駒子の備忘録

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宝塚歌劇星組『宝塚花の踊り絵巻-秋の踊り-/愛と青春の旅だち』

2010年12月06日 | 観劇記/タイトルた行
 東京宝塚劇場、2010年11月30日マチネ、12月3日マチネ。

 母を亡くし、軍人としてフィリピンに駐在する父(英真なおき)に引き取られたザック(柚希礼音)は、劣悪な環境の中で少年時代を送った。やがてアメリカへ帰国したザックは、大学を卒業し、海軍士官養成学校に入学するが…
 原作/ダグラス・デイ・スチュワート、脚本・演出/石田昌也、作曲・編曲/手島恭子、中尾太郎。リチャード・ギア主演で1982年に公開された同名映画の世界初ミュージカル化。
 日本物レビューは作・演出/酒井澄夫、作曲・編曲/吉田優子。

 まず、個人的にものすごく久しぶりの日本物ショーが、なかなか楽しかったです。
 チョンパはわかっていてもやはり感動的でした。
 綺麗! 華やか!!
 初見はS席最前列(つまり8列目)ほぼどセンターで、トヨコや柚長とよく目が合ったよ! 柚長が初々しくて仰天したなー。もちろんテル、レミあたりも美しかったです。
 日舞向きではないのではと言われていたチエネネも綺麗で可愛くて素敵でした。
 ただ私には教養というか日舞を鑑賞する芸術的素養がないので、菊慈童の場面の長さに閉口したり(歌手の音花ゆりはよかった)、麦や節の単調さに疲れたり(トヨコの端整な踊りはすばらしい。そして私はともみんは好みではないのか、常にやりすぎて見えた)はしました。あと、毛槍をドリフみたいと思ったり、娘役さんたちの猫耳は何を表したものなのかわからなかったり(ご教示お待ちしています)。
 それでも楽しく観ました、華やかでした。雪の場面が短くて残念だったかなー。波の場面の総踊りは素敵だったなー。
 大劇場開いてすぐはしゃべ化粧が大変なことになっていたそうですが、こちらではそんな問題は感じませんでした。でもみんないい勉強になっているのではないでしょうか。よかったよかった、また雪組さんあたりでやるといいよね、あとはまゆたんが行く花組とか?

 ミュージカルのほうは…まず映画は大昔にテレビで見ていた気はしますが、大筋しか覚えていない状態で観に行きました。
 ミュージカル化は成功しているとは思いましたが、場面がブツ切りで、キャラクターの性格が破綻して見えるというか、感情の流れが一貫して見えないという点がどうにも気になりました。そこはかとなくどころか漂いまくる女性蔑視視点は、時代性と脚本家の性とでまあ仕方ないかと目をつぶることにしたのですが。

 二度目の観劇の前に映画のDVDが知人から借りられて、見てみて仰天。石田先生ごめんなさい、ほぼそのままだったのね、もともとの作品のせいだったのね…
 ただ、だからこそ、たとえば小池先生だったらもっと上手く舞台化したと思うよ、とはもちろん思いました。

 家庭環境のせいで、他人に馴染めず心が開けない青年になってしまった主人公が、士官学校での共感からのしごきや仲間とのふれあい、工場で働く少女との出会いによって変化し、他者と友情や愛情が育める人間になっていく…これはそういう物語です。
 もちろん人間はそんなに単純じゃないので、その変化は直線的ではなく、いったりきたりするものです。しかしその過程は観客にはごく自然に追えなくてはいけない。そこにテクニックが必要なものですよ。

 序盤の流れはすばらしい。映画のままでありながら、舞台の特性を生かし、ミュージカル要素も盛り込んで、すばらしい立ち上がりです。
 しかしまず第7場が問題。
 6場までで主人公、ヒロインが顔見せし、出会っているわけで、ここから本格的な芝居、ドラマの展開を観客は普通は期待するわけですよ。なのにその本筋がなかなか始まらず、格納庫でのダンスシーンが始まってしまう。
 ちなみのここのダンスシーンは、日本物ショーの鬱憤を晴らすかのようなはちきれんばかりの勢いと鮮やかさ、躍動感がすばらしく、その意味では本当に出色のシーンです。
 しかしここでザックはすでに仲間たちと
「フォーリー(鳳稀かなめ)を倒そう!」
 とかなんとか言って一致団結してしまっている。
 でもそれじゃダメなんですよ。
 このあとの障害物訓練で、ザックはひとり先頭切ってさっさとゴールし、みんながシーガー(音波みのり)を応援しているにもかかわらず、知らんふり、という演出があるのですから。さらにそれを踏まえて、そのあといろいろあったのちに、ついに仲間を認めるようになり、第19場で自分の記録更新をなげうってでもシーガーの応援に回る、という感動的な展開があるのですから。
 なのにここですでに仲間と仲良くしちゃってちゃ、そのあとの冷酷さはなんなワケ?って観ていて観客は混乱しちゃうでしょ?

 そのあとの第9場のパーティーシーンは、これは脚本に繊細さがないせいのミスです。
 映画は、私はもちろん日本語字幕で見ているので、原文台詞やそのニュアンスまではわかりませんが、ポーラ(夢咲ねね。ちなみに苗字からポーランド移民とうかがえるが、舞台ではその要素は外されています。まあこれは目くじら立てても仕方あるまい)は確かに旅行が趣味だと言っていますが、実際には趣味と言えるほど金銭的にも時間的にも余裕があるはずもなく、むしろ夢として語っているわけですね。ここではないどこかへ出かけて、いろんな人と会っていろんなものを見てみたい、いろんなことを知りたい…とポーラは語っているのです。これは彼女の向上心とか向学心、興味、好奇心を表現したものです。それはリネット(白華れみ)の、「ここではないどこかへ行きたい、たとえばエリート士官と結婚してハワイに住みたい」というような単なる上昇志向とは違う、とされているのです。
 その要素が落ちてしまっているのはミスです。
「貯金して、旅行する」
 その「貯金して」が貧乏臭い、とザックにあざ笑われるだけで流してしまっている。それではダメなのですよ。
 さらにその後が悪い。ザックはそんなポーラを
「犬なら雑種だ」
 とこき下ろし、ポーラも
「雑種って何よ」
 とかなんとか怒ります。そりゃ当然だよね。しかし何故その後も彼らはいちゃつくのか。そこまで悪く言った女にザックは何故かまうのか。そこまでポーラは美人でナイスバディということなのか、しかしそんな表現はない。ポーラもなぜこんなことを言われてなおその男についていくのか。他に行けばいいではないか、そんなにエリートとお近づきになりたいということなのか、しかし彼女はリネットとは違って最初から真面目なつきあいをしたいと考えている女性、ということになっている(その表現はやや弱くてこれも問題だが)。
 なんなの??と再び観客の頭にハテナが飛んでしまっても仕方ないと思うのですよ。でもそんなふうに観客を混乱させてしまってはダメなワケ、重ねて言いますが。
 せっかくポーラかザックにいいこと言っていて、それがザックの心に何かしら響いたのかもしれない…という一瞬があるだけに、なおさら残念。

 主役カップルの場面としては第12場のコテージでのやりとりも台詞の流れが悪くて気持ちが悪い。
 ザックは喧嘩しちゃって退学を恐れて不機嫌になっている。それをフォローするようにポーラが語る。しかしザックはその意を汲まず、彼女をただベッドに連れ込もうとして、ポーラに
「娼婦扱いしないでよ」
 と怒られる。当然の展開です。
 しかしここで何故ザックがポーラを引き止めるのか皆目わかりません。そんなにやりたかったのか。なんだって急に
「誰にも真剣に愛されたことがないから、愛し方がわからないんだ」
 なんて語り出すんだ。
 それにほだされたポーラがザックを受け入れるのはわかる。しかし翌朝になって何故ザックはまた「本気じゃなかったんだ、真剣なつきあいをする気はない」みたいなことを言い出すんだ(実際には言葉にする前に先回りしたポーラにフォローされてしまうのですが、大意はこうです)、真剣に愛し出したから寝たんじゃないのか、それとも寝たら気がすんで気が変わったということなのか、確かに男にはそうしたところがあるとはいうがしかしこれは宝塚歌劇なんだぞオイ。
 それで言うと同時進行のリネットとシド(紅ゆずる)の下ネタ台詞も脚本家はお洒落な艶笑ネタだと思っているのだろうが下品だし不必要だしもっといいことはいくらでも出来るぞ。反省してくれ。
 ポーラの気持ちや行動は理解できます。こちらはある程度真剣に考えているとはいえ、相手にも同じことを望んだり押し付けたりするのは重いし無理だし、時間をかけよう、最初は仕方ない、と思ってこういう言い方をするのは、自然だし利口でもあると思う。しかし前後の流れから、少年漫画のヒロインにありがちな、男に都合がいいばかりのヒロイン像に見えてしまっているのがこれまた残念なのです。ポーラはそういう意味で
「都合のいい女になってあげる」
 と言っているのではないのですよ。

 続く抜き打ち検査の場面で、何故かザックはペリマン(涼紫央)にバックルとブーツを与えています。かつては売ろうとしていたのに、突然、何故? ポーラによって愛を知ったから? それにしてはポーラに対してクールな関係でいようみたいなことを言っていましたが?? この流れが意味不明になってしまうわけですよ。

 
 さらにシゴキシーン、仲間たちが励ましに来たりして、ザックが友情というものを知りつつあることが表現される。なのにポーラには電話一本よこさない、ということが続いて語られるのです。おかしいでしょ?
 ザックは戦死した兄の婚約者と結婚することになっているシドを心配することは出来るようになっているくらい、人間性が回復したことになっている(^^;)のに、ポーラのことは
「ポーラは、切った」
 とか非人間的な表現をする。この矛盾はつらいです。

 ところでこのあたりでポーラがソロで歌う「執着し過ぎると、遠ざかる幸せ」という歌は、観念的で感傷的なだけでまったく意味不明です。
 この時点での問題はそんなところにはないはずなのです。
 ザックは他人に対して心を閉じている、それは彼の生まれ育ちのせいで、彼は本来はそんな人間ではないはずだ、私にはわかる、彼がかわいそうでいとおしい、だから彼を愛している、彼が心を開くのを待ちたい、でもそうそう上手くいかないこともわかっている、どうしたらいいの…というようなことを歌わせるべきでしょう。ふたりの間の何が障害になっているのかを示すいいチャンスなのに、ああもったいない。
「真剣に人を愛すると、別れる時に傷つく。傷つく覚悟があるか? 真剣に人を愛することができるか?」
 というくだりの追加はとてもいいだけに、残念。
 自分から連絡を絶っておきながら、カウボーイとつき合い出したポーラを見て、確かにザックは傷ついたのですから。それは嫉妬とか、プライドを傷つけられたのと紙一重。それでもその喪失感は、本当にどうでもいいものには感じないはずだったのですから。それが感じられたからこそ、彼は最後の最後に彼女を迎えに行ったのでしょうから。

 ちにみに映画ではポーラの母親はリネットと立場が近く、エリート士官候補生と恋に落ちてポーラを妊娠し、結婚したものの、夫は退学して士官にはなれず今は貧乏暮らし、愛は醒めて家庭は冷えたまま…とされています。何故この設定を改変したのかナゾ。こういう母親を見ているからこそ、ポーラはリネットのような作戦に出ることを望めなかったはずなのでは? 母親を士官に弄ばれて捨てられたシングルマザーにしてしまっては、かえって「私は捨てられないわ、結婚までこぎつけて見せるわ」となりそうでしょ? なのにリネットに対して批判的なポーラを見ていると、観客はこの子なんでこんないい子ぶってんの?となってしまって、ポーラのキャラクターも崩壊してしまうんです。ここも残念でした。

 逆にシドの自殺の改変は良かった。裸でバスルームで首つってんのを舞台で見せられるわけはないから、ってのもあるけど、岬から飛び降りる、という方がロマンチックですしね。
 続くフォーリーとの決闘シーンも、急所蹴られて決着、ってのができないってのもあるけど、フォーリーが左目をベトナムで負傷していてそちら側がほぼ見えないのに、ザックがそちらからは決して攻撃せず、あげく負けたのだ…とした改変はとてもよかったと思います。どうやってザックがその事実を知ったんだよ、ということはさておき(^^;)。

 卒業式で、晴れて士官になったザックに対してフォーリーが初めて敬語を使うやりとりは、日本語の力もあって映画よりずっと感動的。さらに続くフォーリーのテレ隠しのやりとりは本当にすばらしく、温かい気持ちになれました。
 次の新人たちに対しても同じことを言うフォーリー、というのも映画のままなんだけれど、これは本当にテルの好演もあってすがすがしく微笑ましく、いいシーンになりました。

 しかし本当はここでやはり何かきっかけがあって、やっぱりポーラのことが気にかかる、愛している、会いに行こう、迎えに行こう…ってなるべきなんですけれどねー。
 工場に白い制服のザックが現れる掃き溜めに鶴っぷりは舞台の方が格段に上で、鮮やかなハッピーエンドになりました。お姫様抱っこと帽子のくだりは映画のままで、そこもすばらしい。
 だからこそ、全体の流れがもっと滑らかで、気持ち良く「ああ、よかったね」ってなれたら、もっともっとすばらしかったのになあ…と思わないではいられなかったのでした。

 私はこういうところが気になるたちなのです。たとえ贔屓組でも、何度もリピートしていたとしても、きっとそうだったと思う。了見の狭いファンですみません。しかしファンだからスターが出ていればなんでも喜んでくれるでしょ、という考えで舞台を作るべきではない、と私は思うぞ。よもやそんな甘えた考えで舞台を作ってはいないと信じたいがしかしあえて言う。


 さて、しかし、役者は脚本とはまた別問題です。
 なんだろうなあ、たとえば『麗しのサブリナ』でも『ジプシー男爵』でもこんな感じは受けなかったんだけれど…
 雪組は本公演をしばらく観ていないからまたわからないんだけれど…
 つまり贔屓のせいですっかり最近の私は宙組がホームグラウンドで、リピート率はこの組の公演だけがハンパないことになっているのですが、そもそもはヤンさんやユリちゃんが好きでファンを始めたこともあり、心のふるさとは花とか月で、馴染んだ感じとか好みの下級生の多さとかも断然そうで、逆に雪や星にはやや距離を感じたままここまできていて…
 だからなのか、今回の観劇はなんかすごく新鮮に感じて、感動的で、ものめずらしくて、笑っちゃうくらいで、なんかすごく楽しかったのです。これってナニ?

 チエちゃんって多分上背はそんなにないし、頭身もユウヒとかみたいに高くない。でもきりやんだとちっちゃいな、残念、と感じるのに、チエちゃんは、大柄、というのとも違うんだけれど、大きく華やかに圧倒的に見えて、とても輝きを感じるんですよね。
 特に冒頭のザックのセリ上がりのジーンズ姿はすごかった、うちのはあんなジーンズの穿き方はしない、着こなしがもううちでは見たことない!でもすげーカッコいい!現代的!キラッキラした若者って感じ!! ともう衝撃的でした。
 作業着も素敵、制服姿も素敵。
 ダンスはもう本当に素敵。
 さらにフィナーレの士官の燕尾の踊り。
 確かに『ファンキー・サンシャイン』だって石田先生だし変わり燕尾の三角形隊形の大階段男役群舞があったわけですが、振り付けの差じゃなくて、味がちがう。うちのはもっと端整で美麗でゴージャスと言うかすかしているんだけど、星組はもう若くてきらきらでオラオラでエネルギッシュで、スターでアイドルでかっこよくて笑っちゃう。この、まったく悪い意味ではないのですが「笑っちゃう」感じがとにかく新鮮だったなあ。単純に楽しかった。

 ってことでチエちゃんはザックにぴったりで演技もダンスもよかったです。喧嘩シーンの回し蹴りの鮮やかだったことよ!
 ネネちゃんもでかいなあ、ってことを除けばとにかく可愛いのでオーケー(^^)。
 そしてテルが本当に大健闘大好演ですばらしいフォーリーでした。そしてこの人はすらりと背が高く頭身が高く、確かに宙組向きだし加わってもなんの遜色もないでしょう。ユウヒとの並びが楽しみだよ! フィナーレでのアイドルスターっぷりもハンパない。しかしパレードは確かに大劇場どおり髭で降りてきてくれた方がよかったかもね。
 レミちゃんはね…役として損だったよね。ある種の敵役だったもんね。あとこの人は声がよくないんだなあ…私は嘘くさいぶりっ子ふうの娘役声は嫌いで、アルトの方が好きなくらいなんですが、『リラ壁』のときには気にならなかったのに、ロミジュリの乳母で芸に磨きがかかってしまったのか、憎々しいリネットを演じるためか、声が低すぎドスが利きすぎていて高感度が低かった気がします。フィナーレやショーでのテルとの並びは本当に美しかったのですが。
 トヨコは好きなんですが今回はちょっと精彩を欠いたかな? 特別な輝きがなかった気がしました。
 アラレちゃんメガネで優等生デラセラを演じたともみんはショーではクサく踊っていましたが、私は好みではないと判定。
 逆に押したいベニーですが、『リラ壁』が良すぎてシド単体ではどうとも…だったかなあ。
 みやるりやしーらんを抜かしてまっかぜーがフィナーレに入っていますが、さすがの上背で確かに目立つし、ダンスも端整でよかったです。
 はるこシーガーももうちょっと期待していたんだけどな、群像のひとりだったかな…

 ああでもホントにチエちゃんは大型スターで魅力がわかりやすくて、いい演目もらって初心者ファンを増やす広告塔になってくれるといいと思いますよ。
 公演プログラムに入っているDVD&CDの広告ページが象徴的だと思うんだけれど、たとえばこの間の宙組版では『TRAFALGAR』で、やはり軍服のユウヒなのですが、フィギュアのような美しさですっくと立っているショットなんだよね。
 でも今回のチエちゃんは『愛旅』のフィナーレ軍服で踊っている笑顔のショットなの。その躍動感、輝き。そういうことなんだと思うのです。
 そろそろいい当て書きして、傑作を作ってあげてくださいね歌劇団さん!!


 蛇足。宝塚歌劇でフランス国歌は何回も聞いたが、アメリカ国歌は珍しいなと思いました。

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