駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

宝塚歌劇月組『ME AND MY GIRL』

2013年05月15日 | 観劇記/タイトルま行
 梅田芸術劇場、2013年5月11日マチネ。

 1930年代のイギリス。ロンドンの下町ランベスに住むビルことウィリアム・スナイブスン(龍真咲)は恋人のサリー・スミス(愛希れいか)と共に自由気ままな日々を過ごしていた。そんなビルのもとに思いもかけない幸運が舞い込む。なんとビルは由緒正しきヘアフォード伯爵家当主の落とし胤であり、当主がなくなった今、伯爵家の莫大な財産と当主の座を継ぐことになったというのだ…
 作詞・脚本/L・アーサー・ローズ、ダグラス・ファーバー、作曲/ノエル・ゲイ、脚色/小原弘稔、脚色・演出/三木章雄、翻役/清水俊二、訳詞/岩谷時子。
 1937年ロンドン初演、1985年リバイバル版上演、宝塚歌劇では1987年の初演以来7度目の再演。全2幕。

 生では今までにユリヨシコ版とノンユウコ版、アサカナ版、東宝版を観ています。アサカナ版の感想はこちら、東宝版の感想はこちら

 演目が発表されたときは「またやるの? 客入るの?」と心配しましたすみません。
 役替わりのこともあってかチケットはまあまあ売れているようで、ツイッターなど見ている限りでは意外にも「生『ミーマイ』は初めて!」ということで喜んでいる人も多く、実際に自分が観た回でもこれまでのバージョンどおりの私には見慣れたギャグでも客席はちゃんとウケていたりして、なんだかんだとけっこう喜ばれているんだな、と思いました。
 そして自分も意外に楽しんでしまいました…やっぱり古かったとか細かいところが気に障ったとか寒くて笑えなかったとかありえるな自分なら、と心配していたのですよ。めんどい客ですみません。
 でも杞憂だった。全然楽しかった。ハッピー・ミュージカルってやっぱりいいなと思いましたし、ビッグ・ナンバーが突然歌い出されて呆然としようが観ているうちに乗ってきて、「ジャン!」って終わったらぱっと拍手が入れられるのってやっぱり気持ちがいいよね、みたいなことに感心したり感動したりしながら、結局は泣いたし笑ったしほだされたし楽しんでしまいました。
 その上で、でも感じたことは書く、めんどくさい私です…

 さて、まさおビル。稽古場映像などを見ている限り、コメディとはいえやっている人がおもしろがりすぎちゃって暴走しちゃって観客置いてけぼり、みたいになっているのではないかと心配していたのですが、そんなではありませんでした。
 幼児っぽすぎたり多動児みたいになっているようにも、私には見えませんでした。普通に下品で粗野で教養のないおバカで元気な青年、という感じ。だからビルとしては正しいのではないかな、と思いました。
 ただ私は階級というものがない日本でどちらかというと貧乏でしたが精神的にはコンサバな家庭に育ったので、身分が低いことよりも教養がないことや行儀が悪いことを人として低く見て問題視する傾向があるので、このビルに好感や魅力を持つかというと疑問なんですね。
 まさおがキラキラやっているから、チャーミングには見える。でもそれはビルのキャラクターとかビルとしての演技とは別なのではないか、と思ったりしてしまったのです。
 でも歴代ビルってこうだよね。私は初生『ミーマイ』だったユリちゃんのビルにも感心しなかった覚えがあるし、今実況CD聞いてもしんどいなと思うもん。
 ノンちゃんのビルはどうだったかな、銀ちゃんをやった人だからやんちゃも下品もできる人だけれど、でもそこはかとなくノーブルさとまではいかないまでも人の好さとか愛嬌みたいなものがもう少しあったんじゃないかな…残念ながら明確な記憶がナイ。
 でもだから多分これは三木先生のビル像なんでしょうね。もともとのロンドン版がどうかはまた別で、現代の日本でこの演目をやるときにこのキャラクターはこうなんだ、ということを考えるのが演出家の仕事なんだと思うので。いや違うのかもしれませんが。
 しかしビルはただ下品で粗野でザッツ労働者階級の青年でいいのかなあ。氏か育ちかという問題はなかなか難しいけれど、ビルにはもっと、伯爵の落とし胤だからこその何か、という部分があってもいいのではないでしょうか。それって何か、貴族らしさって何か、って言われるとまた難しいんだけれどさ。
 あるいはもっと、率直でまっすぐでホントのことをズバズバ言ってしまう、飾り気がなくててらいのないストレートな青年、というような方向性はないのかなあ。それが、お愛想や偽善ばかりで裏表がありすぎる貴族たちと好対照になっている、というような。でも機知があったりクレバーでスマートなところは貴族に通じて、ああやっぱりまがりなりにも血は引いているんだね、と思わせるような、とか。
 うーん、やっぱり私には階級というものの本質が多分よくわかっていないので、このあたりのことを考え出すと袋小路に追い込まれそうなんだけれど、ともあれビルが下品で粗野だろうとそれはそれとしていいけれど、もう一押し魅力的な何かがないと、観客はこの青年が降って沸いた幸運のために(いや実際は生得の権利なんだけれど)ちょっと無理してがんばろうというのを応援して観る気にならなくなっちゃうから、そこはデリケートに演出してほしいな、ということが言いたいのでした。

 あと、まさおの演技のベースは結局ここで確定されてしまうんでしょうかね。『ベルばら』みたいな大芝居にはぴったりだなと思ったんですが、要するにあのうねるような発声の、台詞の行頭に常に小さい「ン」がつくような話し方の、いかにも芝居じみた演技のことなのですが。
 パーティーの場面なんかはいいなと思ったんですよね。だってあのビルは演技をしているわけだから。マリアに習ったことをやってみせているわけだから。貴族同士の社交会話って要するにそういうことだから。
 でも、身を引こうとするサリーに対して、それまでおちゃらけていたりしたのをやめて本気になって話したり引き止めたりするところ、マリアと対立して本気で怒って自分の主張を述べるところ、そういう「本気」のくだりもあのいかにも芝居がかった発声でやられると、私にはそれが役の「地」には、「本気」の発露には見えなくて、観ていてテンションが一気に下がりました。
 実は『愛短』のまさおも同じ理由でダメだったんだよね…ナチュラル正塚芝居に全然向かないなと思ってしまったのです。次回作も正塚作品だよね、19世紀か20世紀か知らないけどおおむね現代の話だよね、不安…
 このままだとまさおは私の中で「演技が苦手なタイプのスター」にカテゴライズされてしまう…イヤこれはまったく個人的な好みの問題なので、困るのは主に私だけなのでいいのですが。でも苦手なスターさんは少ない方が観劇が楽しいじゃん…いやだったら苦手枠を減らせよって話なんだけれど、違和感を感じてしまうんですもの…ブツブツ…
 まさみりの「今宵一夜」が演技の質というか方向性のあまりの違いにほとんどおもしろすぎることになっていて、私はけっこう呆然としたのですが、今回もちゃぴはいいナチュラル芝居をやっているのにまさおはあいかわらず芝居がかったままで、あれれれれ…と思ったのですよ。うーむむむ。

 さて、ちゃぴサリー。似合うだろうと思っていましたがぴったりだったねバッチリだったね!
 かつてアサカナ版ではのっけの「ミー&マイガール」でそのキラキラさ加減のかわいらしさ愛らしさにうっかり泣くという経験をした私ですが、今回はこの曲では泣きませんでした。というのはキーが多少合わないのかやることがいろいろあるナンバーで大変だからか、このときの歌はそんなにいいなと思わなかったから。
 でも「あなたの心を一度なくすと」で爆泣き。上手いわせつないわ聞かせるわでもうボロボロ泣いてしまいました。
 この歌、歌詞の「ハートの居所なく」すってどういう意味?とか思ったりするし、これは恋人の心変わりを案じて歌う歌詞のようだけれど、サリーがその前にビルとジャッキーの戯れ現場を目撃しているからってそこに浮気も心変わりもあるわけないと思っているに決まっているし、だから実はどうも的外れなナンバーに聞こえるのですよね。
 サリーはビルと自分が愛し合っていることにはなんの心配も抱いていない。ただビルと自分の間に階級差というものができてしまったことを案じているのであり、彼の将来のためには自分が身を引くべきだろうと考えていて悩んでいて、それで歌うナンバーなんだから、この歌詞じゃないよな、といつも思います。
 でもそんな原作者に唾するようなこと言っていても仕方ないし、とにかくちゃぴサリーのせつなさは胸に迫ってきて泣けたのだから、まあいいってことにしましょう。
 赤いワンピースはウェストが細すぎてバランスが悪く見えかねないくらいだったのが気になったけれど、とにかくキュートでチャーミングで、下品でお行儀が悪かろうと愛嬌のうちに見えてしまう…のは私が娘役に、女性キャラクターに甘すぎるからですかすみません。
 でもちゃぴは「本気」になったときの演技がやはりとてもよかったのですよね。だからサリーの本質はいい子なんだ、ってことが如実に伝わって、それで観客はこの女の子を応援したくなるんだと思うんです。そのあり方がとても正しいなと思いました。

 役替わりは、私が観たのはいわゆるBパターンの初日で、ジェラルドはカチャ。冒頭の歌詞が聞き取りやすく、のんきなお坊ちゃまな感じが好もしく、よかったです。
 ジャッキーはみやちゃん。高音に自信がないためか浪々と歌うことはせず、ちょっと声量を落とし気味にささやくように歌うのが、ハスキーさもあってキュートでセクシーでかつ嫌味がなく、ちゃっかりガツガツしているこのキャラクターをこれまた上手く魅力的に見せていて、私ははじめてこのキャラクターが好きになれた気がしました。
 あいあいがやったとき以外は基本的に男役がやっている役ですが、当然オカマっぽくなったりしがちで、でもお金や権力を得るために色仕掛けも辞さない女というなかなかどぎつい役どころを愛嬌あるように好感持たれるように演じるのってけっこうハードルが高いことなわけで、正直今までちゃんとした成功例を観たことがない気がします。ジャッキーが好きになれた、可愛く思えたことで今回の観劇が俄然おもしろく思えた、という部分は私としてはあるかなと思いました。
 でもピンクのワンピやオレンジと金のドレスはよかったけれど、2幕冒頭のブルー系のワンピはガリガリさが目立っちゃってダメでしたね。
 そういえばサリーのお衣装はヨシコのときだけが一幕の赤いのも二幕の青いのも他のときと違っていたよね、白地が少ないの。なんでだろう?

 ところでジェラルドが働くなんて冗談じゃない、労働なんて下層階級の者がやることだから恥ずかしくてできない、と考えているのは別にそういうものなんだろうからそれでいいんだけれど、この「仕事」ってjobって感じ?
 対してジャッキーが言う「私は仕事(ビジネス)と楽しみを一緒にすることができないのよ」の、「仕事」と「楽しみ」って具体的に何? というかこの台詞って何を言っているの? 私には意味が取れないんですが。
 それからプログラムの三木先生のコメントにもある「新しいヘアフォード卿がお金を手に入れるなら、私は新しいヘアフォード卿を私のものにするわ」という台詞は、「新しいヘアフォード卿がお金を手に入れるなら、私は新しいヘアフォード卿を手に入れるわ」とするべきだろうと常々思っているのですが、今回も改変されませんでしたね…呼応させなきゃこの繰り返しに意味ないじゃん。センスないなー。
 「するってえと俺はおアシをいっぱい持っているってワケだね」に対する「アシは二本と決まっておりますが」の台詞をカットしたりと、時代に合わせてちょこちょこ変えてる部分もあるんだから、もっとちゃんと全体を丁寧に見直して手直ししてブラッシュアップしてもいいんじゃないの?と思うところは多々ありました。まんま再演するなんて安易な手抜きはやめてほしいです。
 それで言うと「あなたは私に夢を見させる」の歌詞も私は以前から気に入らなくてですね、でも今回もまんまでしたけれどねー。誘惑とそれに抵抗するくだりの歌ですが、「抱く」とか「やる」とかの言葉の使い方がさ、センスがないというかそんなふうには言わないだろう、って気がしません? 性交することを抱く、抱かれるというのって文語的表現で、口語とか歌詞には向かないと思うんですよね。あなたのものにして、とか奪って、とかの方がいいんじゃないのかなあ。やらないよ、じゃなくてできないよ、でしょうし。下品というよりズレて感じられるのがイヤなんですよね…
 ちなみにここでビルはクッションで勃起を隠しているのだと今回初めて気づきましたが、『ニジンスキー』のマスターベーションと射精のくだり同様、「勃てるもんないけどね!」と思ってちょっと笑っちゃいました。不快というよりそのズレ加減が嫌だな、と感じましたね。宝塚歌劇はタカラジェンヌによって演じられるもので、タカラジェンヌは女性であってペニスは持っていないんですよご承知のとおり。…なんだかなー…

 コマのパーチェスターはいい感じにお調子者で、私はいいなと思いました。
 ただフィナーレで娘役さんに囲まれるとやはり小さいな…とは思いましたね。なんでもできる人だし月組でいい戦力になってほしいとは思いますが、どういう使われ方をするのだろう…
 本当ならカチャもコマも組替えさせた以上ここではジョン卿を役替わりでやらせるべきだったろう、とは私は今でも思っていますけれどね。カチャは今さら女役なんかやらせている場合ではないと思うし、コマはパーチェスターくらいできてあたりまえなんだと思うので。

 マギーのパーチェスターはなんかもっと色っぽいそうですね。博多版を私は映像でしか観ていませんが、そのときともまた変えてきているんだろうなあ。
 でもヘザーセットもとてもよかった。私がこのキャラクターが好きだというのもあるけれど、なんか予想外によかったです。
 ロマンスグレーで、猫背というか気持ち前屈みで、つまり背筋しゃっきりなきりりとした執事じゃないんですよ、なんかちょっとくたびれてて黄昏ているの。もうお歳なんだと思うんですよね、で、長年このお屋敷に仕えてきて、ぼちぼち隠居も考える頃になってとんでもないご領主さまが現れて、なんかもう人生の悲哀を感じちゃって肩落としちゃっている感じが漂っているんです。
 それがなんともいじらしくて、なんか妙に色っぽい…!
 マギーはマジで『リストランテ・パラテイーゾ』ができる! 私はあれを読んだときには実は枯れ専・老け専がよくわからなかったのだけれど、今なら、マギーがやるなら、わかる!(笑)

 ジョン卿は越リュウ、マリアはすーちゃん。
 私は再演以降の『ミーマイ』しか観ていないので、二番手格スターがジョン卿を演じて専科さんがマリアの組み合わせのときの歳の差加減がどうにも気になっていたのですが、今回はバランスがよくてすばらしい。
 マリアは、ジャッキーの母親であることもあるバージョンもあるくらいだからもしかしたらもっと老齢の方が正しいのかもしれないけれど、せいぜいが40がらみの今回の方が「らしい」のではないか、と思いました。
 本当にはまだ「ばあさん」ではないからこそジョン卿にそう揶揄される意味があるのだし、貴族の義務を忠実に果たして意に沿わないながらも結婚して夫と家を支えて子供には恵まれず夫にも先立たれたけど今もきちんと家を支えている、今でいうところのキャリアウーマン、みたいなキャラクターなんじゃないかと思うのですよね。
 ちなみに彼女は公爵夫人なんだから公爵と結婚していたことがあって今は未亡人なのだろう、と私は勝手に解釈していますが、違うのかな? ただだからジョン卿が「30年間愛し合っていた」とか言うのを聞くといつもイヤ別の人と一応結婚していた時期もその間にはあるはずだからさ…と思ってしまうのですが。でもまあマリア自身は愛なんて中産階級のものだと言っているとおり、夫を愛したことなどなかったのかもしれませんが。まあいいや。
 越リュウは色気抑え目でダンディな英国のおじさまを軽やかに演じ、すーちゃんはきりっとズバッと厳しくも凛々しく勇ましいマリアをすがすがしく演じ、お似合いのカップルっぷりで、新・組長副組長おめでとうございます、って感じでとてもよかったです。
 ちなみにフィナーレの黒燕尾では越リュウは色気フルオープンで、私はすっかりロック・オンでしたけれどね。

 というわけであとはたいした役が残念ながらありません。『ロミジュリ』『ベルばら』『ミーマイ』とメインキャスト以外たいした役がない演目が続いていて、月組の中堅スターには本当にお気の毒。
 としちゃん、ゆりやん、ゆうきあたりは本当にかわいそうな無駄遣い。みくちゃんもフィナーレで歌わせてもらってはいたけど、またちょっと丸くなっちゃった気もしたし、踊ってないから太るんだな、と思いましたもん。
 あ、るうちゃんのブラウン夫人はよかった。このおばさんがまたヘンに下品だと私はげんなりするので。

 キャスト感想ばかりになってしまいました。
 そうそう、私は幻想の場面が好きで、セリ上がりと盆回しとスモーク最高!とか思っているのですが、今回もせつなさにほろりと涙しました。
 そしてこのくだりのラスト、ビルが街灯の灯を吹き消すのは、そのまま暗転になるお洒落な演出ということもあるけれど、サリーの帰りを待って夜明かしして、朝が来て明るくなっちゃったから明かりがいらなくなったから灯を消すんだな、と今回初めて具体的に思えて、その悲しさ、せつなさに胸打たれたのでした。
 「街灯によりかかって」は、いい歌だよね…

 ま、総じてとても楽しんだのですが、しかし最初に戻るようですが、要するに階級というものがなく教育の機会が全国民に均等に与えられている国に育った人間としては、結局のことろこの話はよくわからない、という大問題があります。
 お上品な話し方ができるようになれば、結局は市井の出でも伯爵夫人になっていいということなのか。階級ってそんなことで越えられるものなのか。身分って、血って、そんな程度のものなのか。これで本当にハッピーエンドなのか、だったらそもそも物語としての障害設定が低すぎるのではないか。そんなもやもやした気分が残るからです。
 ただ今回、海外ミュージカルや外国文化にくわしい友人に聞いてみたところ、要するに実際にはこんなことはありえないわけで、だからこそのおとぎ話だというのですね。
 現実には下層階級の者が話し方だけ上流階級のものになるなんてありえないし、上流階級ふうの話し方ができたからってそれで迎え入れられることもありえない。そういう皮肉な思いを抱えながら観る、シニカルな視点が本来はあるのだというのです。なるほどね。
 それでいうと、ジェラルドがジャッキーに対して最終的に行う躾というかなんというか、も実は私はよくはわかっていなくて、例えばあれは私はお尻をぶっているのかなと思っているのですが、つまりいたずらをする子供を懲らしめるような躾をしてやっと初めてジャッキーがおとなしくなる、ということなのかと解釈しているのですが、そうなのかな?
 また仮にそうだとしても、現代の視点から見るとそれって体罰とか虐待なのではないかという気もしなくもないし、フェミニズム的に引っかかるものも感じて、ジャッキーの喘ぎ声も純粋に楽しめなくていつももやもやしてしまうのですが、これもまたその友人によると、スパンキングというかある種のSMプレイを暗示していて、貴族って結局そういうのが好きなんでしょ、という冷笑的な視線があるのだというのですね。なるほどね!
 でもやっぱり普通にしていたらそんなことは我々日本人にはぴんと来なくて、ただ違和感というかもやもやは確かに残って、だからこの作品って今なおこんなに何度も再演されるほど価値が本当にあるのかとか意義があるのかとかはちょっと思うところがなくもない、と思ったりするのでした。
 毎度回りくどくて申し訳ない。
 でもいつかどんぴしゃの「正解」に巡り合うときを信じて、また再演されたらまた観に行くんだろうな、とも思ったりするのでした。



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