろいろ因縁があったりなんたりして結果として彼女の夢や理想を負うことになってもなおそれに対してあまり頓着しないという、いたってザッツ・あだち主人公な男性キャラクターなので、なんとかお話が成立したのかもしれません。
 ともあれ作者としては香月ってけっこう描きづらかったのではなかろうかとか、そもそもヒロインとしてあまり読者の人気がなかったんじゃなかろうかとか、読んでいてけっこう心配になるレベルだったのですが、特に破綻したりキャラブレしたりしていない感じなのはすごかったかな、と思います。ま、単なるラッキーだったのかもしれませんが。
 ただ、主人公に対するライバル、恋敵として今回もザッツ・あだちキャラの紀本くんが設定されていて、彼が珍しくいわゆる「メガネくん」なことと、にもかかわらずザッツ・あだち恋敵キャラとして機能しているので、しかもそれが物語の前半だけで一山越えちゃうとキャラ変とまでは言わないまでもポジション変えしてラストなんか全然出てこなくなっちゃうので、ちょっとオイオイってなってしまった、というのは、あります。ホラ私メガネくん推しだからさ。あと、彼と活樹との試合に対して香月がしたことは、けっこうひどいことだと私は思うんですよね。自分は手加減されることをあんなに嫌っていたのに、彼らに対して同じことをしていて謝りもしないし、男子ふたりもそれをよしとしていることが納得いきませんでした。私はこの試合もラストの岬くんとの試合も、どちらも活樹は負けることにした方が良かったのではなかろうかと思っているので、ちょっと納得しづらかった、というのもあります。
 活樹って結局サラブレッドなので、あだち主人公としては珍しい設定です。この作者は天才とか二世とかではない、普通の、まあちょっと情熱はあったり努力したりはするかな、程度のスポーツマンを主人公にすることがほとんどだからです。でも今回の活樹の設定はほとんど卑怯なくらいだと思うし、それが私には、そもそもボクシングをしていたのはヒロインの方だった、という捻れに対する鏡のようなものにも思えるのでした。
 ボクシングって結局殴り合いで、拳で戦うっていうのは本当に男性的というか野蛮っていうか動物的っていうかで、いや男なら本能的にそうやって戦うもんだよとか言われても、それって女性に対して子供を持ったら必ず母性本能が発揮されるんだよみたいな、嘘くさい、信仰とか思い込みに近い性差別な気がしちゃうんですよね。そんなボクシングを当初ヒロインにやらせて、でも天地がひっくり返っても彼女は男子に勝てなくて、それは天地がひっくり返っても男性には子供が産めないのと同じ摂理で、あくまで性差によるものなんだけれど、だからその流れで、活樹は実の父親の血から才能を受け継ぎ、義理の父親の教育によって開花させたんだとなっているようで、はっきり言ってちょっとぞっとするのでした。
 ちょっと話がズレますが、こういう才能とか能力の遺伝、もっと言ってプレイスタイルみたいなものまでが遺伝するとする考え方って、とっても男性っぽいと私には思えます。それくらい男って、自分の女が産んだ子供が自分の種か自信がないんだな、と思う。自信がないのは当然で、当の女だって毎日違う男と交わって一週間過ごすことだってないこともないわけでその場合は誰の種かなんてやっぱりわからないわけですが、自分が産んだ子が自分の子であることにはあたりまえですが絶対的な自信が持てますよね。たいていの場合は自分の身体から出てきたところを目撃しているんですからね。けれど男は自信が持てない。どんなに婚姻で相手を縛ろうと、別姓を認めないくらいに支配しようと確証は決して訪れません。だからこそ、こういう能力の遺伝みたいなドリームを抱くんだと思うのです。
 それでいいのかよ、当人の個性は無視なのかよ、とか言いたくなります。今まで、そういう普通の、市井の、個性あふれるスポーツマンをたくさん描いてきたのに…この作者はそんなにマッチョな方ではないけれど、それでも格闘技というどうしてもマッチョにならざるをえないものを扱うとなると、こういうマッチョなことになるのだな、と私は思いました。親世代に因縁があって…というのは最新作『MIX』でもやっているけれど、あちらは遺伝云々に関してはここまで響かせないのでは…と私はむしろ祈るように思っています。
 これが尾を引いているせいなのかなんなのかわかりませんが、これまた作者はこれまであくまでアマチュアスポーツというか、青春模様を描くための部活動の延長のような競技ばかりを描いてきていて野球ですらプロについてはほとんど扱ってこなかったのに(
『アイドルA』などある種のプロ野球漫画がないこともないのですが)、今回に関してはプロ転向があるかないかみたいな話も終盤ぶっ込まれていて、そして完全に中途半端に終わるのが、作者自身の中で完全に意見がまとまらなかったんだろうなという気がして、作品としての完成度を著しく落とす要因のひとつにもなっていると思いました。プロ競技はなんでもそうですがボクシングの甘くなさ加減は本当にそのとおりで、少年漫画の夢あるビジョンとして提示するにはそれこそ作者自身の知見もあるだけに簡単にはできなかったのではないでしょうか。ならそれこそ活樹はあっさり岬くんに負けて、そしてやっぱりボクシングは高校までで終えるよと宣言したって、別にお話になんの変わりもなかったと思うんですよね。岬くんの生き方は岬くんのもので、またどうとでも描けたと思いますし、負けたからあきらめられるとか甘っちょろいなーとか私は正直思っちゃいましたよ。勝っちゃって、でも辞めざるをえない、という状況はありえるし、そのしんどさを描けよ、と思ってしまったのです。紀本くんに対しても岬くんに対してもコレなんだもん、いくら少年漫画の主人公は勝つものだって言ったって、あだち作品はそういう王道とはちょっと違うところに位置するからこそいいんだし、活樹がそれこそプロ転向するなら理屈としてはこの先も一生好きなだけボクシングをできるわけで、だったらそっちでいくらでも勝てるんだからここは譲るのが筋だろう、と思えてしまうのです。紀本くんも岬くんも活樹とは違う、それでもかなり重いものを背負って戦っていただけに、私は悲しくなりました。活樹は香月とくっつくんだから、せめてボクシングに関しては彼らと同様に、「ここまでね」ってなってもよかったんじゃないの? 香月も別に活樹にプロボクサーになってもらいたかったわけではないと思うんだけれど…どーにもならなくなって出したのがバレバレの理子の在り方とか、ホント許しがたいくらいです。それで言うと活樹のビジュアル(というか髪型程度、ですが)も登場時は変えようという気合いが見えたのに、すぐに手癖のいつものビジュアルになってしまっていたのも残念でした。それは甘えだよさすがに…てかキャラがかわいそうです。
 そういういろんな揺れとかブレとか不完全燃焼とか迷走とかを含んだ、でも崩壊しているというほどではなく不思議になんとなくまとまって収まった、ちょっと変わった一作だと感じました。






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『ごめん、愛してる』~韓流侃々諤々リターンズ15

2020年08月17日 | 日記
 2005年KBS、全16話。

 タイトルは韓国語だと「ミアナダ、サランハンダ」で、当時はファンを略して「ミサ廃人」なんて言っていました。挿入歌が「雪の華」の男声カバーで、それも大ヒットしましたよね。でも今見ると、やっぱり半分とは言わないまでもせめて10話でできるだろうという気がしますし、特に立ち上がりがスローなのがいただけないなあ、とは思いました。だがやはり後半は盛り上がりますね。あくまでもベタだけど、まあまあよくできている作品だと思います。

 ヒロインはイム・スジョン演じるウンチェ。しかし当時いくつなんだ、めっちゃ童顔で小柄な女優さんです。彼女の父親が往年の大女優オ・ドゥリの運転手をしていて母親は家政婦で、なので一家はお屋敷の敷地内の離れを借家としている貧乏人、という設定です。オ・ドゥリのひとり息子ユン(ジョン・ギョンホ)は当代一の人気スター歌手で、ウンチェとは生まれたときからの幼なじみ。ウンチェはユンのスタイリストとして働いています。ウンチェはユンを想っていますが、ユンはウンチェを家族同然とだけしか思っていなくて、人気女優のミンジュ(ソ・ジヨン)に夢中。でもミンジュは恋愛をゲームだと考えている浮気な女で、かつウンチェとは高校のクラスメイトでもあったため、ユンの相手はしません。
 ユンとミンジュがオーストラリア・ロケの仕事に出かけた際に、街で迷子になったウンチェが偶然出会うのが、私の愛するソ・ジソプ演じる主人公のムヒョクです。『ホテリアー』のシン・ドンヒョク同様、幼いときに海外養子に出されたクチで、しかし里親とは合わず、野良犬のように生きているチンピラの青年といったところです。彼らがソウルに帰国してから物語は本格的に転がり出し始めるわけですが、実はオ・ドゥリは若い頃に妻子ある映画監督との間に双子を産んでいて、本人は死産だったと聞かされてきたのだけれど、実はウンチェの父が施設に預けたというかぶっちゃけ捨てたという経緯があって、赤ん坊たちは指輪をネックレスに仕立てたものを託されていて、ムヒョクはそれを持っていて…という、いわゆる「母子もの」のドラマです。
 また、ムヒョクはオーストラリアでガールフレンドがお金目当ての結婚をする際のトラブルに巻き込まれて、脳に銃弾が残ってしまって余命一年もない、となって帰国するので、病気ではないけれどいわゆる「難病もの」というか、そういうモチーフのドラマです。
 四角関係の恋愛ドラマとしては、ミンジュがキャラクターとして弱くて、ムヒョクがあてつけとして謎のインテリヤクザみたいに変装してくどいたりする楽しい(私が)展開もあるんですけれど、基本的にはいかにもただの当て馬みたいになってしまっていて、ちょっと残念でした。どっちかというとムヒョクのオーストラリアでのガールフレンド、ジヨン(チェ・ヨジン)の方が好きな女優さんだったので、こっちに絡んでもらいたかったなー…
 あとは、ムヒョクの双子の姉のソギョン(チョン・ヘジン)が子供の頃の交通事故の後遺症で知能に障害を負っていて、今は一児の母ですが息子のガルチと同じくらいの知能しかなく…という設定なのが、本当にせつなくて卑怯です。ガルチの芝居がまた泣かせるのが最高に卑怯で、本当に素晴らしいです。
 ウンチェの母親は『バリ出来』でセカンドヒロインの母親役をやっていたアボジオモニーズの一員で、今回は庶民側。『バリ出来』同様、お屋敷町も貧民街もともに坂の上にあって、各登場人物は実によく坂を上がったり下りたりします。でもふたつの町はソウルの同じ場所には決してないんですよね…

 韓国はクリスチャンが多いので、ラストは物議を醸したのではないでしょうかね…まあそのわりには芸能人の自殺なんかが日本よりは顕著な、不思議な文化差がそこにはあるわけですが。なんせドラマは得意の「1年後」展開なのでくわしくはなんとも言えませんが、オ・ドゥリはわりと元気にしているのではなかろうか…というのが私の想像です。一番悲しむ権利も、怒る権利もこの人にあると思うけれど、だからこそ、というのもなんだけれど、なんせ知らされていなかったというのもあるし、一時は驚倒し狂乱し悲嘆にくれたかもしれないけれど、なら後追い自殺しよう、とかって発想はこの人にはない気がします。というか普通の人にはやっぱりなかなかないはずであって、ウンチェがその道を選ぶのは、父親がしたことに対する責任感とか、父親を許せなくてとか、せめてお詫びにとか、そういう心理が働いたのかなーとか考えないと、ちょっと納得しづらいです。そりゃムヒョクはもちろんかわいそうなんだけれど、でも彼が「生きた、愛した、笑った」って感じである種満足して旅立っていったことはウンチェには十分わかったはずだと思うんですよ。ウンチェは彼のそうした愛情をしっかり受け止めて、彼とのたくさんの思い出を胸に、ときにユンの歌声に涙したりしつつも、ソギョンやガルチの面倒を見たりなんかして「私は元気です」、というのが普通のラストだと思います。
 オーストラリア・ロケは先に全部済ましちゃってるんでしょうから、最初からこのラストが脚本としてあったんだと思うんだけれど、別にボツにしたってよかったんじゃないかなあ…私は、あまり感心しませんでした。単純に好みじゃないというのもあるし、納得しかねました。せめてもっと、いかにもそうなりそうって伏線を引いていてくたれのならまだしも…ウンチェ一家はみんな悲しむよ、ムヒョクだってなんてことしたんだって怒るよ、と思うのでした。

 タイトルは主人公がヒロインに告げる最期の台詞で、万感の想いが込められたものです。墓標に刻まれる言葉でもある(ここでの英文とドラマの英題が一致していないという齟齬はありますが…)。その少し前にヒロインが「ミアネ、サランヘヨ」と曇った鏡に指で書き、メールで打ち、台詞で言うのを受けたものでもあります。主人公は韓国語をガールフレンドに教わっていて、話せはするものの読み書きは怪しく、かつ敬語その他微妙な言い回しなどは不得手という設定になっています。なので断定口調というか、もしかしたら口語としてはおかしいくらいのぶっきらぼうさを表しているのかもしれません。でもシンプルで深い、確かに人生のすべてを総括するような言葉です。

 日本でもリメイクされましたよね。今検索したらオ・ドゥリは大竹しのぶでした、ベタすぎる…!(笑)そしてミンジュ役者でなく大竹しのぶを入れた男女4人のメイン・ビジュアルになっていたぞ、わかりやすいな…!! 見たかどうかの記憶はありません、すみません。とりあえず韓ドラの方のBOXは、また忘れたころの老後の楽しみに取っておきたいと思っています。
 これまた検索してみたところ、ジソプは今年の春に結婚した模様…おめでとう、寂しいわ(笑)。ヒョンビンもだいぶ渋くなっていたし、いい中年俳優になってくれていたら嬉しいんだけどな、どうなのかなー?

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あだち充『ラフ』(小学館少年サンデーコミックス全12巻)

2020年08月14日 | 乱読記/書名や・ら・わ行
 大和圭介は私立栄泉高校に入学し、寮生活を始めた。部活は水泳部。だが同じく水泳部の二ノ宮亜美に「人殺し」という言葉をいきなり浴びせられる。圭介と亜美の家はともに和菓子屋で、ふたりの祖父の時代からライバル同士だったのだ…

 このコロナ禍で、密集した観客が大声援を飛ばす中、大汗かいて試合を戦う主人公たちの漫画を描く気になれなくなったとのことで、最新連載『MIX』を休載していた作者でしたが、ひと月ほど前の様子がちょっとおちついて見えてきたころの心境の変化に伴って連載再開を決め、合わせて高校野球の交流試合開催に合わせて全著作を電子化解禁したので、ちょっと話題になったりしましたね。私は実家に『ナイン』と『タッチ』は愛蔵していて、先日『H2』『クロスゲーム』を読んだところだったので、今回はこちらを読んでみました。
 今回のスポーツは野球ではなく水泳。主人公は競泳を、ヒロインは高飛び込みをしています。競泳は、隣のレーンの選手と争うこともあるでしょうがとりあえずタイムを競うもので、自分との戦いがシビアな競技かもしれません。作者はチームプレーとかトーナメントのおもしろさとかではないものを描いてみたかったのかもしれませんし、単に女子の水着姿をたくさん描きたかっただけかもしれませんが、ものっすごいスポ根漫画とかではなくとも(この作者はどの作品でも常に「根性」とは遠いところにあるドラマを描いていますが)きちんと競技の醍醐味は伝わる、おもしろい作品に仕上がっていました。
 やっていることは、というかキャラクターはいつも同じで、圭介は要するにタッちゃんだし亜美は南です。いつも、主人公男子はちょっとワルぶっていたとしてもテレやで優しく、不言実行のがんばり屋で、ヒロイン女子は美人で優等生で素直ないい子です。そして主人公男子のライバルないし恋敵に、主人公より容姿や学業成績や競技実績が少し上の男子が配される。しかし彼もまた優しく紳士的で気遣いの人で、ヒロインに対してゴリ押ししたりは決してしない…
 主役カップルはたいてい幼なじみとか義理の家族とかなんとかで、ふたりの心が揺れ動きやがて寄り添って行く様を淡々とした日常を淡々と描くことで絶妙に描き出し、そしてストーリーはここぞというところでほとんど卑怯なほどの交通事故や怪我、死といったアクシデントがぶっ込まれて大きく展開し、ラストきっちり仕上げる…というのも定番で、この作品もそれに漏れません。
 今回いいのは、仲西さんがメガネってのもあるけれど(だが伊達っぽいお洒落眼鏡で、キャラとしての「メガネくん」ではもちろんない)、彼が圭介にとって憧れのヒーローだと設定されていることです。だから三角関係が単純ではないこじれ方をする。それに、誤解というか、仲西さんのある種大人げない行動が波紋を呼んで、圭介が亜美に「おまえなんか大っきらいだ。」と言うかなりスリリングな、しんどい展開になったりする。
 亜美の水難事故はともかく、その後の仲西さんの交通事故はあたりまえですがとてもショッキングで重大で、その後の仲西さんの変貌も、でも実は変貌なんかではなくて人間なら当然だし彼にはもともとそういうところもあるひとりの若者で決して達観しきった大人なんかじゃなかったんだし、それでもそこからああまで復活してみせたのには彼に本当に意地と能力と努力する才能があったからこそだと思います。
 だから、描かれなかっただけで、最後の試合はやっぱり圭介が勝ったのだろうけれど、でも、仲西さんが最後に意地を見せたかもしれない、とも思わせる。私はどちらかというとそれを願う派です。でも、だからこそ、それは描かれない。そしてそれとは別に亜美の気持ちはすでに固まっていて、だからあのラストシーンになる。
 カセットテープにお気に入りの曲と、生の声の録音ですよ! 今のティーンにはもう意味がわからないかもしれませんよね! でも名作です。あだち作品としては小品と言っていいくらいかもしれませんが、佳作です。私は好きです。

 かおりちゃんみたいなデザイン(容姿も性格も)の女子キャラがヒロインの恋敵として現れて…ってのも実に定番なんだけれど、彼女と芹澤くんの顛末もよかったです。これ以上ここを掘るとストーリー上ややこしくなりすぎる、という判断があった故のことなのかもしれないけれど、芹澤くんがあまり描き込まれていないだけに、彼にとって、また物語全体のバランスとして実によかったと思うのです。亜美が選手としてはまだまだでかおりの方が断然スター、というのもよかった。亜美は南ほどはスーパーヒロインではないのでした。

 タイトルは素描、荒削り、みたいな意味で、人生を築いていく直前の青春模様、デッサンというようなニュアンスが込められているのでしょう。特に水泳とは関係のない言葉ですが、印象的でいいタイトルだと思います。でも物語冒頭に出てくるだけであとは全然出てこなくなっちゃっている言葉なので、もしもうちょっとだけ尺があれば、最終回直前に再度出してもよかったかもしれません。そこは残念です。

 あとは、まあ女子の水着に対する男子の視線の描き方とかの問題はあるんだけれど、女子が気づいていないのでまだマシかな、と甘いけれど思ったりしました。少年漫画のラッキースケベとかって、女子が「いや~ん」とか騒ぐところまでがセット、というのが問題だと思うんですよね。つまり男子は女子の身体を見たいんじゃなくて、女子の嫌がることをやってみたい、そこにこそ快感を覚えるものなのだ…という刷り込みをエンタメを通してすることがダメだと思うのです。そういう嗜虐心は人として間違っている、それは人下劣な嗜好だ、と子供に早くからきちんと教えていかなければならない。それと性的な興味を持つこととは別の問題だし、でも男子だけが性欲を露わにすることを認められていいものでもないので、そこはまたきちんと分けて考えたいと思うのです。
 むしろ気になったのは、これまたこの作者の作品あるあるなんだけれど、いわゆる不美人の、太めの少女を使った笑いの方です。これはもう、作者が女性というものに対して女神のように崇めるか、こうしたタイプの不美人をいじってからかうかしか絡む術を持っていない、対等の他者として友情を育むとかは発想すらできない魂が貧しい男性なんだから仕方ない、と考えるしかない気がしました。ただ、描写としてはこちらの方が今からでもいくらでも変えられると思うんだけど(編集が描かせなきゃいいだけの話なので)、『MIX』ではさてどうだったかな…
 こういう疵で作品が時代を超えられないことはままあるものなので、『アクタージュ』事件もあった今、作者も編集部も版元も今一度きちんと考えてみるべき案件だと思います。

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