紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA、2022年10月8日12時。
クローン技術が進み、人間のクローンを作ることは技術的には可能になったが、法的にはグレーゾーンにあたる、そんな近未来。ある日、自分がクローンであることに気づいたバーナード(B2)(戸次重幸)は、父・ソルター(益岡徹)に自分を作った理由を問う。ソルターは、亡くなった実の息子を取り戻したくて医療機関に息子のクローンを作り出してもらったと言うが、実は医療機関ではソルターには秘密で、ひとりではなく複数のクローンを作っていたらしく、しかも実の息子バーナード(B1)(戸次重幸の二役)は生きていて…
作/キャリル・チャーチル、翻訳/浦辺千鶴、演出/上村聡史。2002年ロンドン初演、全1幕。
チラシで、ふたり芝居でクローンがモチーフ、とだけ知って自分が絶対好きそう、とチケットを手配した舞台だったのですが、作者はトム・ストッパードと並び称される英国演劇界の有名どころなんだそうですね。『クラウドナイン』『トップ・ガールズ』のタイトルは知っていましたが、私は作者名は初めて聞きました、不勉強ですみません。
ともあれふたり4役70分の緊張感あふれる芝居、堪能しました。場面数はいつつ、かな? 暗転で途切れて、益岡徹は舞台に残って椅子など動かしたり、そうでなければ客席に背を向けて気配を消して佇み、その間に引っ込んだ戸次重幸が別の「息子」になって登場してきて新たな場面が始まる、という構成でした。怖ろしい…しかも最初にただの窓だった奥の壁が第2場以降は開いて、過去かどこかの子供部屋のようになるんだけれど、それがまた怖ろしいのです…全体としては無機質な部屋のセットで、でも床は八百屋でその不安定さも怖く、心理描写を表す照明の明暗も怖い(美術/乘峯雅寛、照明/沢田祐二)、たまらない舞台でした。
ふたり4役と言っても益岡徹はずっと父親のソルター(劇中では名前は出てこないけれど)を演じていて、戸次重幸が3人の息子を次々と演じます。父親はともかく、息子の名前もまた劇中で出てこないのが怖ろしい。父は全然子供の名前を呼ばないのです。そりゃ目の前にいて会話しているとそういうものかもしれないけれど、不自然と言えば不自然なわけで、それがまた怖ろしいのです。
第1場では息子がなんかわあわあ言うのを父親がなかなか真剣に取り合わない感じなので、観客の心情は自然と息子側に寄り添うよう誘導されているんだと思います。そして彼らの行きつ戻りつする会話から、彼らの状況が見えてくる。ところが次の場面ではずいぶんとやさぐれた別の「息子」が現れるので、観客は困惑させられ、また状況を把握していき、やがてゆっくりと父親側に沿うようになるのでしょう。さらに3人目の息子が登場すると、彼はソルターの言うことを全然取り合おうとしません。そしてラストに至って、オチが鮮やかに決まるのでした。お見事でした!
私にとっては最後の暗転が実にスリリングでした。わあ、すごいこと言っちゃったよ、この続きなんてある? あ、明るくなったらふたりが気をつけして立っている、あらお辞儀したコレで終わりだアレがオチだったんだわあぁすごい!というような感じだったのです。終演後、リピーターチケット売り場に行列ができていました。さもありなん!
これはクローンの可否みたいなものを問う作品ではなくて、父性批判の物語ですね。人間のクローンを作ることが可能になったんだとしても、人工子宮は開発されていないんだろうし、卵子も子宮も産道も、母乳も養母も子供には必要なはずなのです。でもそれはこの物語には出てこない。ソルターに見えていないからです。彼は自分の理想の子供が、息子が欲しかっただけなのですから。そうは見えなくても精神的にはとてもマッチョで、なんなら実際に暴力的な男なのでしょう。妻を鬱にさせ自殺に追い込み、残された幼い息子はネグレクトしなんならこれまた手を上げていたに違いないのです。そして息子が懐かないからと言って別の息子をクローンで作るような人間なのです。これまた、凍結されていた妻の卵子を彼女の意志に反して勝手に使用したに決まっているのでした。
男だから、父親だからということに留まらず、そもそも人間は世界に対してこういう傲慢さを持っているのではないか、ということをこの作者は、作品は突きつけているのかもしれません。俺が作った、人間がこの世を作った、だから相手は俺に依存するべきだし世界は人間のコントロール下にあるべきだ、という不遜な思考。それに対するマイケル・ブラックなる名前を持った「息子」の(この名前は誰がつけたものなのでしょうか、どんな意味が込められたものなのでしょうか。ソルターは塩商人ということでそれこそ商人、ビジネスライクな、損得しか考えない…というようなイメージを重ねられているのだと思うのですけれど)飄々と自立した生き方のカウンター・パンチよ! 彼は自分の妻を持ち子供たちを持ち職業を持ち趣味を持ち、世界を愛し自分の人生を愛している。自分がクローンであることや遺伝的な両親のことはハナから単なる事実として教えられていて、彼にとってはそれはそれでそういうものだということでしかなくて、目の前の養父母や学友や世界が明るく優しかったからそれで十分だったのでしょう。健全で健康で、普通のことです。ソルターは彼に悩んだりグレたりしていてほしかったのでしょうが、つまり自分の息子として自分のそばで育たなかったことに屈託を持っていてほしかった、自分の影響下にあってほしかったわけですが、そんなこたマイケルには全然関係のないことなのでした。それでソルターは焦りとまどいキレて暴れる。彼が自分の影響下にいる息子がいないと自分を保てない、そんなつまらない人間だからです。でもそれもマイケルには関係ない。彼は自立し自律し、幸福なのです。幸せかと問われて彼はスッパリ応えます、「はい、すみませんけど」。それで幕。
「すみませんけど」という言葉にはやや皮肉めいた響きもあって、その意味ではマイケルはソルターに求められていることがわかっていて、でもあえて応じなかったのだ、とも捉えられます。でもそれはマイケルにソルターへの思慕や屈託が実は多少はあってたとえばプライドや意地からそれを隠していたのだ、ということを別に意味しない。単に見当違いのことをあれこれ言われても人は困惑し多少立腹してこういう反応をするに違いないからです。マイケルは本当にソルターとは無関係に生きているのでしょう、世界が人間と関係なく存在するように。人類が滅亡しても地球はなんら痛痒を感じないように。宇宙がただあるがままにあるように。
世界にとって人間の方こそが数あるもののひとつにすぎないのに、人間は思い上がっている…そんなことを描いた作品のように思えました。タイトルのナカグロは日本版オリジナルのもののようですが、英語では定冠詞か複数形になるはずのところをこのタイトルになっているのだそうで、それを考えるといい表現だなと感じました。
一般的に想像される「クローン」は現実的ではないということは科学的にすでに明らかになっているそうで(同じように育てても同じような人間にはならないということが多々ある、という問題を別にしても、単に成長過程でゲノムが変化してしまうのでコピーにはならないということがわかったのだそうです)、この作品が初演された2002年が「クローンをテーマに扱える最後の時代だったかもしれない」とプログラムではされています。「そもそもコピーは機械の発想です」と一刀両断でもありますが、ロマンチックな妄想を掻き立てるモチーフではあると思うので、寂しいようでもありますね。でも人間とは何か、アイデンティティとは何か、幸福とは何か…というようなテーマは永遠で、手を変え品を変えモチーフを変えて語り続けられることでしょう。わかっていてもなお書いてしまうのが作者なら、なお観てしまうのが観客なのだと思います。良き作家との出会いでした、また別の舞台を観てみたいです。
クローン技術が進み、人間のクローンを作ることは技術的には可能になったが、法的にはグレーゾーンにあたる、そんな近未来。ある日、自分がクローンであることに気づいたバーナード(B2)(戸次重幸)は、父・ソルター(益岡徹)に自分を作った理由を問う。ソルターは、亡くなった実の息子を取り戻したくて医療機関に息子のクローンを作り出してもらったと言うが、実は医療機関ではソルターには秘密で、ひとりではなく複数のクローンを作っていたらしく、しかも実の息子バーナード(B1)(戸次重幸の二役)は生きていて…
作/キャリル・チャーチル、翻訳/浦辺千鶴、演出/上村聡史。2002年ロンドン初演、全1幕。
チラシで、ふたり芝居でクローンがモチーフ、とだけ知って自分が絶対好きそう、とチケットを手配した舞台だったのですが、作者はトム・ストッパードと並び称される英国演劇界の有名どころなんだそうですね。『クラウドナイン』『トップ・ガールズ』のタイトルは知っていましたが、私は作者名は初めて聞きました、不勉強ですみません。
ともあれふたり4役70分の緊張感あふれる芝居、堪能しました。場面数はいつつ、かな? 暗転で途切れて、益岡徹は舞台に残って椅子など動かしたり、そうでなければ客席に背を向けて気配を消して佇み、その間に引っ込んだ戸次重幸が別の「息子」になって登場してきて新たな場面が始まる、という構成でした。怖ろしい…しかも最初にただの窓だった奥の壁が第2場以降は開いて、過去かどこかの子供部屋のようになるんだけれど、それがまた怖ろしいのです…全体としては無機質な部屋のセットで、でも床は八百屋でその不安定さも怖く、心理描写を表す照明の明暗も怖い(美術/乘峯雅寛、照明/沢田祐二)、たまらない舞台でした。
ふたり4役と言っても益岡徹はずっと父親のソルター(劇中では名前は出てこないけれど)を演じていて、戸次重幸が3人の息子を次々と演じます。父親はともかく、息子の名前もまた劇中で出てこないのが怖ろしい。父は全然子供の名前を呼ばないのです。そりゃ目の前にいて会話しているとそういうものかもしれないけれど、不自然と言えば不自然なわけで、それがまた怖ろしいのです。
第1場では息子がなんかわあわあ言うのを父親がなかなか真剣に取り合わない感じなので、観客の心情は自然と息子側に寄り添うよう誘導されているんだと思います。そして彼らの行きつ戻りつする会話から、彼らの状況が見えてくる。ところが次の場面ではずいぶんとやさぐれた別の「息子」が現れるので、観客は困惑させられ、また状況を把握していき、やがてゆっくりと父親側に沿うようになるのでしょう。さらに3人目の息子が登場すると、彼はソルターの言うことを全然取り合おうとしません。そしてラストに至って、オチが鮮やかに決まるのでした。お見事でした!
私にとっては最後の暗転が実にスリリングでした。わあ、すごいこと言っちゃったよ、この続きなんてある? あ、明るくなったらふたりが気をつけして立っている、あらお辞儀したコレで終わりだアレがオチだったんだわあぁすごい!というような感じだったのです。終演後、リピーターチケット売り場に行列ができていました。さもありなん!
これはクローンの可否みたいなものを問う作品ではなくて、父性批判の物語ですね。人間のクローンを作ることが可能になったんだとしても、人工子宮は開発されていないんだろうし、卵子も子宮も産道も、母乳も養母も子供には必要なはずなのです。でもそれはこの物語には出てこない。ソルターに見えていないからです。彼は自分の理想の子供が、息子が欲しかっただけなのですから。そうは見えなくても精神的にはとてもマッチョで、なんなら実際に暴力的な男なのでしょう。妻を鬱にさせ自殺に追い込み、残された幼い息子はネグレクトしなんならこれまた手を上げていたに違いないのです。そして息子が懐かないからと言って別の息子をクローンで作るような人間なのです。これまた、凍結されていた妻の卵子を彼女の意志に反して勝手に使用したに決まっているのでした。
男だから、父親だからということに留まらず、そもそも人間は世界に対してこういう傲慢さを持っているのではないか、ということをこの作者は、作品は突きつけているのかもしれません。俺が作った、人間がこの世を作った、だから相手は俺に依存するべきだし世界は人間のコントロール下にあるべきだ、という不遜な思考。それに対するマイケル・ブラックなる名前を持った「息子」の(この名前は誰がつけたものなのでしょうか、どんな意味が込められたものなのでしょうか。ソルターは塩商人ということでそれこそ商人、ビジネスライクな、損得しか考えない…というようなイメージを重ねられているのだと思うのですけれど)飄々と自立した生き方のカウンター・パンチよ! 彼は自分の妻を持ち子供たちを持ち職業を持ち趣味を持ち、世界を愛し自分の人生を愛している。自分がクローンであることや遺伝的な両親のことはハナから単なる事実として教えられていて、彼にとってはそれはそれでそういうものだということでしかなくて、目の前の養父母や学友や世界が明るく優しかったからそれで十分だったのでしょう。健全で健康で、普通のことです。ソルターは彼に悩んだりグレたりしていてほしかったのでしょうが、つまり自分の息子として自分のそばで育たなかったことに屈託を持っていてほしかった、自分の影響下にあってほしかったわけですが、そんなこたマイケルには全然関係のないことなのでした。それでソルターは焦りとまどいキレて暴れる。彼が自分の影響下にいる息子がいないと自分を保てない、そんなつまらない人間だからです。でもそれもマイケルには関係ない。彼は自立し自律し、幸福なのです。幸せかと問われて彼はスッパリ応えます、「はい、すみませんけど」。それで幕。
「すみませんけど」という言葉にはやや皮肉めいた響きもあって、その意味ではマイケルはソルターに求められていることがわかっていて、でもあえて応じなかったのだ、とも捉えられます。でもそれはマイケルにソルターへの思慕や屈託が実は多少はあってたとえばプライドや意地からそれを隠していたのだ、ということを別に意味しない。単に見当違いのことをあれこれ言われても人は困惑し多少立腹してこういう反応をするに違いないからです。マイケルは本当にソルターとは無関係に生きているのでしょう、世界が人間と関係なく存在するように。人類が滅亡しても地球はなんら痛痒を感じないように。宇宙がただあるがままにあるように。
世界にとって人間の方こそが数あるもののひとつにすぎないのに、人間は思い上がっている…そんなことを描いた作品のように思えました。タイトルのナカグロは日本版オリジナルのもののようですが、英語では定冠詞か複数形になるはずのところをこのタイトルになっているのだそうで、それを考えるといい表現だなと感じました。
一般的に想像される「クローン」は現実的ではないということは科学的にすでに明らかになっているそうで(同じように育てても同じような人間にはならないということが多々ある、という問題を別にしても、単に成長過程でゲノムが変化してしまうのでコピーにはならないということがわかったのだそうです)、この作品が初演された2002年が「クローンをテーマに扱える最後の時代だったかもしれない」とプログラムではされています。「そもそもコピーは機械の発想です」と一刀両断でもありますが、ロマンチックな妄想を掻き立てるモチーフではあると思うので、寂しいようでもありますね。でも人間とは何か、アイデンティティとは何か、幸福とは何か…というようなテーマは永遠で、手を変え品を変えモチーフを変えて語り続けられることでしょう。わかっていてもなお書いてしまうのが作者なら、なお観てしまうのが観客なのだと思います。良き作家との出会いでした、また別の舞台を観てみたいです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます