駒子の備忘録

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宝塚歌劇花組『邪馬台国の風/Sante!!』

2017年08月05日 | 観劇記/タイトルや・ら・わ行
 宝塚大劇場、2017年6月15日15時。
 東京宝塚劇場、7月28日15時半(初日)、8月1日18時半。

 今から1800年前の古代日本。狗奴国との戦で孤児となった少年タケヒコ(明日海りお)は追手から逃げる途中、大陸から渡来してきた李淵(高翔みず希)に救われ、彼のもとで戦術と共に生きる術を学ぶことになる。ある日タケヒコは、狗奴兵に襲われていたマナ(仙名彩世)という少女を助ける。巫女になるために邪馬台の里へ向かうと話すマナは神の声を聞き、未来を知る力があるという…
 作・演出/中村暁、作曲・編曲/西村耕次、鞍富真一、森本友紀、振付/北浜竜也。

 私は1993年6月に宝塚歌劇を初めて観て以来のファンなので、ファン歴25年目に入りました。個人的なブームとしては第三期だと考えていて、今が一番熱心に観ているかもしれません。過去にもそれなりにのめり込んでいた時期も、忙しかったり好きなスターが減ってきたりして遠ざかり気味だった時期もあり、そういう意味では山あり谷ありだったかもしれません。今はツイッターでいろいろな情報が得られたくさんの方々の感想や意見が読めるので、より愛が深まりこじれてしまっているのかもしれません。
 『邪馬台国の風』に関する評判は大劇場初日からそれこそ風の噂でイロイロ聞いていたわけですが、さて実際にはどれほどのものだろうとまずは大劇場に出かけて、ある程度の覚悟をして観ましたが、それでも心底驚き絶句しました。それに関してはつぶやかないではいられませんでした。どこがどう、というのはネタバレに当たるから語れない、というよりも、どこもかしこもつっこみどころだらけでとてもいちいち言及していられない、という感じでした。
 友会で東京初日が当たったのでまたまた出かけてきまして、細かいところがちまちま変更されているのは私でもいくつかはわかりましたが、そういう問題ではなくとにかく全体にしょーもないのはまったく変わっていないとしか思えなくて、これまたそう正直につぶやかないではいられませんでした。あきれて笑う、というよりは怒りに震える、という方が感覚としては近かったです。
 もちろんこれはあくまで個人の感覚であり、また晴れがましい初日に、まだ観ていない方もたくさんいるのに、あるいは好きで楽しく通っている方もたくさんいるのに、そんなマイナスの言葉を撒き散らすなんて、というようなお叱りのリプもいただきましたが、ツイッターとは個人のつぶやきが並ぶ場だと思いますし、最近ではいずれの公演もそうですがこの公演でも東京公演のチケットは幸いにも完売しており中でもダブついていることはないようなので、私個人の一意見が売れ行きに響き劇団の未来を左右するなんてことはないと思い、返信もしませんでしたしツイートの撤回もしませんでした。不快にさせたのだとしても謝りたくありませんし、それで言うなら私はこの作品に関して中村暁氏にそれこそ不快にさせられましたが、別に謝ってほしいとも思っていません。生徒に謝れ、とは思いますけれどね。そしてこれ以上の改変はもうできないのだろうから、ショーはともかく今後は二度と芝居の脚本・演出家としては登板していただきたくない、と念じるのみです。
 すべての非は中村氏にあります。そしてこの作品をアリだとして、ヨシとして上演している劇団にあります。生徒には1ミリも非はなく、通っているファンにも1ミクロンも非はありません。生徒に出演しない権限はないし、ファンには通わないという選択肢はないからです。評判を聞いて観に行くのを見送れるような幸運なファンはさておき、贔屓の生徒の会に初日のずいぶん前からチケットを頼んでいるようなファンに逃げ道はありません。健全な商業娯楽としては出来の善し悪しは売り上げに響くはずですし響くべきですが、宝塚歌劇はそういう健全な構造になっていません。その悪影響がいつか出て150周年や200周年を迎えられないことを私は恐れていますが、別にそれを案じて怒っているだけではありません。物語を愛好し、創作という行為に敬意を捧げる者として、こんな中途半端で不出来でブレブレでしょーもなくて支離滅裂で愛も情熱も見識も捧げていないようにしか見えない「作品」を掲げている「作家」に腹を立てているのです。
 『大海賊』とか『EL DORADO』とか、近年なら『CODE HERO』や『黒豹の如く』とか、まあ『ヴァンサク』や『瑠璃刻』もたいがい不出来だったと私は思ってきましたが、今作はそれらより段違いにダメダメだと思っています。
 突然ものっすごい天才が現れてぜんぜん次元の違うものを作り上げることもあるかもしれませんが、それはそれとして、物語作りにはある程度のルールというかセオリーというものがあります。それは学習できるし、さしたる才能がなくても職人芸である程度できます。それを踏まえて初めて最低限のレベルに達するわけで、おもしろいとかつまらないとかはそれより高次の問題です。この作品はその最低限レベルに達していません。私はそういうことに怒りを覚えるタイプなので、こんなにも怒っているのでした。
 そこにはそこまでこだわらない、という人がたくさんいることも知っています。この程度の駄作や珍作、トンチキな作品なんてたくさん観てきたよ、という意見があることも知っています。時代錯誤な男尊女卑感覚に基づく不愉快な台詞や不愉快な下ネタみたいなものがある作品の方が嫌で、そういうものよりマシ、といった評価をする意見もたくさん見ました。でも私自身はそういうものよりむしろ、不出来であること、稚拙であること、芸がないことが嫌なんだな、ということが自分でもよくわかりました。だからこの作品は私の中では歴代一支離滅裂でしょーもない駄作です。一周回って愛をこめて言う「駄作」ではなく。もちろん愛ある「トンチキ」でもなく。
 私はこれは「作」になっていないと思うのです。それが嫌なの。そんなものがなんの精査もされず平気で上演される世界、あんなにも魅力にあふれたぐいまれな実力を持ち多くのファンに愛されている生徒たちを使って上演される現実が許しがたい。これでいいと本当に思っているの?と厳しく問いたい。これはそんな怨嗟の記事です。苦手な方はご遠慮ください。

 物語の根幹となるのはキャラクターです。主役ふたり、せめて主人公は、ブレずに固めて、きちんと立ててほしかった。宝塚歌劇でも残念ながらヒロインは類型的、記号的になることがままあるので、そこは目をつぶることにしてもいいでしょう。でも主人公は大事です。
 これだって、宝塚歌劇にはアドバンテージがあるんですよ。つきあいで連れられて来たまったくの一見さんとかを除けば、公演を観に来るのはほぼ全員が宝塚歌劇ファンなのですから。今回で言えば、たとえみりおのファンではなくても、みりおがこの組のトップスターでありこのお芝居の主人公を演じることはほぼみんながあらかじめ知っているのです。これは強い。わざわざこの人が主人公ですよ、この人の身になってお話を追ってくださいね、と作家が演出する必要がほぼないという、恵まれた環境なのです。
 普通は、まずは主人公の人となりを魅力的に見せて観客の興味と関心を引き観客に主人公への好感を持ってもらい、主人公に感情移入してストーリーを追う気構えを作ってもらうステップが必要になるのです。それができないと、興味も好感も持てない単なる他人のまさしく他人事になってしまって、観客はお話を親身に楽しめないからです。
 今回の観客は、みりお演じる主人公タケヒコ(まあ出足は子役の華優希ちゃんですが)を好きになる準備がほぼほぼ最初からすでにできています。だからキャラクターをごく簡単に明示してあげるだけでいい。キャラクターとは、立場とか出自とかのプロフィールというかの設定パートと、性格とか人となりとかの個性・魅力パートに分かれます。タケヒコの設定は、狗奴に両親を殺された少年、ですね。では性格は、となると、まずこれがあいまいで、こちらとしてはとまどうのです。
 復讐に燃える、短気で喧嘩っ早くて好戦的な熱い男ということなのか? だから師匠から「戦う術」として棒術を習いたがるのか? でも棒は剣と違って直接相手の命を奪うものではない、とされているんですよね? 相手の攻撃を防ぐもの、相手を遠ざけるもの、相手に勝つというより相手に負けないもの…なのではないの? 
 それとも師匠のように降りかかる火の粉を払うだけの、本当は戦うこともしたくない平和主義の優しい男で、単に師匠に師事したいというだけのことなのか? いつか争いのない世界を作りたい、そのためには今は戦いも恐れない、というようなこと? それともここではないどこか、戦いのない世界へ逃げたい、師匠の故国のような広い世界に出てみたいと夢見る男ということなの?
 ここで主人公のキャラクターが確立され思想、生き様、望みが明示されると、自ずとストーリーの目指すべき先が立ち上がってくるので、観客は安心してお話の展開に乗っかれます。物語とは主人公の望みを巡って展開されるものであり、そのゴールは主人公の望みが達成されるハッピーエンドか、叶わずに終わる悲劇かに大別されるものです。主人公の望みはその人となりから立ち上がってくるものですが、この作品はそれが明確でない、かつ場面によってくるくるふらふら変わるように見える。だから観客は混乱させられるのです。
 もちろん巻き込まれタイプの、主体性のない、受け身のタイプの主人公の物語というものも存在します。白い王子を描くことが多い宝塚歌劇の場合、その比率はけっこう高いと言ってもいいかと思います。でも今回はおそらくそれに当てはまるケースではありません。タケヒコは自分の意志で棒術を習うし、自分の意志で山を下りて兵士になるのですから。ただ、その行為の裏にある肝心の意志、意図、その意味がわかりづらくて、観客を混乱させるのです。
 主人公が復讐を望んでいるのなら、それが主軸の話になるのであろうと想像がつく。平和を望んでいるのなら、にもかかわらず争いに巻き込まれるドラマが展開されるのだろうな、と想像がつく。いずれにせよ戦いのドラマが想定されるのは、二番手スターがライバル役として敵国の兵士を演じているからです。その戦いに対し、主人公の意志、望みはかなり重要です。でもそれが冒頭で明示されず、その後もブレまくる。だから観客はイライラさせられる。迷いを描くことに眼目があるならそれでもいいけれど、これはおそらくそれに以下略。ああ疲れる。
 こちらがいろいろ考えすぎですか? でもならそういうフラグをいちいちいろいろ立てるのやめて? 混乱するだけなんですけど…よくできた作品はこんなことをいちいち考えさせず、すんなり受け入れさせてお話の世界に運んでくれるものです。
 ホント、解釈不能な、あるいは相反するフラグがむやみやたらと立つんですよ。たとえば師匠が言う「戦う術」に対する「生きる術」ってなんのこと? 薬草を採って薬を作って売って暮らすとか、そういうこと? でも師匠と麓の村人(というものがいるんだとして)との関わりみたいなものは描かれも語られもしませんし、タケヒコも棒術の訓練と薬草採りだけして大きくなったようで、師匠以外の人間と交わって育ったのか全然描かれていません。完全にふたりきりで閉ざされた中で育つというのも不健全な気がしますが、はたして彼がどんな暮らしをしてどんな人間に育ったのかさっぱりわからず、師匠の教育方針もそれで育ったタケヒコの人となりも捉えられなくて、混乱するしかありません。
 あと、のちに引っ張る熱湯に手を突っ込んでも大丈夫な秘術、これはここではともかく最終的には種明かしをするのがルールだと思うんですけれど、結局されませんよね? ここでは薬草と冷水が必要だと言われていますが、結局どういうことなの? 火傷の治療にはアロエが効く、みたいなことなら現代でも言われていますが、事前に塗っておくと火傷しないすごい薬草がある、とかってことなの? こういうギミックにはタネが必要ですし、それを考えるのは作者の責任です。ここにアイディアが出せないならこんな題材は扱うべきではありません。魔法じゃないんだからさ。これ、地球の話なんでしょう?
 棒術を教えてまあまあの成果が出たから剣を授ける、というのも謎です。棒と剣は別物でしょう? タケヒコはこれまでに剣の稽古もしているの? そしてこの剣、こんなふうに曰くありげに下賜されたわりにはその後なんの活躍もしませんよね? 伏線張ったら回収する、回収しないなら張らない、ってのも物語作りのルールだと思うんですけど…
 かっちょいいプロローグはいいとして、本編が始まってたかだか5分でこの有り様。そりゃ疲れますよ…

 主人公の師匠が襲撃されて殺され、なので主人公が下手人を追っかけて、襲われている少女を助ける。綺麗な流れです、ヒロインの登場です。
 ヒロイン・マナの設定は、神の声を聞く能力を買われて、邪馬台の巫女となるべく家族とも別れて故郷を出てきた少女。人となりは…おきゃんであるとか泣き虫だとかの特徴や個性は特になく、そういう意味でキャラクターとして立てられておらず減点ですが、まあ周囲の要望に応えて自分の使命を果たそうとしている真面目でけなげな娘であることは一応わかるので、先に言いましたがヒロインとしてはギリギリ成立しているかな。観客のほとんどはもちろんトップ娘役たるユキちゃん演じるこのマナがヒロインであることを承知しているので、特徴のないキャラクターとして弱いヒロインでもヒロイン認定して話を追っていける、という意味です。
 お互いなんかときめいちゃって、前世で会ったことすらあるような…とか言い出しちゃうのはなんかすごくトートツですが、恋の描き方がヘタな作家はたくさんいるので(宝塚歌劇の座付き作家としてはほとんど致命的だろうと私は思っていますが)まあ目をつぶりましょう。ただ、大事な母の形見の首飾りを渡したんだったら、それはあとで何かに使いましょうよ。芸がないなあ…
 また、ここでマナに、タケヒコがやがて外国に行くと予言させちゃうのはネタバレチックではあるんだけれど、お話の最終的なゴールが暗示されて観客がそこを目指して話を追えばいいと安心できるという意味では悪くありません。ただ、ゴールを明かしてしまった以上、その途中の山あり谷ありっぷりはよりがんばって作らないと観客を満足させられなくなるというハードルを自分に課すことになっているんですけど、その覚悟がこの作家にあるとは思えないところがまたなんともつらいです。
 あとマナのこの、神の声を聞く能力ね。魔法や超能力は無制限だとなんでもアリになってしまって全部解決できちゃうんだからピンチが作れなくなって、ピンチがない話なんかつまらないに決まっているんだからそれじゃダメで、なので発動条件があるとか制限があることにするのは創作のセオリーなんですけれど、この話ではノー・ルールになっちゃってますよね? これはご都合主義すぎてダメです。よくあるのは幼くて純潔だったころは神が下りたのに、成人して異性と交わるようになるとダメになる…みたいなルールですが、マナはそれには当たりませんよね? タケヒコとまだ肉体的に結ばれてはいなくても精神的に惹かれていたらもう神の声は聞けなくなるのだ、というなら、ふたりで一緒に逃げようとなったとたんに予知ができるようになるのはおかしいし…こういうちぐはぐさにイラつかされるのです。
 ちなみにのちの日食の描写は噴飯ものでした。卑弥呼が日食を予知した、というエピソードはわりと広く知られたものかとは思いますが、それでも知らないで観てあれが日食のことだちちゃんとわからない観客もいたのではないでしょうか。日食が終わっていくときにあんな日の差し方しませんよ? あのスポットライトはおもしろすぎて、私は怒りで震えましたね…

 邪馬台に向かうマナと別れたタケヒコが、まだ山で何をするというのか、やることがあるなら何故その後ほどなくして山を下りたのか、何故兵士になることに決めたのかもよくわかりません。スカウトしてくれたアシラ(鳳月杏)に惚れたのか?とか茶々も入れたくなるというものです。
 そしてタケヒコとマナが再会する場面も、マナが女王ヒミコになっているのを知ってタケヒコが驚く…というのはわかるのですが、マナがタケヒコを見分けられたのかどうかはなんだか描き方があいまいでわかりづらくなっているのがよくないと思いました。でもマナは動揺し、急に女王としての務めを重荷に感じ出し、ひとりの女として生きたいとか言い出す…ご都合主義すぎますが、ロマンスの流れとして容認できないこともありません。
 しかしアケヒ(花野じゅりあ)に手引きされてマナに会いに来たタケヒコが、いきなりマナに説教し出すのはなんなんだ。夜這いに来たんじゃないのか。女王として生きろと言うだけならわざわざ忍んで来なくてもいいだろう、すでにマナは女王として立派に生きているんだから一介の兵士にわざわざ言われることもありません。
 あと、タケヒコは彼女のことを自分が救い密かに愛しているマナだと思っているなら彼女を「マナ」と呼ぶべきだし、今はお互い立場が違っているので一兵士として仕えるべき女王ヒミコだと思っているなら彼女を「ヒミコ様」と呼ぶべきでしょう。なんのために名前を変えたのよ、なんで「ヒミコ」って呼び捨てなのよ。捜索として杜撰すぎます。
 タケヒコがマナにヒミコとして国のために生きろというのは表向きの正論で、やっぱり本当は一男女として愛し合い普通に暮らしたいのだ…ということならそう観客が取れるように上手く台詞を重ねてほしいものですが、そうできていないので、タケヒコの言動が一瞬一瞬くるくる変わるようにしか受け取れず、こちらとしては主人公の真意がつかめず超ストレスなのです。説教して去るだけならまだしも抱きしめるなんて余計なことをするから、それをヨリヒク(瀬戸かずや)たちに見とがめられる…これもその前に、お互いの今の役目や立場に引き裂かれそうになる、本当は愛し合うふたりのせつなさ…みたいなもので盛り上げられていれば、急転直下ピンチ!となってドラマチックなのに、今はご都合主義、話の展開のための作為しか感じられません。
 そしてキミーズたちが歌う馬鹿馬鹿しい歌の歌詞ね…もうホント聞いていられません。子供の作文か、とつっこみたい。平明でわかりやすい言葉を用いるのは大切なことですが、それでも芝居なんだから、演劇なんだから、戯曲なんだから、全体にもうちょっと詩的で含蓄ある言葉も使ってほしいのだけれど、全体にとにかく浅薄で頭が悪い言葉の用法なのが嫌。ちなみにここの「侍らせる」はそういう詩的で文学的なも言葉として使っているんだろうなと思うだけに、いやむしろ誤用に近いだろうと私はますますイラつくのでした。歌わされているキミーズたちの中の人まで間抜けに見えるからホントやめてほしい。花組が誇るスターたちが扮しているんですよ?

 スターの無駄遣いという意味ではタケヒコの兵士仲間たちもそうで、一応それぞれキャラが立てられているところは褒めてもいいかと思うのですが、片思いの連鎖は単に一方通行で想いが流れているだけでそこでこじれてなんらかのドラマが展開されるわけでもなく、そしてみんなほとんど犬死にみたいな形で死んでいくのでビックリです。死ぬからかわいそうでしょ泣けるでしょ?ってことではないんですよ、むしろ彼らがこんな扱いをされることが不憫で悔しくて怒り泣きしますよ私は。
 この戦いの中でライバルであるはずのクコチヒコ(芹香斗亜)があっさりかつ不可解に死ぬのもビックリでしたし、そのあとの最大の山場であろう邪馬台国と狗奴国との決戦がまったく描かれない(東京でのやっつけな足しっぷりよ…)のもビックリでした。そこで主人公と大一番の大立ち回りをしてこそのライバルなんじゃないの!?
 てか二番手スターが演じるライバル役って普通はもっとおいしくなるものなんですけど、その「普通」ができていない。王に命じられるままただ戦っているだけみたいで、それは兵士としては有能なのかもしれないけれどライバルキャラとしてはなんの魅力もありません。彼にもなんらかの事情や設定は作ってあげられなかったの? ヒミクコ(星条海斗)も、専科まで呼んでやらせる役なの?
 こんなにも誰もかれもおいしくない芝居がかつてあったであろうか、いやない、反語、ってとこまでセットでツルツル出ますよね…(ToT)
 そして主役ふたりも別においしくないんですよ。タケヒコは能天気で無責任な男に見えかねないし、マナはただ取り残されて哀れで目も当てられない。イヨ(音くり寿)、支えてあげてね…
 てかイヨに大巫女を譲ってマナがヒミコからマナに戻ってタケヒコと一緒に外国に行ったってよかったんじゃないの? ユキちゃんのお披露目公演なんですよコレ? 東京からそう改変してふたりで銀橋渡って下手花道にハケていってくれてもよかったのに…
 そこまでしないなら大劇場のラストの、呆気にとられっぷりのままのラストの方がむしろよかったですよ。ふたりが意味不明にただくるくる回るところに幕が下りてきたときのあの衝撃は近年なかったものでした。
 本当に、本当につらい観劇でした…


 レビュー・ファンタスティークは作・演出/藤井大介。
 楽しかったです。いいダイスケショーの方なんじゃないかと思いました。
 でも芝居がアレだったからそう見えているだけかもしれません。『宝塚幻想曲』とかの方が出来としてはよかったかもしれませんね。
 個人的にはアンジュたちばっかり見ていました。あとカレーちゃんのロケットボーイが本当によかったです。
 でも花組は下級生にももっともっとたくさんスターがいるんだから、もっと使ってやってくださいよ…と思いました。あと、女装はホントもういいです、しばらく封印した方がいいですよマジで。

 組ファンが、なんとか楽しく通えているならいいな、と願っています……毎度ランボーな物言いで上から目線で、失礼いたしました。


 



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2 コメント

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Unknown (はなこ)
2017-08-11 14:15:50
私はもやもやするばかりで言葉にまとめられずにおりましたが、駒子さま、よくぞ書いてくださいました。土用の丑のウナギじゃあるまいし、掴もうとしても掴めない脚本なんか書くな!あんな芝居を一生懸命演じている大好きな花組生を見るのがあまりに辛くて、二度目はわざとショーだけ観に行ってしまいました。せっかく取れた貴重なチケットなのに・・・。
コメントありがとうございました (はなこさんへ)
2017-08-13 22:43:58
まさしくつかみどころのない脚本でしたね…
それでも一生懸命役に命を吹き込もうと真剣に演じている生徒さんが哀れでした。
ショーも楽しかったんですが、芝居がつらすぎたからより楽しく感じられてしまったのかもしれず、
正しくショー単体で本当によかったのか判断がつかないところもあり、
そういう意味でも被害は大きいなと思いました。
でも本当に生徒には力量があることはわかりましたし、
次回に期待したいと思います…!

●駒子●

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