駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇星組『鈴蘭』

2016年01月23日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 宝塚バウホール、2016年1月22日ソワレ。

 15世紀フランス北部の公領アルノーでは、領主クロード(輝咲玲央)により、妹シャルロット(音波みのり)とガルニール公の嫡子エドゥアールの婚約披露の宴が行われていた。その中で、彼女の7歳年下の幼馴染リュシアン(礼真琴、子役は天路そら)はシャルロットを連れ出し無邪気に告げる、「大きくなったら迎えにいく」と。13年後、青年となったリュシアンはフランス王ルイ11世(一樹千尋)の元で無為な日々を送っていた…
 作・演出/樫畑亜依子、作曲・編曲/手島恭子。全2幕。『かもめ』でバウ初主演を果たした礼真琴のバウ主演第二作、同期入団の演出家・樫亜依子のデビュー作。

 幕間の時点では、『CODE HERO』や『アルカサル』と意味は違えど同レベルの駄作な気がする…と絶望的な気分になったのですが、二幕では多少気分が盛り返しました。貴重な人材は辛抱強く育てるしかありません、見捨てるのは簡単ですがあえて苦言を呈し次回作に期待しましょう。というかまず基本を抑えようきちんと修行しよう。宝塚歌劇の演出部はある種の徒弟制でやっているのではないかと思っているのですが、ちゃんと秀作書かせてるのか? これもちゃんと面倒見ている先輩が手を入れたのか? いきなり手を放してやってみろ、なんて、いかにバウホールが若手の挑戦の場だとしても問題です。お金を払って観に来る観客に失礼だし、有限の青春を賭けている生徒にも失礼です。
 もちろん今回、金を返せとは言いません。見どころはたくさんありましたしね。でも金を出して観たからこそ、もっとなんとかできただろう、とは言いたいのです。
 まこっちゃんの作品運のなさを哀れみますよ…まさに三拍子揃ったなんでもできるスターなのに、それ故女役をやらされたりなんたりばかりで代表作、当たり役に恵まれていませんよね? 『かもめ』は私は好きだったのだけれど、世評はあまり良くないし、今考えても宝塚歌劇としてどうだったのかとか期待の新進スターの初主演作としてどうだったのかという点からするとはなはだ微妙でした。こんな逸材を潰すようなことがあってほしくはないのだけれど、さりとて過去の名作の再演でではこの人で観たいもの、似合うものがあるかと聞かれると「はて?」となってしまうのも、なんでもできる万能型スター故の苦しさかしら…ま、ファンはまた違った見方をしていてちゃんと支え愛し期待しているのでしょう。うん、やはりここはあまり心配しません。
 それよりカッシーの修行だよ。というワケで以下つらつら語ります。いつも私の書く感想は未見の方にはわかりづらかろうと思うのですが、今回はこの演目を観ない・観られない方も多いと思うので、意識して丁寧に書きますね。何がどう問題だったのかわかっていただければと思います。
 ご観劇のご予定のある方は、観終えてからまたいらしていただけると嬉しいです。なるべくフラットに観ていただきたいし、私自身も普段はそれを心がけているつもりです。と言いつつ常に、ハードルを下げようだが暴れる用意もやめられない…と揺れているのですけれどね(^^;)。幾分、常に意地悪に観がちであることは自覚しています、すみません。

 さて。
 プログラムの演出家の言葉を読んで感じましたが、そして今ここにあらすじを書き写す為に「Story」部分を読んで(私はネタバレを避けるため観劇前にはここは読まないのです)改めて感じましたが、カッシーあんまアタマ良くないね。若い人にありがちな頭でっかちさ、自分がアタマ悪いことに気づいていない系の、アタマいいと思い込んでいる系の書きっぷりだと思いました。まずはその自覚からだなー、そして作中でやたらと何度も台詞にあったけど「素直に」、もっとシンプルに基本に忠実に、作ることを覚えましょうよ。小洒落たテクニックを駆使したいならそのあとやればいいのです。残念ながらあなたはまだその域にない。
 まず、物語を展開するにあたり、まずはキャラクターを、ことに主人公のキャラクターを提示する必要があるのだ、ということを覚えましょう。この場合のキャラクターとは、その登場人物の名前、性格などの人となり、立場や身分などの立ち位置設定、のことです。
 よくギャグにされる、昭和の時代の少女漫画にあった「いっけなーい! 私、○○。遅刻、遅刻!!」とか言いながら食パンかじって走るセーラー服の少女のイントロ、あれは実はとても正しいのです。これで彼女の名前がわかり、寝ぼすけだとか粗忽者だとかあわてんぼうさんだとかいう性格が窺え、学生であることがきちんと提示されている。可愛い絵柄で読者も好感が持て、さてではこの子が何をやらかすのかな…と「彼女の物語」を追う気になる。こういう「つかみ」が物語を展開する際に必要なのです。
 宝塚歌劇は基本的にはファンが観に来るものであり、主役への好感度は前提としてあるのだから、その環境としては恵まれています。でもみんながみんなまこっちゃんのファンで彼女が主役で主人公の名前はリュシアンでアルノー公家に預けられている、と知って観に来ているとは限りません。そこに甘えてはいけないのです。
 だからベタだろうがなんだろうがまず、「僕、リュシアン! わんぱくで両親の手に余るからって、親戚のうちに預けられちゃってるんだ!!」から始めるべきなんです。これが今の脚本ではまったくできていません、彼が誰でどんな人間で何故ここにいるのかさっぱりわからない。観客をつかめていないのです。
 名乗らせるなんて演出としては下の下です、だからギャグにされるのです。でもできてないより100万倍マシです。隣の大劇場公演を観ましたか? 生田先生はちゃんとまぁ様に冒頭で「♪僕の名はウィリアム・シェイクスピア」って歌わせていますよ? そして歌詞とそのすぐあとの展開で、彼が夢に燃えた駆け出しの劇作家であることを提示している。そこへ妻アンが訪ねてくる、さあこのふたりの物語を追おう…って観客は物語の世界に誘われていくのです。
 リュシアンの名前、わんぱくで無邪気な少年であること、親戚のうちで出会った年上の少女に憧れていたこと、をまずきちんと提示しましょう。リュリュだのなんだのといったエピソードはその後です。子役はとても健闘していたと思うけれど、いっそまこっちゃんにそのままやらせたってよかったと思います。それくらいわかりやすくしないと、現状では「誰この子? え? これが主人公なの?」ってなっちゃってますよ。13年後のまこっちゃんリュシアンが過去を夢に見ていたのだ、というのもすごくわかりづらかったですもん。子役とのスライドってそれこそもっとベタにやらないとダメですよ。『月雲』とか『白夜』とか観た? 子役がセリ下がったら本役がセリ上がるとか、子役と背中合わせに立った本役がくるりと振り返って大人になるとか、ああいうことがちゃんとできないのなら、『星逢』のように本役が子供時代をそのまま演じたってよかったのです。まこっちゃんならきっと上手かったよ?
 思わせぶりな台詞や歌詞をアンサンブルに任せて、各キャラクターや国内外の情勢をわからせようだなんて無理、無理。下級生には残念ながらそこまで聴かせる力はありませんし、観客だってそんなに熱心に歌詞を聞き取って設定を読み取ってくれたりなんかしません。
 わんぱくな少年が憧れていた少女がお嫁にいってしまう。少年は再会を誓うけれど、少女もそして観客もそれがそうたやすくはないと知っている。そして年月がたち…というイントロが「素直に」受け入れられて初めて、観客はこの物語の世界に入れるのです。その工夫の術を、演出家としてまず身につけましょう。
 シャルロットは書けているのだから、できるはずです。はるこがたおやかで可愛くてすばらしい、というのを別にして、ある種の政略結婚だけど両国の架け橋としてがんばるわ、と前向きに語る明るさ、強さ、彼女の魅力がきちんと提示されている。それが失われる悲しい予感すら出せている。これを全キャラクターにやらなくてはいけないのです。主人公が一番書けてないんだよねー、残念です。

 次に劇団首脳部(なるものがあるとして)に言いたいのですが、新人がこんなミステリー仕立ての企画を出してきても通してはいけません。書ききれるわけありません。
 主人公が探偵役になるミステリーの場合、観客は主人公と一緒になって事件の真相に迫っていくことになるわけですが、主人公のキャラクターすら明確に提示できていなくて観客の彼への共感も呼び起こせてないのに、そんなこと無理です。かつ、彼が何を知っていて何をどう疑問に感じていて何をしようとしているのか、もうまく提示できていません。こんなんで謎解きも何もあったものじゃないのです。舞台自体がナゾになっちゃってるんだから!(爆)
 カッシー、ここでもまずは順番にやればよかったんだよ。まず13年の間に何があって今のリュシアンがどこでどうしているのか、を提示しよう。なんか悪友たちが歌っていたのかもしれないけどそれでは伝わらないってさっきも言いました。
 二幕でまこっちゃんがきーちゃんエマ(真彩希帆)に語るくだりが、まこっちゃんの芝居が素晴らしかったんですよね。声に色と情感があって、聞かせた。そこで初めて彼の13年間の屈託を知ったんですよ、何故シャルロットに会いに行かなかったのか、その間どうしていたのか、それをどんなに後悔しているか。やっと彼の気持ちがわかりました。でもそれじゃ遅いでしょ? 好きな女がいて、死んだらしくて、死の真相を知りたい! 起承転結のそこまでが「起」でしょ? なんで二幕で語らせるねん。これがないから、彼がなんでそこまで過去にこだわるのかサッパリわからなくて、観客の心は主人公から離れてしまうのですよ。
 しかも事件に関し彼が何を知っているのかもきちんと提示されていない。これではミステリーが成立しませんよ。彼がシャルロットの死を聞かされるところから始めるべきだったのでは?
 私は王とアルノー公がその話をするときにリュシアンがしらっとしているので、「あ、もう知ってたの?」とそこまで話が飛ばされていることに驚きましたし、「なのになんでこの男は何もせずここで平然とチェスとかしてるわけ? 彼女を愛していてその死の報に不信感があるならさっさとなんかしら行動しないの?」とますますこの主人公のことがわからなくなりました。そんなふうにしちゃダメでしょ?
 しかも事件の前提がそもそもよくわかりません。シャルロットの生死がそもそも怪しいのか? 死んだとされているが幽閉されている、とかの疑念がある、とかではなくて? 死んだことは確定していて、死因が怪しいということなのか? 夫を殺したかどで処刑されたという噂、というけれどどこでのどの程度の噂なのか? ということは「処刑された」とは公表されていないということなの? なのに何故そんな噂が出るの?
 ベタでもリュシアンに「シャルロットが死んだなんて嘘だ!」と嘆かせるとか、「彼女が人殺しなんてするわけがない、濡れ衣だ!」と叫ばせるとかしないと、観客には彼が何をどう疑問に思っているのかもわからないわけですよ。ぶっちゃけシャルロットは過去の女でこれからヒロインのエマとのラブがあるんでしょ?くらいのことは思っている観客も多いわけで、主人公と心が離れること甚だしい。こんなんでおもしろい謎解きになるわけないじゃないですか。その後の展開のずさんさより何より、こういうことが問題です。
 この物語は、というか企画は、最初から負け戦なんですよ…通しちゃダメだったんです。通すならもっと叩いて叩いて、きちんとしたものに直させるべきだったのです。

 細かいことはきりがないので大事なことをあとひとつだけ。
 小説を書くとか漫画を描くとか映画を撮るとか、要するに物語を作る、ということは要するに人間を描くことであり、それすなわちその愛と生死を語ることなのではないか、と私は漠然と思っているのですが、これまた年寄りの繰り言と思ってくれてもいいし若い世代にありがちなことなのかもしれないけれど、愛と生死をあまりに軽く扱っていませんか? この作品。
 実は結局のところよくわからなかったんだけれど、シャルロットって本当に夫の後追い自殺をしたってことなのでしょうか? それは愛ゆえに、そして夫に死なれたことへの絶望ゆえにだったのかもしれないけれど、そう書くと美しいかもしれないけれど、私はやっぱり自殺を簡単に選ぶ人間のことは好きになれません。公国のことも母国のことも義理の娘のエマのこともすべて投げ捨ててシャルロットが自死を選んだのだとしたら、私は彼女を好きにはなれないし、彼女を愛していたリュシアンのことも好きになれません。
 でもそれじゃダメでしょ? 何度も言ったけれど、キャラクターの好感度を下げてはいけません。ひいてはその役の中の人である生徒を好きにさせてなんぼの宝塚歌劇なんですから、これは許されないことです。
 愛する夫の後追い自殺をする女を美しい、哀れでいいとか思ってカッシーがこれを書いているのなら、あまりに人間とか人生とか生命とかをナメた見方をしていると言えるのではないでしょうか。若いから、未熟だから、ではフォローできない、作家に向いてないよとしか言えないものを私は感じます。
 ヴィクトル(瀬央ゆりあ)に関しても同様です。これまた二幕になって急に生い立ち設定とか展開させるのは遅いんだよ、という指摘はもう面倒なのでしないことにして、でも彼にこれだけのドラマを背負わせたいという意欲は買います。
 ガルニール公の次男で、優秀な兄を誇りに思い愛し敬い追いつこうとがんばってきた利発な少年。けれど実は妾腹の生まれで周りからは陰に陽に差別され蔑まれ、ついには心がゆがんでしまった男。わかるよ、彼が悪いばかりじゃなかったんだね。
 でも結局のところ彼が兄を手にかけた、そういうことですよね? 強い愛情が憎悪に反転することはよくあることです。しかしそれで実際に殺人を犯すかどうかはまた別の問題だと私は思う。ヴィクトルが兄を殺したとした時点で彼は観客の同情を失うと思います。命というものはそれほど重い。
 彼が、死にかけた兄を故意に救わなかった、とかではダメだったの? 結果的に殺してしまった、それを当人もすごく後悔している、だがもうこの手は血に汚れたも同然だ、だから義姉の自死も利用する、医者も殺させる子供も殺す…なら、まだ、わかったかもしれない。そういうデリカシーを求めたい。
 それができていたら、彼もただの悪人ではなく、苦しかったのだ、犠牲者だったのだ…みたいにまとめて、それこそW主演に見えるくらいにもっていけたかもしれません。でも現状、カッシーが人の命というものをあまりに軽くしか考えられていないから、ヴィクトルはただの殺人者に成り下がってしまっています。何度も言いますがこういうことではダメなのです。
 『ロミジュリ』じゃないけど、愛と死について、もっともっと考察してみよう。それを安易にしか描けないなら、それは作家としての才能がないということです、残念ながら。この点が実は一番大きな問題なのかもしれません。

 というワケで以下は、まったく罪がなく、かつそれぞれに大健闘していた生徒さんたちの感想を。
 まこっちゃんは本当になんでも上手いし、久々の男役を楽しそうにいきいきとやっていて、私は格別のファンということはありませんがとても好感を持ちました。きーちゃんとのデュエットソングの耳福っぷりは裏公演の『ラブドリ』と同等かしのいでいたかもしれません。
 ナウオンでも語られていましたが、リュシアンとエマは似たもの同士で、どちらも本当は明るくやんちゃで元気なキャラクターなのに、状況のせいで今は屈折していて、それが回復されていくお話なのだ…という側面がもっと生かされてくると、もっといいロマンスに仕上がったのかもしれませんけれどねー。
 普通に考えたらとんでもないSっぷりというか傍若無人さ(というか当人であるエマの無視っぷり)も、まこっちゃんが力技で愛嬌に見せていましたからねー。ああ、もっといい作品を与えてあげてください…
 フィナーレのソロは、振付はともかくお衣装がいただけない気がしたのは私だけなのでしょうか…もっといい場面を与えたあげください、あたらこんな逸材を…(ToT)
 初バウ・ヒロインのきーちゃんも素晴らしかった! とにかく歌声がまろやかで、お姫様役としてきちんと可愛く作れていたのも素晴らしかったし、リュシアンと反発したり心惹かれたりといった細やかな心の動きもうまく表現できていました。ラストのムリクリなラブコメ展開をギリギリ成立させていたのは、ひとえにふたりの力量です。本公演レベルですね、もっと大きな役が観たい!
 せおっちは髭がセクシーで、「スパイス」なんぞに収まらない存在感を見せていました。新公を主演して一皮向けましたよね、フィナーレのセンターっぷりも立派だと思いました。
 ただ意外と声が高いというか軽いんですね。一朝一夕ではどうにもならないことかもしれませんが、踏ん張ってほしいなーと思いました。
 「娶るか」は例えば『月雲』の「私が強いたのです」くらいインパクトのある萌え台詞になりえたと思うんだけれどなー…残念です。
 ヒロさんはさすがでしたが役不足、無駄遣いかと。柚長もなー、実は彼女の継子いじめがすべての根源だったんだからもっとドラマを背負えたのになー…これも生徒の罪ではありません。
 白妙なっちゃんのセシリアも中途半端な役でなー、ナポリ王の庶子だかで不遇でグレててヴィクトルの愛人で? 脇筋としておもしろいんだけどカッシーにそこまで書く力がまだないんだよ。なっちゃんは的確に色濃く演じていてよかったけれど、ドラマとしては不発だったと思うので残念です。生徒の罪ではありません。
 はるこは素晴らしかった! あるべきシャルロット像だったしそれ以上だったと思います。ヴィクトルは兄嫁である彼女に懸想してしまって、それでゆがんだところもあったのでしょうね。そんなドラマもあったんだろうけれど残念ながら今のカッシーには以下同文。
 オレキザキはシブくてカッコよかったー! 声がいいですね。フィナーレがキレッキレだったのも印象的でした。二役の医者は顔が見えなさすぎたけど(^^;)。
 ヴィクトルの傭兵バルトロメ役の漣レイラも、もっとおもしろくなる役だったのに書けてないもんでほとんど失笑ものでしたが、生徒は野太く荒々しく作っていて強い印象を残してくれました。
 この時代の片外しマント(ケープ?)、彼だけ『シェイクスピア』同様右側を外していて、残りの登場人物たちは左を外していましたが、どういうことなんだろう? 右腕か開いていたほうが動かしやすそうですが…
 シャルロットの乳母ロジーヌ役は紫りら。いつの間にこんなに存在感ある娘役に…求められる役割をきっちり果たしていたと思いました。
 ガルニールの貴族エルネスト役が紫藤りゅう。本来なら儲け役になるんだろうけど、あの冷めた客席では笑いはすべって当然だよね、お気の毒でした。あと、明るく綺麗だけどお調子者でヘタレ、みたいなキャラが極美慎演じるエティエンヌとどっかぶりなのが本当に気の毒。カッシーの芸のなさ故です。でもこれで私は顔と声を覚えられたかなー。
 ガルニールの貴族の娘アデール役が華鳥礼良。私は以前からなんとなく好きなタイプの顔だなーとは思っていた娘役さんだったのですが、こんなに大きな役がついたのは初めてなのでは? すごくいい仕事をしていたと思いますが、カッシーの非力さゆえにぶっちゃけ浮いて見えたと思います。お気の毒…生徒の罪ではありません。
 売り出し中の綾凰華はフランス王の、侍従かな側近かな?のマルセル。プログラムにキャラクター記載がないくらい番手というか学年が下なのか…押し出しが良くてオーラがありますね。ホントはもう少しクールにシャープに作るといいキャラクターだった気がしますが、今後に期待。
 他にはヴィクトルの子供時代を演じた天希ほまれ、エマの侍女リーズを演じた麻倉しずくが達者で印象的でした。
 ニコラの拓斗れい、ノアの彩葉玲央も目立っていましたね。でもニコラは役として空回りしていたような気が…カッシー本当に頼みますよ…

 これもひとつのいい経験として、今後に生かされることを切に祈ります。観ないという選択肢はないのだから…生徒は演出家を選べないのだから…頼みますマジで!








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2 コメント

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Unknown (とおやま)
2016-01-25 18:25:42
久しぶりにこちらへお邪魔します。

私は24日14時半を観劇しました。
言いたいことは数々あれど、とにかくフィナーレソロダンスの衣装は最悪だと思いました。
そもそも、あのタイプの衣装を着てサマになるジェンヌはそう多くないと思うのですが、
よりによって主演作の大切な見せ場で、わざわざあれを着せる神経が全く判りません。
ダンスはとても上手なはずなのに、全く素敵に見えなかったという…。
宝塚の作家はスターをカッコよく見せるのがお仕事なはずなのに、樫畑氏はその点を理解していない気がします。

私、今作のタイトルを見た時に嫌な予感がしたんですよねえ。
「思い出の淵から見えるものは」ってサブタイトル、必要ですかね。
(観劇後もさっぱり意味が解りません)
「アル・カポネ~スカーフェイスに秘められた真実」と同じくらい、ダメダメなタイトルと思ったのですが、果たして。
大体、小説でも演劇でも放送番組でも、つまらん副題を付ける作品ほど出来が悪いと相場が決まっております。

星組の下級生には疎いのですが、声は良く出ている子が多かったような。
華鳥さんは、成績が良い割に活躍の場が少なかった印象でしたが、お上手でした。
星組で私が一番好きな輝咲玲央氏がシブくてうっとり。
傭兵役のかなえちゃんは、もう少し美味しい役になってよかったはずなのに残念。
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まったく同感! (とおやまさんへ)
2016-01-27 11:37:44
サブタイトル、ホントそのとおりだと思います!
フィナーレのお衣装も、やはりそうですよねえ…?
ファンの方にはカッコよく見えるのかな、どうかな…(ToT)
そしてマルセルは本当にもったいなかったと思いました。生徒もキャラクターももっと使えたはずなのに…!

いろいろやりたいことがあるのはいいし、がんばっているんだろうけれど、もうちょっと基本を抑えて最低ラインを上げてほしかった、というか…
ああもったいない。デビューってなかなか難しいんですねえ…

生徒さんたちが熱演でなんとかしてくれていることを祈ります。
でも今年後半のバウとかも心配だなあ…(><)

●駒子●
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