東京宝塚劇場、2017年1月4日15時、19日18時半、31日18時半。
砂漠の古代王国イスファンは、隊商の行き交う城郭都市である。自分がどこから来たのかも知らず、物心つく以前からこの国の王女タルハーミネ(花乃まりあ)の奴隷として育てられたギィ(明日海りお)は長じるにつれ、美しく傲慢なタルハーミネに恋心を抱くようになる。タルハーミネもまた彼を憎からず感じていたが、奴隷との恋など立場が許すはずもなく、何より自分自身の誇りが許さないことから、ギィにわざと高圧的な態度で接するのだった。イスファンの王ジャハンギール(鳳月杏)には男子がなく、第一王女タルハーミネの婿に北の大国ガリアの王子テオドロス(柚香光)を迎えて後継としようと考えていたが…
作・演出/上田久美子、作曲・編曲/玉麻尚一。
『月雲の皇子』、『翼ある人びと』、『星逢一夜』と作品を紡いできたくーみんの大劇場公演第二作。
トラジェディ・アラベスク、という枠もいいし、年末からお正月にかけての公演で後もの芝居を、という依頼からエンターテインメントに徹して作った、というのも企画として素晴らしいし、トップスターになってから今ひとつ代表作と呼べるようなものがない印象だったみりおによくぞこれをという当て書きっぷりが素晴らしい。前作より組子に役が増え、スターそれぞれへの目配りも効いて、くーみんがスキルアップしているようなのもおこがましいですが頼もしく感じます。すぐ次に宙組公演を担当することも発表されていて、登板間隔が短くなっていることが気がかりではありますが、この才能がすぐさま枯れてしまうことはないでしょう。がんばっていただきたいですし、期待しています。
でもその次は少しおちついて、久々に小公演の二幕もののしっかりしたお芝居が観てみたいかな。今回も、私はそこまで駆け足には感じなかったし二幕ものにすべきだったとも思っていないのですが、本公演ならではの条件をきちんとクリアしている様子を頼もしく見る一方で、より自由度の高いハコや座組でのびのび筆を振るうくーみんもときどきは見たい、と思うからです。そういう意味では、やっぱり単純にファンなのですね、私は…
『星逢』はマイ初日からダダ泣きしましたが、『金砂』はそういう泣き方ではなかったかなあ。東京公演待ちでしたがみなさん巧みにネタバレを避けてくれていまして、私も「みりおは奴隷なんだけど実は王子ってことらしいんだよね、まあでもよくある設定ではあるよね」って程度の知識で臨んだので、マイ初日は主役カップルがけっこう早くくっつくスピーディーな展開やその後の「実は~」の重さに圧倒される一方で、そうキタか!と感心するのに精いっぱいで、フィナーレのデュエダンのラスト、大階段をゆっくり上っていくみりかのにほろりとする…くらいで終わりました。
二度目の観劇は、タルハーミネの激しさと、ジャー(芹香斗亜)のラストの悲痛な叫びに泣きました。マイ楽は、やっぱりかのちゃんのために涙した、かな…
お話のキャラクターとしては、私はテオドロスとジャーが好みです。ブリー(瀬戸かずや)も好きだけど。私はヒロインにフラれる男性役が大好きなのと、優しすぎて結果的に損をしちゃう優男が大好物なのです。あと、賢いんだけど賢すぎるまではいけてなくて、結果的に報われず歯噛みするような立場の人、が好き(笑)。なのでテオドロスとジャーなのです。
ジャーはいい役だと思うなあ。私はキキちゃんには個人的には萌えないし、客観的にもなかなかブレイクしきらない印象を持っています。でもこの役はとてもいい役だと思うんですよね。かつ難しい。二番手スターは辛抱役に回りがちだけれど、そういうこととは別に、なかなかの役者ではこうはできない役だと思っています。
でもじゃあこれでキキちゃんのファンが爆発的に増えるようなことになるかと言われれば、そんなことはない気がするし、むしろこんなにも難しい役どころであるにもかかわらずニンだけでやっているように見えてしまって、きちんと評価されないままでいるのではなかろうか…と余計な心配をしているくらいです。
でもくーみんの愛情はちゃんとこの役にも生徒にもありますよね。それは感じます。語り部、という立ち位置は、私は初見ではちょっとうるさいかな、と感じたのですが、物語全体の虚構性を高めたり、彼だけがこの物語の外へ脱出できて違う幸せを手に入れられたのだ、同じく物語の外側にいる観客にしかすぎない私たちとむしろ彼は同じところにいてくれる存在なのだ…と思えるような作りの温かさが、いいな、沁みるな、と思うようになりました。
ギィのように、ある種暴力的に盲目的に天才的に、愛に突っ走る生き方は普通の人にはなかなかできません。同じ王子の生まれ、奴隷の育ちでも生来の性格の違いがあり、仕える主人の性格やその他の環境の違いもあって、この兄弟はまったく違う生き方をたどりました。ジャーがギィの生き方、愛し方にあこがれることはもちろんあっただろうし、そういうセリフもありましたが、それはないものねだりであり、またある種口先だけの言葉というか、本当の意味での本心ではないというか、自分には無理だけどああいうのもいいなあ、みたいなぼやんとした感慨、感傷なんだろうなと私は思うのです。私は天才に対する秀才のひがみとか嫉妬とか諦観といったモチーフも大好物なのですが(笑)、そういう雰囲気を勝手にここに見て、萌えましたし、泣かされました。キキちゃん、いいよね。次回の主演公演も楽しみです。
さて、ジャーと第二王女ビルマーヤ(桜咲彩花)の愛情の遷移はとても自然だと私は思いましたし、変な負け惜しみではなくジャーはこの先別の誰かと別の幸せを手に入れるのだろうと自然に思えますし、私はそれを願ってやみません。そしてビルマーヤにも亡き夫ゴラーズ(天真みちる)への愛を偲んで生きるだけでなく、別の出会いが訪れるといいなと願っています。人生ってそういうものだと思うから。愛は永遠に変わらない、とつまらない作家は定型文で書こうとするところを、こういう移ろいを描くくーみんは本当にすごいと私は思っています。
とはいえ砂漠の世界は過酷で、ここに暮らす人々の寿命は長くなく、彼らに残された時間はもうそう多くはないのかもしれない、とは一方で思わなくもないではないのですがね。せつない…
べーちゃんのたおやかさとまろやかさ、たその温かさと芸達者さが生きた、素晴らしい配役だったと思います。彼らは普通の、良き人々の代表です。幸せを願わずにいられましょうか。
もう一方でブリーもまた普通の代表だと言える存在と思うのです。ギィもジャーも自分の主人に恋してしまったけれど、普通は従者はあれこれ命令を下す主人のことなんか疎ましく思うのが自然なはずで、第三王女のシャラデハ(音くり寿)は可愛くはあるんだけれどとにかくわがままで奔放で、だからブリーは普通に彼女に反抗的で、小さな復讐を日々遂行している。主人公たちの対比の存在としても正しいし、普通の人々の存在としても正しくて、上手い置き方だと思います。
三王女の特別な奴隷として、ギィ、ジャー、プリーで一緒にいることも多かったのでしょう。そしてブリーだけが王子ではなかった、兄弟ではなかった。それでもブリーはギィが好きだったし、主人や城や王国には特に恋着していなかったから、ギィとともに城を出て砂漠を渡り賊にも加わり、単なる反動として主人と王国への復讐を目指したのでしょう。すごくシンプルで健康的でまっすぐな思考のキャラクターで、まぶしくすがすがしくて素晴らしい。
あきらはバウ主演をしたり役替わりで二番手格の老け役に扮したりしてきましたが、実は私はそんなにこの人の演技力を買っていないので、これくらいでちょうどいい感じ…!というのがもうホントくーみん天才すぎる!!と思ったりしました。すみません…イヤ、スターさんだとは思うんだけど、芝居の人ではないですよね…?
で、結局最後に残されたのは空っぽのお城なのだけれど、ブリーかザール(水美舞斗)が新国王として立ったのでしょうか…そしてガリアから戻ってきたテオドロスにあっさり負けちゃったりするのかしら…それもまた、砂の上のお話にすぎないのかもしれません。
テオドロスは彼ら「普通の人々」とはまた違った形で主役カップルを映す鏡です。第一に、ぶっちゃけ設定のための設定である「王族の子供に生まれたときからつけられる異性の特別な奴隷」というギミックの不可解さを表明し、現代の一般的な良識を持った我々観客との橋渡しをするポジションです。そしてガリアはイスファンやその他の砂漠にある国々よりもおそらく豊かで文化的にも進んでいて、だからこそテオドロスは愛とか誇りとかいった形のないものよりも富とか実利とかを尊ぶ人間になったのでしょう。そういう意味で砂漠の人々とは対照的なキャラクターなのです。
そんな彼がそれでもタルハーミネに惹かれてしまい、ああまでして王から庇い妻に迎えたくだりに関しては、もしかしたらもう少し描きこむ必要があったのかもしれません。あるいはカレーちゃんがもうちょっとお芝居ができる人だったら、そのあたりがもう少し醸し出せたのかもしれません。カレーちゃんはスターさんだしその圧倒的な美貌、ビジュアルがこのキャラクターにまさしくふさわしかったしよく体現していたと思うのだけれど、活舌の悪さはそろそろなんとかしていただきたいし、役への理解も情熱もあるんだとは思うんだけれど残念ながらそれを演技として表すスキルがまだない…ように私には見えるので、がんばっていただきたいところではあります。
でも適材適所感が素晴らしいし、三番手として儲け役をもらっていておいしいとも思います。くーみんの布陣は完璧だなあ…
そしてジャハギールとアムダリヤ(仙名彩世)は、ある種のエキセントリックさは主役カップルに通じるものを持ちながらも、それぞれ誇りとは別のものを選択した存在として、この物語の中に置かれているのかもしれません。
武人として誇り高く生き、己の力すべてかけて敵と戦い国を奪い、なのに、その殺した男の妻に惚れてしまった…ここも、いつ、どんな出会いがあり彼女のどこに何故こうも惚れたのかは描かれていず、余白があるわけですが、尺がないから描ききれなかったのかもしれないし主筋に必要がなかったから描かなかったのかもしれません。ここは心地よい余白に感じられました。というかいろいろ考えだすとめんどくさい、というのもあるかな…
だってジャハンギールがアムダリヤと取引して彼女を妻にしたときに、彼女の息子たちは乳飲み子とはいえもう生まれていたわけですけれど(特に説明はなかったけれど双子ということだったのでしょうか?)、では三王女たちはいつ生まれたの?とかね。そのあと後宮を作ってそこの女たちに産ませたのだったらちょっと時間差ができる気がしますし、であればすでにもうこの娘たちもこの時点で生まれていたのかな?とかとか。考え出すとキリがないような…
ともあれ、女への愛のために自らの信念と誇り高い生き方を曲げた男と、子供たちの命のために女としてまた王妃としての誇りをなげうち夫を殺した男の妻になり果てた女…というのはドラマがあります。ユキちゃんが上手いのはもちろん、次期トップ娘役と発表されていることもあって、本当にいいポジションにいますよね。そしてここでも「愛の移ろい」をリアルに描くくーみんが素晴らしい。
そしてちなっちゃんは、私はジャハンギールの物語におけるポジションやキャラクターは穴穂とはずいぶんと違うものだと考えていますが、それでも彼女はくーみんのミューズなのだなと思わないではいられませんし、こんな重要な役をスター構図からしてなかなか微妙な立ち位置にいるちなっちゃんにやらせて押し通しかつ成功させちゃうんだからホントにたいしたものだなと思うのです。ちなっちゃんもホントいい仕事しますよね…
さて、そんなわけで、周りが上手く対照となって、真ん中のふたりを美しくまた激しく際立たせているのでした。エキセントリックな主役カップル、ギィとタルハーミネです。こじらせまくりです。
もしかしたら、この作品を重すぎるとか暗すぎるとかしんどすぎるとか、夢々しくなくて楽しくないとかそもそもよくわからないとか、主人公たちに共感できない、むしろ嫌い…と感じてしまう層は意外と多いのではなかろうか…と、私は思ったりしました。宝塚歌劇に一番お金を出す、私たちよりもうちょっと上の世代の女性たちは、もしかしたらこうまで極端な設定とかお話とかにはちょっとついていきづらかったりして、楽しくリピートしてくれなかったりするのではないかしら…という余計な心配です。実際のところはわかりませんが。
でも、まあ、少なくともこのふたりに関しては、共感したり感情移入したりとかは特に必要ないのかもしれません。ちょっと突き抜けちゃっている人たちなので、これはもうそういうものとしてただ受け入れ鑑賞し行く末を見守るしかない、そういう形のちょっと珍しい主人公像でありヒロイン像であるんじゃないかなと、私はものすごく新鮮に感じましたし、感動しました。
そしてまたみりおとかのちゃんに合っているんだこれがまた! 私はかのちゃんを、彼女が花組に組替えしてきたときに心配していたほど、いわゆる娘役らしい娘役ができない人だとは思っていませんでしたが、でも持ち味として確かに現代的だったり元気でイキのいいところはある人だとも思っていたので、卒業公演にこういう役を書いてもらえてすごくよかったと思っています。だってこれまたなまなかな役者ではできない役ですよ。
エキセントリックで横暴で、可愛げがないとすら言えるキャラクターで、でもすごく魅力的で、怖いもの見たさみたいなものかもしれないけれど目が離せないエネルギーを発散している。だからギィがいやだいやだ言いながらも結局恋してしまうのがよくわかる、そんな素敵な女性像でした。
私はフラットな目で今の花組を見ると、もしかして自分が今一番好きな花組子はかのちゃんなのかなと思うくらいなので、けっこうタルハーミネの心情に寄り添って物語を追ったりもしました。だから「私は奴隷の妻として生きる!」という言い方でしか愛を告白できなかったり、最後の最後にやっと「おまえを愛しているわ!」と叫びながらも金の砂漠を探しに出てしまう、そのあまりの不器用さが哀れで、愛しくて、泣きました。
でも、だからこそ、タルハーミネの心情というよりくーみんの作劇意図としていまだに今ひとつ消化不良なのが、ギィと逃げようとしてナルギス(高翔みず希)に捕まりテオドロスに諭され、ギィに死を申し渡すくだりなのでした。「その奴隷はわが名において死を賜る」みたいなセリフの、謙譲してるんだかなんなんだかみたいな敬語の引っかかりはともかくとしても。
まあ、似た構図はぶっちゃけ『月雲』でもあったわけですが、普通はこういうときは相手のために嘘の愛想尽かしをしたり、あるいは嘘をついたりして、その場で糾弾されている愛を否定しなかったことにして、代わりに相手を救おうとする…というのかセオリーではないですか。自分の誇りよりも、ふたりの愛よりも、何よりも相手の命がまずは大事だから、それを救うためにはどんなことでもする、嘘でもなんでも吐く…という形で、そのキャラクターの愛の大きさをかえって表現する、というのがパターンです。
でもタルハーミネは、自分の一国の王女としての立場、王の娘という立場、王国の後継者という立場を守るために、愛した男に死を命じます。男を殺すことで彼を愛した自分自身の心をも殺したかったのかもしれません。そうして男への愛を否定しないと自分の誇りが保てなかったのかもしれません。結局のところ彼女が何よりも大事にしたことは、誇り高き王女として、強大な父王の第一の娘として生きることだった、ということなのかもしれません。
でも、それって本当に観客が理解も共感もしづらい心理だと思うのです。誇りってそんなにまでして守りたいもの? 人の命を奪ってまでも? とか考えると、ぶっちゃけ人としてかなり引きますよね。
それをあえてヒロインにやらせたくーみんの意図はどこにあったのかな…とは、私は考えてしまうのです。まあホントのことを言うとお話の都合のため、ギィを復讐に走らせるのちの筋書きのため、だったりするのかもしれない、とも思ったりもするのですが。たとえば『星逢』でも晴興の行動は結局のところ意図不鮮明で、それじゃ源太は無駄死にだし話の筋が通っていないだろうとか思わないでもないのだけれど、でもその後の泉との場面のために必要だからそうしたんだよというようなところがあったりするんじゃないのかな、とか思うわけです。だからここもこういうものだとして受け入れるしかないのかもしれません。
ラストは、わかる気がするのです。自分が彼に死を命じた、自分が殺した。そう思っていた男が再び現れ、父を殺し国を奪い、夫を去らせて自分を妻にした。抱かれれば喜びも生まれる、よみがえる愛のようなものも感じる。自分が本当に求めていたものはこれだったのかもしれないとすら思う。それでも…それでも、翌朝、彼女は砂漠に出てしまうのです。
おそらくもう、何もかもがぐちゃぐちゃで、嫌になっちゃったんじゃないかしらん。このまま幸せになれる気なんかしないし、さりとてどうしたらいいのかもわからない。テオドロスとは心を殺して氷のように生き形だけの夫婦を保てたかもしれない、けれどギィとはおそらく無理。でもそういう自分も許せない。だからもう終わりにしよう、ここではないどこかに行こう、行ってしまおう…そんな感じ?
彼女は苛烈で、他人にも厳しいけれどなんといっても自分に対してまず厳しい人間だったのでしょう。自分を許し甘やかすことが絶望的に下手な人だったのです。そういう人間は幸せにはなりづらい…
砂漠で、ギィとともに死ぬことでしか幸せになれなかった彼女が、かわいそうでなりません。憐れむことは思い上がりの裏返しのようでもあってなかなか簡単には言えないけれど、私は彼女に対してはそうとしか言えないのでした。
そしてギィもまた、タルハーミネと砂漠で死ねて幸せだったのではないでしょうか。もちろんどちらかといえば彼の方が、母に死なれタルハーミネに去られてもそのまま憎悪を糧に生きていけたりはするのかなと思わなくもありません。そして生きてさえいれば、人は幸せになれないこともないはずなのです。
でも、そういう幸せよりも、タルハーミネと砂漠で死ぬ悲しい幸せを彼には与えてあげたい。それくらい彼もまた、苛烈な人生を生き抜いてきたのだから…なんて、思ったりするのでした。
私は簡単には死んでよしとしたくはないと考えていますし、これは明らかに悲劇の物語だなと思っています。だからフィナーレがあって本当によかったなと思っているのですけれど、それでもこの、トップコンビがひっくり返って死んで終わる殺伐としたラストシーンが、もの悲しくも美しく、そして寂しい幸せに満ちて見えて、かわいそうで泣いているのかよかったねと泣いているのか、なんだかよくわからなくなったり、していたのでした。
前ものの宝塚舞踊詩『雪花抄』は作・演出/原田諒。
万人が認めるダーハラの現時点での最高傑作だと思いました。というかショー作家としてやっていったほうが向いてるって絶対!
もはや我々には(ひとからげにしてすみません)きちんとした日舞を鑑賞する力は残念ながらないのですから、まず全体が五分でも短いのがいい。ミエコ先生の場面が短いのもいい。くり寿のカゲソロを聴いていれば終わるのが本当に助かります。
中詰めっぽい場面があるのもいいし、イメージのみの場面とストーリーや設定がある場面とのバランスもいい。群舞のフォーメーションの作り方や場面の色合いも美しい。スターの使い方はやや一本調子かなと思わなくもなかったけれど、雪の歌手にしーちゃんを起用するなどなかなか憎い。
総じて、洋物レビューに近いような軽やかな印象の和ものショーに仕上がっていて、そこが好評なのだと思います。
ダーハラはこれで十分ですよ、ここからキャラクターとか台詞とかを立ち上げようとすると途端にグダグダになるんだから、いい振付家と作曲家を選んで、ショー作家としてやっていくといいと思います。
というかみんな一度はショーを作ってみたほうがいいと思うんですよね。ショーを観てみたい作家、けっこういるなあ。景子先生とかなーこたんとかそれこそくーみんとか。ぜひ検討していただきたいです。
というわけで非常によくできた和ものレビューとオリジナル・ミュージカルの二本立てで、素晴らしい公演だったと思いました。
そして今からくーみんの宙組のときの自分が怖いよ…懲りずにおつきあいいただけましたら、幸いです。
砂漠の古代王国イスファンは、隊商の行き交う城郭都市である。自分がどこから来たのかも知らず、物心つく以前からこの国の王女タルハーミネ(花乃まりあ)の奴隷として育てられたギィ(明日海りお)は長じるにつれ、美しく傲慢なタルハーミネに恋心を抱くようになる。タルハーミネもまた彼を憎からず感じていたが、奴隷との恋など立場が許すはずもなく、何より自分自身の誇りが許さないことから、ギィにわざと高圧的な態度で接するのだった。イスファンの王ジャハンギール(鳳月杏)には男子がなく、第一王女タルハーミネの婿に北の大国ガリアの王子テオドロス(柚香光)を迎えて後継としようと考えていたが…
作・演出/上田久美子、作曲・編曲/玉麻尚一。
『月雲の皇子』、『翼ある人びと』、『星逢一夜』と作品を紡いできたくーみんの大劇場公演第二作。
トラジェディ・アラベスク、という枠もいいし、年末からお正月にかけての公演で後もの芝居を、という依頼からエンターテインメントに徹して作った、というのも企画として素晴らしいし、トップスターになってから今ひとつ代表作と呼べるようなものがない印象だったみりおによくぞこれをという当て書きっぷりが素晴らしい。前作より組子に役が増え、スターそれぞれへの目配りも効いて、くーみんがスキルアップしているようなのもおこがましいですが頼もしく感じます。すぐ次に宙組公演を担当することも発表されていて、登板間隔が短くなっていることが気がかりではありますが、この才能がすぐさま枯れてしまうことはないでしょう。がんばっていただきたいですし、期待しています。
でもその次は少しおちついて、久々に小公演の二幕もののしっかりしたお芝居が観てみたいかな。今回も、私はそこまで駆け足には感じなかったし二幕ものにすべきだったとも思っていないのですが、本公演ならではの条件をきちんとクリアしている様子を頼もしく見る一方で、より自由度の高いハコや座組でのびのび筆を振るうくーみんもときどきは見たい、と思うからです。そういう意味では、やっぱり単純にファンなのですね、私は…
『星逢』はマイ初日からダダ泣きしましたが、『金砂』はそういう泣き方ではなかったかなあ。東京公演待ちでしたがみなさん巧みにネタバレを避けてくれていまして、私も「みりおは奴隷なんだけど実は王子ってことらしいんだよね、まあでもよくある設定ではあるよね」って程度の知識で臨んだので、マイ初日は主役カップルがけっこう早くくっつくスピーディーな展開やその後の「実は~」の重さに圧倒される一方で、そうキタか!と感心するのに精いっぱいで、フィナーレのデュエダンのラスト、大階段をゆっくり上っていくみりかのにほろりとする…くらいで終わりました。
二度目の観劇は、タルハーミネの激しさと、ジャー(芹香斗亜)のラストの悲痛な叫びに泣きました。マイ楽は、やっぱりかのちゃんのために涙した、かな…
お話のキャラクターとしては、私はテオドロスとジャーが好みです。ブリー(瀬戸かずや)も好きだけど。私はヒロインにフラれる男性役が大好きなのと、優しすぎて結果的に損をしちゃう優男が大好物なのです。あと、賢いんだけど賢すぎるまではいけてなくて、結果的に報われず歯噛みするような立場の人、が好き(笑)。なのでテオドロスとジャーなのです。
ジャーはいい役だと思うなあ。私はキキちゃんには個人的には萌えないし、客観的にもなかなかブレイクしきらない印象を持っています。でもこの役はとてもいい役だと思うんですよね。かつ難しい。二番手スターは辛抱役に回りがちだけれど、そういうこととは別に、なかなかの役者ではこうはできない役だと思っています。
でもじゃあこれでキキちゃんのファンが爆発的に増えるようなことになるかと言われれば、そんなことはない気がするし、むしろこんなにも難しい役どころであるにもかかわらずニンだけでやっているように見えてしまって、きちんと評価されないままでいるのではなかろうか…と余計な心配をしているくらいです。
でもくーみんの愛情はちゃんとこの役にも生徒にもありますよね。それは感じます。語り部、という立ち位置は、私は初見ではちょっとうるさいかな、と感じたのですが、物語全体の虚構性を高めたり、彼だけがこの物語の外へ脱出できて違う幸せを手に入れられたのだ、同じく物語の外側にいる観客にしかすぎない私たちとむしろ彼は同じところにいてくれる存在なのだ…と思えるような作りの温かさが、いいな、沁みるな、と思うようになりました。
ギィのように、ある種暴力的に盲目的に天才的に、愛に突っ走る生き方は普通の人にはなかなかできません。同じ王子の生まれ、奴隷の育ちでも生来の性格の違いがあり、仕える主人の性格やその他の環境の違いもあって、この兄弟はまったく違う生き方をたどりました。ジャーがギィの生き方、愛し方にあこがれることはもちろんあっただろうし、そういうセリフもありましたが、それはないものねだりであり、またある種口先だけの言葉というか、本当の意味での本心ではないというか、自分には無理だけどああいうのもいいなあ、みたいなぼやんとした感慨、感傷なんだろうなと私は思うのです。私は天才に対する秀才のひがみとか嫉妬とか諦観といったモチーフも大好物なのですが(笑)、そういう雰囲気を勝手にここに見て、萌えましたし、泣かされました。キキちゃん、いいよね。次回の主演公演も楽しみです。
さて、ジャーと第二王女ビルマーヤ(桜咲彩花)の愛情の遷移はとても自然だと私は思いましたし、変な負け惜しみではなくジャーはこの先別の誰かと別の幸せを手に入れるのだろうと自然に思えますし、私はそれを願ってやみません。そしてビルマーヤにも亡き夫ゴラーズ(天真みちる)への愛を偲んで生きるだけでなく、別の出会いが訪れるといいなと願っています。人生ってそういうものだと思うから。愛は永遠に変わらない、とつまらない作家は定型文で書こうとするところを、こういう移ろいを描くくーみんは本当にすごいと私は思っています。
とはいえ砂漠の世界は過酷で、ここに暮らす人々の寿命は長くなく、彼らに残された時間はもうそう多くはないのかもしれない、とは一方で思わなくもないではないのですがね。せつない…
べーちゃんのたおやかさとまろやかさ、たその温かさと芸達者さが生きた、素晴らしい配役だったと思います。彼らは普通の、良き人々の代表です。幸せを願わずにいられましょうか。
もう一方でブリーもまた普通の代表だと言える存在と思うのです。ギィもジャーも自分の主人に恋してしまったけれど、普通は従者はあれこれ命令を下す主人のことなんか疎ましく思うのが自然なはずで、第三王女のシャラデハ(音くり寿)は可愛くはあるんだけれどとにかくわがままで奔放で、だからブリーは普通に彼女に反抗的で、小さな復讐を日々遂行している。主人公たちの対比の存在としても正しいし、普通の人々の存在としても正しくて、上手い置き方だと思います。
三王女の特別な奴隷として、ギィ、ジャー、プリーで一緒にいることも多かったのでしょう。そしてブリーだけが王子ではなかった、兄弟ではなかった。それでもブリーはギィが好きだったし、主人や城や王国には特に恋着していなかったから、ギィとともに城を出て砂漠を渡り賊にも加わり、単なる反動として主人と王国への復讐を目指したのでしょう。すごくシンプルで健康的でまっすぐな思考のキャラクターで、まぶしくすがすがしくて素晴らしい。
あきらはバウ主演をしたり役替わりで二番手格の老け役に扮したりしてきましたが、実は私はそんなにこの人の演技力を買っていないので、これくらいでちょうどいい感じ…!というのがもうホントくーみん天才すぎる!!と思ったりしました。すみません…イヤ、スターさんだとは思うんだけど、芝居の人ではないですよね…?
で、結局最後に残されたのは空っぽのお城なのだけれど、ブリーかザール(水美舞斗)が新国王として立ったのでしょうか…そしてガリアから戻ってきたテオドロスにあっさり負けちゃったりするのかしら…それもまた、砂の上のお話にすぎないのかもしれません。
テオドロスは彼ら「普通の人々」とはまた違った形で主役カップルを映す鏡です。第一に、ぶっちゃけ設定のための設定である「王族の子供に生まれたときからつけられる異性の特別な奴隷」というギミックの不可解さを表明し、現代の一般的な良識を持った我々観客との橋渡しをするポジションです。そしてガリアはイスファンやその他の砂漠にある国々よりもおそらく豊かで文化的にも進んでいて、だからこそテオドロスは愛とか誇りとかいった形のないものよりも富とか実利とかを尊ぶ人間になったのでしょう。そういう意味で砂漠の人々とは対照的なキャラクターなのです。
そんな彼がそれでもタルハーミネに惹かれてしまい、ああまでして王から庇い妻に迎えたくだりに関しては、もしかしたらもう少し描きこむ必要があったのかもしれません。あるいはカレーちゃんがもうちょっとお芝居ができる人だったら、そのあたりがもう少し醸し出せたのかもしれません。カレーちゃんはスターさんだしその圧倒的な美貌、ビジュアルがこのキャラクターにまさしくふさわしかったしよく体現していたと思うのだけれど、活舌の悪さはそろそろなんとかしていただきたいし、役への理解も情熱もあるんだとは思うんだけれど残念ながらそれを演技として表すスキルがまだない…ように私には見えるので、がんばっていただきたいところではあります。
でも適材適所感が素晴らしいし、三番手として儲け役をもらっていておいしいとも思います。くーみんの布陣は完璧だなあ…
そしてジャハギールとアムダリヤ(仙名彩世)は、ある種のエキセントリックさは主役カップルに通じるものを持ちながらも、それぞれ誇りとは別のものを選択した存在として、この物語の中に置かれているのかもしれません。
武人として誇り高く生き、己の力すべてかけて敵と戦い国を奪い、なのに、その殺した男の妻に惚れてしまった…ここも、いつ、どんな出会いがあり彼女のどこに何故こうも惚れたのかは描かれていず、余白があるわけですが、尺がないから描ききれなかったのかもしれないし主筋に必要がなかったから描かなかったのかもしれません。ここは心地よい余白に感じられました。というかいろいろ考えだすとめんどくさい、というのもあるかな…
だってジャハンギールがアムダリヤと取引して彼女を妻にしたときに、彼女の息子たちは乳飲み子とはいえもう生まれていたわけですけれど(特に説明はなかったけれど双子ということだったのでしょうか?)、では三王女たちはいつ生まれたの?とかね。そのあと後宮を作ってそこの女たちに産ませたのだったらちょっと時間差ができる気がしますし、であればすでにもうこの娘たちもこの時点で生まれていたのかな?とかとか。考え出すとキリがないような…
ともあれ、女への愛のために自らの信念と誇り高い生き方を曲げた男と、子供たちの命のために女としてまた王妃としての誇りをなげうち夫を殺した男の妻になり果てた女…というのはドラマがあります。ユキちゃんが上手いのはもちろん、次期トップ娘役と発表されていることもあって、本当にいいポジションにいますよね。そしてここでも「愛の移ろい」をリアルに描くくーみんが素晴らしい。
そしてちなっちゃんは、私はジャハンギールの物語におけるポジションやキャラクターは穴穂とはずいぶんと違うものだと考えていますが、それでも彼女はくーみんのミューズなのだなと思わないではいられませんし、こんな重要な役をスター構図からしてなかなか微妙な立ち位置にいるちなっちゃんにやらせて押し通しかつ成功させちゃうんだからホントにたいしたものだなと思うのです。ちなっちゃんもホントいい仕事しますよね…
さて、そんなわけで、周りが上手く対照となって、真ん中のふたりを美しくまた激しく際立たせているのでした。エキセントリックな主役カップル、ギィとタルハーミネです。こじらせまくりです。
もしかしたら、この作品を重すぎるとか暗すぎるとかしんどすぎるとか、夢々しくなくて楽しくないとかそもそもよくわからないとか、主人公たちに共感できない、むしろ嫌い…と感じてしまう層は意外と多いのではなかろうか…と、私は思ったりしました。宝塚歌劇に一番お金を出す、私たちよりもうちょっと上の世代の女性たちは、もしかしたらこうまで極端な設定とかお話とかにはちょっとついていきづらかったりして、楽しくリピートしてくれなかったりするのではないかしら…という余計な心配です。実際のところはわかりませんが。
でも、まあ、少なくともこのふたりに関しては、共感したり感情移入したりとかは特に必要ないのかもしれません。ちょっと突き抜けちゃっている人たちなので、これはもうそういうものとしてただ受け入れ鑑賞し行く末を見守るしかない、そういう形のちょっと珍しい主人公像でありヒロイン像であるんじゃないかなと、私はものすごく新鮮に感じましたし、感動しました。
そしてまたみりおとかのちゃんに合っているんだこれがまた! 私はかのちゃんを、彼女が花組に組替えしてきたときに心配していたほど、いわゆる娘役らしい娘役ができない人だとは思っていませんでしたが、でも持ち味として確かに現代的だったり元気でイキのいいところはある人だとも思っていたので、卒業公演にこういう役を書いてもらえてすごくよかったと思っています。だってこれまたなまなかな役者ではできない役ですよ。
エキセントリックで横暴で、可愛げがないとすら言えるキャラクターで、でもすごく魅力的で、怖いもの見たさみたいなものかもしれないけれど目が離せないエネルギーを発散している。だからギィがいやだいやだ言いながらも結局恋してしまうのがよくわかる、そんな素敵な女性像でした。
私はフラットな目で今の花組を見ると、もしかして自分が今一番好きな花組子はかのちゃんなのかなと思うくらいなので、けっこうタルハーミネの心情に寄り添って物語を追ったりもしました。だから「私は奴隷の妻として生きる!」という言い方でしか愛を告白できなかったり、最後の最後にやっと「おまえを愛しているわ!」と叫びながらも金の砂漠を探しに出てしまう、そのあまりの不器用さが哀れで、愛しくて、泣きました。
でも、だからこそ、タルハーミネの心情というよりくーみんの作劇意図としていまだに今ひとつ消化不良なのが、ギィと逃げようとしてナルギス(高翔みず希)に捕まりテオドロスに諭され、ギィに死を申し渡すくだりなのでした。「その奴隷はわが名において死を賜る」みたいなセリフの、謙譲してるんだかなんなんだかみたいな敬語の引っかかりはともかくとしても。
まあ、似た構図はぶっちゃけ『月雲』でもあったわけですが、普通はこういうときは相手のために嘘の愛想尽かしをしたり、あるいは嘘をついたりして、その場で糾弾されている愛を否定しなかったことにして、代わりに相手を救おうとする…というのかセオリーではないですか。自分の誇りよりも、ふたりの愛よりも、何よりも相手の命がまずは大事だから、それを救うためにはどんなことでもする、嘘でもなんでも吐く…という形で、そのキャラクターの愛の大きさをかえって表現する、というのがパターンです。
でもタルハーミネは、自分の一国の王女としての立場、王の娘という立場、王国の後継者という立場を守るために、愛した男に死を命じます。男を殺すことで彼を愛した自分自身の心をも殺したかったのかもしれません。そうして男への愛を否定しないと自分の誇りが保てなかったのかもしれません。結局のところ彼女が何よりも大事にしたことは、誇り高き王女として、強大な父王の第一の娘として生きることだった、ということなのかもしれません。
でも、それって本当に観客が理解も共感もしづらい心理だと思うのです。誇りってそんなにまでして守りたいもの? 人の命を奪ってまでも? とか考えると、ぶっちゃけ人としてかなり引きますよね。
それをあえてヒロインにやらせたくーみんの意図はどこにあったのかな…とは、私は考えてしまうのです。まあホントのことを言うとお話の都合のため、ギィを復讐に走らせるのちの筋書きのため、だったりするのかもしれない、とも思ったりもするのですが。たとえば『星逢』でも晴興の行動は結局のところ意図不鮮明で、それじゃ源太は無駄死にだし話の筋が通っていないだろうとか思わないでもないのだけれど、でもその後の泉との場面のために必要だからそうしたんだよというようなところがあったりするんじゃないのかな、とか思うわけです。だからここもこういうものだとして受け入れるしかないのかもしれません。
ラストは、わかる気がするのです。自分が彼に死を命じた、自分が殺した。そう思っていた男が再び現れ、父を殺し国を奪い、夫を去らせて自分を妻にした。抱かれれば喜びも生まれる、よみがえる愛のようなものも感じる。自分が本当に求めていたものはこれだったのかもしれないとすら思う。それでも…それでも、翌朝、彼女は砂漠に出てしまうのです。
おそらくもう、何もかもがぐちゃぐちゃで、嫌になっちゃったんじゃないかしらん。このまま幸せになれる気なんかしないし、さりとてどうしたらいいのかもわからない。テオドロスとは心を殺して氷のように生き形だけの夫婦を保てたかもしれない、けれどギィとはおそらく無理。でもそういう自分も許せない。だからもう終わりにしよう、ここではないどこかに行こう、行ってしまおう…そんな感じ?
彼女は苛烈で、他人にも厳しいけれどなんといっても自分に対してまず厳しい人間だったのでしょう。自分を許し甘やかすことが絶望的に下手な人だったのです。そういう人間は幸せにはなりづらい…
砂漠で、ギィとともに死ぬことでしか幸せになれなかった彼女が、かわいそうでなりません。憐れむことは思い上がりの裏返しのようでもあってなかなか簡単には言えないけれど、私は彼女に対してはそうとしか言えないのでした。
そしてギィもまた、タルハーミネと砂漠で死ねて幸せだったのではないでしょうか。もちろんどちらかといえば彼の方が、母に死なれタルハーミネに去られてもそのまま憎悪を糧に生きていけたりはするのかなと思わなくもありません。そして生きてさえいれば、人は幸せになれないこともないはずなのです。
でも、そういう幸せよりも、タルハーミネと砂漠で死ぬ悲しい幸せを彼には与えてあげたい。それくらい彼もまた、苛烈な人生を生き抜いてきたのだから…なんて、思ったりするのでした。
私は簡単には死んでよしとしたくはないと考えていますし、これは明らかに悲劇の物語だなと思っています。だからフィナーレがあって本当によかったなと思っているのですけれど、それでもこの、トップコンビがひっくり返って死んで終わる殺伐としたラストシーンが、もの悲しくも美しく、そして寂しい幸せに満ちて見えて、かわいそうで泣いているのかよかったねと泣いているのか、なんだかよくわからなくなったり、していたのでした。
前ものの宝塚舞踊詩『雪花抄』は作・演出/原田諒。
万人が認めるダーハラの現時点での最高傑作だと思いました。というかショー作家としてやっていったほうが向いてるって絶対!
もはや我々には(ひとからげにしてすみません)きちんとした日舞を鑑賞する力は残念ながらないのですから、まず全体が五分でも短いのがいい。ミエコ先生の場面が短いのもいい。くり寿のカゲソロを聴いていれば終わるのが本当に助かります。
中詰めっぽい場面があるのもいいし、イメージのみの場面とストーリーや設定がある場面とのバランスもいい。群舞のフォーメーションの作り方や場面の色合いも美しい。スターの使い方はやや一本調子かなと思わなくもなかったけれど、雪の歌手にしーちゃんを起用するなどなかなか憎い。
総じて、洋物レビューに近いような軽やかな印象の和ものショーに仕上がっていて、そこが好評なのだと思います。
ダーハラはこれで十分ですよ、ここからキャラクターとか台詞とかを立ち上げようとすると途端にグダグダになるんだから、いい振付家と作曲家を選んで、ショー作家としてやっていくといいと思います。
というかみんな一度はショーを作ってみたほうがいいと思うんですよね。ショーを観てみたい作家、けっこういるなあ。景子先生とかなーこたんとかそれこそくーみんとか。ぜひ検討していただきたいです。
というわけで非常によくできた和ものレビューとオリジナル・ミュージカルの二本立てで、素晴らしい公演だったと思いました。
そして今からくーみんの宙組のときの自分が怖いよ…懲りずにおつきあいいただけましたら、幸いです。
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