駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『舞台 刀剣乱舞 禺伝 矛盾源氏物語』

2023年02月12日 | 観劇記/タイトルは行
 TOKYO DOME CITY HALL、2023年2月4日12時半(初日)、18時、10日18時。

 西暦2205年。歴史の改変を目論む「歴史修正主義者」によって過去への攻撃が始まった。時の政府は「審神者」なる者たちに歴史の守護を命じる。審神者の物の心を励起する力によって生み出された「刀剣男士」たちは、さだめられた歴史を守る戦いへ身を投じる。四百年続いた平安時代の寛弘の頃、平安京には歌仙兼定(七海ひろき)を隊長とした、大倶利伽羅(彩凪翔)、一文字則宗(綾凰華)、山鳥毛(麻央侑希)、姫鶴一文字(澄輝さやと)、南泉一文字(汐月しゅう)の六振りが出陣していた。世界最古の長編小説『源氏物語』の作者として知られる紫式部の周辺歴史に異常が見られたためだったが…
 脚本・演出/末満健一、アクション監督/栗田政明、音楽/manzo、伊真吾、KYOHEI、振付/Seishiro。2015年にリリースされたゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』を原案とする2.5次元舞台のストレートプレイ版、第13弾。全2幕。

 初日の大休憩(笑)でお友達たちとお茶したときに出た話題だったのですが、そもそもゲームリリース当時は「『艦これ』の女性向け版」みたいな説明をされることが多かった気がするよね、となって、そうかなるほどね、でももはやこうしたある種の擬人化もの(?)が一大ジャンルになったので、今はイメージもしやすくなってもうそういう説明は要らなくなったのかもしれない…などと思うなど、しました。イヤもしかしたら真の一般人にとってはあいかわらずナゾの、なんかオタクのゲームかアニメかなんかのアレ…みたいな一絡げっぷりなのかもしれませんが。あちらは、旧日本軍の艦隊を美少女に擬人化したもの…なのかな? かたやこちらは日本刀を美青年に擬人化したもの…なのでしょう。いや擬人化とは違うんだ、とはファンから言われるんでしょうが、あくまでくくりとして、ね。で、そういうキャラを育てたり戦わせたり集めたりするゲーム、というものが本邦では本当に人気で隆盛を極めている、ということなのでしょう。いや出来不出来の差はあるんだろうし、いいものしか残っていかないのでしょうが、ね。『刀剣』はまだ七年なんですね、もっと古くからあるような気がしていました。二次展開も多く、すでに立派な一大ムーブメントとなっていると思います。
 私はとにかくゲームと名の付くものをほとんどしない人間なので、舞台ファンとして刀ステと刀ミュは違うんだ、くらいは聞いていましたが、作品のそもそもの世界観など含めて細かいことはさっぱりわかっておらず、この演目が発表されてから、というか贔屓の出演が発表されてからも、結局ゲームをしてみるとか過去の舞台の配信を見るとかの予習は全然しませんでした。なので「刀剣男士」は擬人化というのとはちょっと違う、ということの理解がなんとなくまだできていない気はします。このあたり、後述します。
 ただ、舞台はずっと男優さんたちだけでやってきていて、ここから大きく羽ばたいていった役者も出始めていて若手の憧れの作品で、またファンの多くは女性で彼らの成長を見守ること含めてとても熱心で熱狂的であり、しかしかいちゃんが前作『綺伝』で(というかその前身で、コロナ禍で「科白劇」として上演された演目で)細川ガラシャ役で初めて女性キャストとして出演し、物議を醸しインパクトを与えひとつのマイルストーンとなったのだ…というのは、傍からなんとなく観測していて、状況をうっすら理解しているつもりではいました。かいちゃんファンのお友達も周りにいますしね。ちなみにそのあとイチロさんも出た作品があったことは今回初めて知りました。
 今、かいちゃんとなぎしょで『禺伝』をやるよ、と発表されたときの予告動画などを改めて見てみると、「矛盾」「反転」「陰陽」なんて言葉がすでにしっかり使用されていました。当初からそのコンセプトが明確にあった企画だということです。その後に四振り(刀をこう数えることも初めて知りましたよ…)と光源氏(瀬戸かずや)役のあきらまで五人のOGの出演が発表になり、さらに『源氏』の女君たちの役らしきところもすべて女優さん方が演じるのだと発表になり、そして殺陣までこなすアンサンブルもすべて女性という、男優オンリーだったこれまでと完全に逆のオールフィメール舞台になることが発表されて、それである種のスピンオフ感というかイレギュラー感、別物感が出てきて、やっとちょっとばかり向かい風が収まったかな、と思えたりもした流れだったかと思います。逆に言うとそれまでは、やはり女優が参加することへの忌避、メインキャストを宝塚歌劇団OG男役で揃えられ浸食される(とこれまでのファンからしたら感じられるのでしょう)ことへの不満や不信感はあったろうと感じられたのです。
 私はお友達たちと、ちょっと間借りさせていただきますよすみませんね、くらいの腰の低さがいくつもりが、こうなるとホントの既存ファンは離れていってかえってチケットが取りやすくなるのかね、とか思ったり、イヤ『刀剣』であればなんでも行くというディープなファンが一定数いるジャンルだからやはりチケ取りは激戦で甘くないだろう、とか言い合ったりと、うろうろ不安な日々を送ることになりました。贔屓の取次はなかったし(そもそも芸能活動をしている人とは厳密には言えないくらいになっていましたしね…(^^;))、ハコも行ったことがないところだし、公演期間は意外と短く感じられたし、全然勝手がわからず、さりとてチケット先行申し込みのためだけにゲームをやるとか前作の円盤を買うとかはもちろんせず、普通にクレカだのローチケだのの抽選に申し込んでは外れ…みたいなことをちみちみ繰り広げつつ、なんとかチケットを手にして初日を待った感じです。グッズ購入のルールにも不慣れでとまどいましたし、観劇当日にプログラムを買うのも一苦労らしいと脅かされていたので、それにもどきまぎさせられました。結局レジはごくスムーズで、事前予約のオーダーシートなんか見せる暇もなく口頭で注文しカード会計して終わり、でしたけれどね…
 ただ、私は個人的には、『ヴェラキッカ』をおもしろく観て、しかし結局あちらも『TRUMP』シリーズを遡って見るみたいなことはしないままにすませていたので、今回もノー予習でも、単体でも、大丈夫だろう、ちゃんとわかるようおもしろく作ってくるだろう、という謎の信頼を末満さんには持っていました。刀ステは彼が、刀ミュはまた別の方がずっと脚本・演出を担当しているんだそうですね。結局、傑出した才能を持った人を担当に引き当てられたことが、この作品の勝因なのではないでしょうか。いやゲームそのものがちゃんとおもしろい、というのはもちろんあるんでしょうけれど。舞台以外の二次展開もたくさんされているし、いずれもちゃんと成功しているのかもしれませんけれど。
 なのであとは、今はほぼヨガの先生で趣味は刺繍、ときどき同期のライブのゲスト、ときどきドラマのバックダンサー、みたいな我が贔屓が、うっかり呼んでもらえてうっかりやりますがんばりますとか言っちゃったんだろうけどホンマ大丈夫なんかいな、みたいなところだけドキドキして、参戦したのでした。
 ちなみにホールはバルコニーがどうのこうのいうんでどんだけデカいんだとビビっていたほどには大きくもなくステージも遠くなく、きゅっと密でどこからも観やすそうでサイドからもそんなには見切れなそさうな、良き会場かと思いました。トイレは遠いタイプで行かないで済ませたのでわかりません。ロビーというほどのものはなく(というかほぼ物販スペースに当てられていた)、廊下めいたところを案内に従って進むとすぐ会場、すぐ座席という感じで、コンパクトさに徹していてゴージャスさは特に求めていない感じの作りでした。椅子はあまり良くはありませんでしたが(特に背中のメッシュはなんかアレでした)、私はこういうところでダブルしても平気という鈍感で頑丈な尻と腰を持っているので、あまり気になりませんでした。
 開演前の客席がものすごく静かで、同行者と話をしている人がほとんどいなかったのには感心しました。初日前の緊張かしらんとも思ったのですが、こうしたマナーは2.5次元界隈のほうが宝塚ファンなんかよりずっとお行儀いいんだそうですね。ただし私は禁止されている撮影をしている人もその画像をSNSに上げたものもまったく見なかったので、その後プチ炎上した「宝塚ファンは開演前の舞台の写真をすぐ撮るし役者が出てきただけで拍手したりして行儀が悪くて困りものだ」みたいな意見にはちょっとオヨヨ、でした。私が観た2回では登場時の拍手などなく、ミュージカルではないので歌い終わりの拍手もないから、プロローグ終わりと、幕切れのときだけだったんじゃなかったかな? まあでもそういう軋轢がある現場だった、というのは事実でしょう。それは記録しておきます。

 毎度前置きが長くてすみませんが、では以下やっと本編の感想です。まずは『源氏』パートについて。『刀剣』パートはのちほど語らせていただきます、毎度クドくてすんません。
 さて、もちろん私のバイブルは大和和紀『あさきゆめみし』ですが、現代語訳も田辺聖子から橋本治まで何パターンかは読んだことがあり、『源氏物語』については一応だいたいのところは押さえているつもりです。まあオタクの教養のひとつだよね、と思っています。ちなみに好きな女君は葵の上、朧月夜あたりで苦手なのは明石、秋好、玉鬘など。このあたりを語り出すと長いので割愛することにして、ともあれ六振りの刀剣男士たちは平安京で紫式部を探しますが見つけられず、代わりに紫式部の女房仲間の小少将の君(兵藤祐香)が「弘徽殿の女御」と呼ばわれているところに遭遇して、お話は始まります。つまりこれまでは改変された歴史を正すのが男士たちのお仕事でしたが、今回は物語と現実が「反転」しているようなので、それを正すために物語を矛盾させる、破綻させるために動くという、いつもと逆転した事態になるのでした。
 ところでなんで弘徽殿なんでしょうね? 桐壺の更衣をヒロインとすれば彼女は今でいう悪役令嬢で、主人公の光源氏からしたら邪魔で怖いおばはんという、ドロンジョ(古い…)めいた悪役キャラです。一般的にもあまり人気のあるキャラではないし、小少将も好きなキャラだとかどこかが似ているというわけでもないので、この役を当てられて心外だったことでしょう。ただここは、のちに明らかになりますが紫式部の「熱心な支持者」で「何者でもない」男(瀬戸かずや)が「反転」させた世界なので、たとえば彼には以前、紫式部に近づこうとしたところを小少将に妨げられた経緯があり、それで恨みに思って悪役に配した、とかなのかもしれません。のちに、弘徽殿は今回出てくる主要な女君の中では唯一源氏と性交渉がなかった人なので、その役を振られた小少将は行間でも本編でも自由度が高く動けるのかもしれない、みたいな説明が一応ありましたが…
(ちなみに私は弘徽殿がそんなに嫌いではなく、それは私が身分が高くて気位も高い、なのでいっそう素直になれないというキャラ、「設定」が大好物だからです。葵はまさにそれで、もう大好きなのでした。正妻なのに歳上であることやある種の政略結婚であったことを引け目に感じて好きなのに素直になれず、ついついツンケンしちゃう女…カワイイじゃないですか! そして弘徽殿もキャラとして持つ要素はほぼ同じなのでした。ただ葵は、源氏の息子を産んで一瞬夫と心が通じ合い、なのに直後にはかなく死すという、それこそ強烈な「物語」を持っているのでポイントが高く、弘徽殿はまあまあ長生きしちゃうので悪役として確立されてしまい同情しづらくなる、というのがマイナスになるのでしょう…閑話休題)
 で、では小少将同様に『源氏物語』の中の誰かになってしまっているだろう紫式部を探そう、となるのですが、私はまず、女君ではなく光源氏になっていた、つまりあきらが紫式部だった、とかになるならおもしろいな、と思いました。単に、あきらが紫式部役として長い髪になって十二単を着てみせたらそらファンサービスになるだろう、こういう舞台ならアリなんじゃない?と思ったのと、父親におまえが男だったらよかったのに、みたいなことを言われ続けて育った紫式部には、男がそんなにいいもんかい、みたいな愛憎なかばする思いでこの主人公を描いたところがあるのではないかな、だから他の女君キャラたちより深いつながりがあるのではないかな、と私は考えてきたからです。
 あきらの台詞を聞くまでもなく、そして南泉の鋭くかつ当然すぎるつっこみに笑うまでもなく、光源氏は位が高く顔がいいだけのただのクズです。紫式部は実際にこういう男どもに翻弄され苦労させられただけに、逆に小説の中でなら、自分の空想の中でなら、むしろ自分がそういう男になって気ままに生きてみたい、女たちにきゃあきゃあ言われてでもそれを軽くいなしてスカしてみたい、女を傷つけてみたいという「♪悪いことがしたい(by『BADDY』)」みたいな気持ちがあって、この主人公をこう書いたのではないかしらん、と私は以前から考えていたりしたのです。自己投影や感情移入、共感、というのとはちょっと違うと思うけれど、そういう屈託ある愛憎をこの作者はこの主人公に抱いているのではないかしらん?
 あとは、藤壺とか紫の上が一般的にはヒロイン格というか、まあ理想の女性キャラクター扱いされているかと思うのですが、実際にはふたりともあまり幸せにはなっていないと言えるし、紫式部が彼女たちを自分の理想の女性像として描いている感じは実はあまりしないよな、とも考えていたのです。藤壺は不義の子を産んだ罪悪感に苛まれて死にますし、紫の上も源氏の一の人と長く言われようと子供には恵まれず、最後の最後に正妻の座を横から出てきた若い女にさらわれて、源氏の生前には出家も許されず、男と女の修羅から逃れられないままでした。これらが女性の理想的な生き方だ、として紫式部が書いていたとは思えません。最終的な理想の生き様はむしろ、源氏亡きあとの物語になりますが、求婚してきたふたりの男から逃れて生きた浮舟の姿に結晶したのではないかしらん、と私は考えていたりするのです。要するに女が幸せになりたければ男なんざと関わるものではない、逃げきるしかないというやや残念な結論、ということです。
 が、この世界では、紫式部は藤壺の女御(皆本麻帆)とされていました。つまり「何者でもない」男からすると、紫式部は素晴らしい才能を持つ作家で崇め奉るべき理想的な女性で、だからキャラでいえば藤壺、ということになったということなのでしょう。この男の、というか世の男の浅薄さが実によく出ていると思いました。本人がちゃっかり光源氏をやるところまで含めて、な! ホント男の考えそうなことですよ…まあ中宮彰子と六条御息所(梅田彩佳)が同じ、ってのはどういう理屈なんだと言われるとちょっと困るのですがね。ここはなんでなんでしょうね?
 それはともかく、この世界のそうした構造が解きほぐされていくうちに、「本編」進行中では『源氏物語』の「いずれの御時にか…」の文章が記されているらしき幕(のちにツイッターで知りましたが、藤壺入内のくだりの文らしい)が現れる、ということが見えてきます。幕はときに女君たちを覆い、また床に敷かれて女君たちがそれを踏む。そのとき彼女たちは『源氏』の女君になっている…視覚的にもとてもわかりやすいです(小少将が弘徽殿になったときの声音の変化よ! 女優さんもみんないい声の、パワーと華と演技力のある方揃いでした)。彼女たちはこの幕が現れていない「行間」の間だけ本来の、現実の宮廷女房の姿でいられるのでした。
 そして源氏の「設定」が「何者でもない」男から大倶利伽羅へ、あるいは歌仙兼定へ移っていく、というのもおもしろかったです。てか幼女に「お兄様」と呼ばれるかいちゃんとか…! もとい、これはそもそも男士たちが、そもそもの刀ないしその持ち主が持つ逸話、「物語」を顕現した付喪神だから…というような理屈もあるのかもしれませんが、なんせこのあたりのそれこそ刀剣男士たちにまつわる設定は私にはよくわからなかったこともあり、のちの『刀剣』パートで語ることにします。
 お話がさらに進むと、男士たちは現実と反転した『源氏物語』の中にやってきたと思っていたのが、実は『源氏供養』の中だった、ということが明らかになっていき、実にこれがミソなのでした。さらに、「何者でもない」男が勝手『源氏供養』を始めて現実を反転させたために、それを正すためにやってきた男士たちが紫式部や小少将と出会うという、本来なかった現実、「歴史」が一瞬成立してしまったわけで、そのひずみによるものなのか、『源氏』の登場人物である女君たちが主人公の光源氏や作者である紫式部への不満を言い立て始める事態に展開していきます。
「行間」で弘徽殿や六条が小少将や彰子に戻るのはわかる、しかし弘徽殿や六条のみならず空蝉(井上怜愛)葵も(橘二葉)も、書かれた者が書かれたこと以外の言動をするはずは本来ないのです。小少将も紫式部も彰子も「本編」中では弘徽殿や藤壺や六条として動くことしかできないはずのに、「行間」で元の女房に戻ることなく、そのまま『源氏』の中でしなかったことをし始めます。光源氏への恨みつらみを語り出すのです。そんな場面は『源氏』の「物語」のどこにもなかったのに…それがすでに時空のゆがみ、世界のひずみなのでしょう。
 六条御息所(梅田彩佳)が源氏とのなれそめを描いてもらえていない、と怒るのはまだしも、末摘花(永田紗芽)が自分の扱いのひどさを糾弾するくだりはけっこう重いです。ところで彼女の赤い鼻は付け鼻で表現されていましたが、確かに原文にあるように象のようではありましたが、見ようによってはあれは立派に睾丸とペニスだったと思うんですけれど、それはわざとなんでしょうか私の目がアレなだけなんでしょうかそれともそもそもそういう意味がありそういう解釈が通例なんでしたっけ? ともあれ確かに紫式部は身分が低い女性や美人でないとされる女性にけっこうきつく、情け容赦ない描写をしていて、当時も読者の多くは女性だったろうし、物語が読むだけの力や余裕のある一定以上の身分の者が多かったろうとはいえみんながみんな美人であるはずもなく、読んでいてかなりざらりとさせられていたはずだと思います。もちろん紫式部も完璧な人間ではなく、女性にありがちなミソジニーがなんらか持っていた可能性はあると思います。作品内では確か前後していたかと思いますが、紫式部は『源氏』に関して心残りがあった、とされているのだけれど、私はそれはこのあたりの、物語のおもしろさのために登場人物を不当に扱いすぎたこと、筆が滑ったこのあたりのことを悔いている、ということなのかもしれないな、と思ったりもしました。きちんと言明されていなかったのが不満ですが、私は彼女は『源氏』を書いたこと自体は誇りに思いこそすれ、まったく後悔なんぞしていなかったはずだと考えているからです。
 さて、末摘花だけでなく、他の女君たちも、そもそも源氏が薄情でひどい男で、私たちは何故そんな男に振り回され捨てられ泣かされ不幸にならなければならなかったのだ、と作者をなじり、さらに刃を手にして光源氏に詰め寄り出します。気持ちはわかる、刺したれ刺したれ、と観ていて女君たちの反乱を小気味良く思う一方で、いやしかし若紫(山城沙羅、岡田六花のダブルキャスト)にやらせるのはさすがに良くないよ、子供に殺生はさせたらあかん、と思っていたら歌仙兼定が彼女をかばうようにしてズブリとやってくれたので、そこはよかったわけですが…
 この世界は、『源氏物語』の中かと思っていたら実は『源氏供養』が進行中だった、みたいな世界で、「何者でもない」男が、『源氏物語』が創作執筆された現実を反転させた世界だったわけです。反転して『源氏』の世界こそが現実だ、とすることで紫式部を供養している最中の世界、ということですね。だからこの男だけが、「本編」で光源氏の役をやっている間も、もともとの「何者でもない」男としての意識を保っていられたのでしょう。
 もちろん男は紫式部を地獄堕ちから救うためにこの供養をしているわけですが、実は紫式部をあるがままに見て受け入れることなく、自分の思う紫式部であってほしくてこの反転を犯したという、まさにトンデモ迷惑ファンだったのでした。だって紫式部は供養されたいなんて考えていないのですから。彼女が創作の罪で地獄に堕ちたとするのは後世の後付けなのですから。
 というわけで六振りは反転されたこの世界を正すために、「何者でもない」男と戦うわけですが、それは『源氏物語』があくまで自分の創作であるという矜持を持つ紫式部の、物語と反転した現実を正したいという願いを受けての、紫式部の代理としての戦いなのでした。彼女の、反転させられた世界を正すために「物語」を破綻させてくれ、という希望を汲んで男士たちは行動するわけです。そもそも彼らは時の政府の指令でここに出陣してきたのですが、ここでこの女性のために戦う騎士にもなるんですね。
 結局、「何者でもない」男ってちょっとイッちゃった粘着ファンで要するに単なる迷惑野郎で、不妄語戒を破ったがために死後に地獄に堕ちたとされる紫式部を救うために、『源氏物語』が創作ではなく現実であれば嘘をついたことにはならないでしょ、という理屈で『源氏』を現実化し「歴史」と「物語」を「反転」させたわけです。そういう「供養」でした。でも別に紫式部自身はそんなことは望んでいないわけです。というか彼女がのちに地獄に堕ちたというこの「紫式部堕地獄説話」がホントひどいシロモノで、ど直球の女性差別だと思います。女がこんな素晴らしい文学作品を書けるはずがない、はしたない、罪だ、きっと地獄に堕ちて罰せられる…という、アタマわいてんのかとしか言えない、しょーもない男どものしょーもない三段論法みたいな後付けで、私は今回初めてこうした能があることを知ったのですが、男どもはそうまでしないと女の創作に納得できなかったのか、と哀れにすらなりました。
 確かに紫式部は後年そんなには幸せには見えなかったかもしれない、少なくとも栄耀栄華に包まれて暮らしたとは言えない、しかしそれで彼女が不幸だったと決めつけたり、それは『源氏』を書いたせいだとかあるいは『源氏』の人気の恩恵をあまり受けていないからだなどと、傍から言うのは余計なお世話だしお門違いだし僭越なことです。その人の人生が幸せだったかどうか判断できるのは、その人自身しかいません。でも世間は、というか男は、何かを成し遂げた女にはその後不幸になってもらわないと帳尻が合わないと考える、実に愚かな生き物なのでした。だからこういう後付けがわく。「何者でもない」男も、よかれと思って、勝手に、当の本人が望んでもいないことをやる。しかもこういうことは同性相手には絶対にやらない、女にだけやる、女にならやってもいいと思っているのです。いかにも男がやりがちな、女にとってしごく迷惑なことで、ホント余計なお世話です。
 本当は、紫式部がこの男に「きみなんか知らない」と言ってやれば済む話なのでしょう。それで終わる茶番劇であるべきなのです、本当は(by『トーマの心臓』)。でも男は馬鹿だから、大好きな物語を書いた心酔する作者であっても、女の話なんか聞きゃしないのです。紫式部が自分は後悔なんかしていない、地獄にも堕ちない、供養なんかしてくれなくていい、物語をただ物語として愛してくれ、現実と反転なんかしてもらいたくない…と口を酸っぱくして言っても聞き入れられなかったことでしょう。だから六振りが実力行使に出るしかない、男と女の戦いが男と男士の戦いになる。
 この男は本当に紫式部のためにやっていたのでしょうかね、でもほとんど単なる自分勝手な思い込みで動いていただけで、要するに自分のためなんですよね…女がフツーに女として生き働き何かをなしとげそれをありのままに認められる世界、というか女がただ人として生き人として認められる世界って、多分2205年にも実現してねーんじゃねーのかなー、みたいな虚しさも感じます。実際の作中では紫式部はそこまで意志を言明していないのですが、それで男士たちが彼女の戦いを引き受けてしまうので、ここではよくあるいわゆる「女性の透明化」をちょっと感じさせられもします。なので、ちょっと、虚しい。まあでも、この作品についてはそこには目をつぶりましょうかね…
 さて、男は実は男士に斬られて死ぬことで源氏として死に、源氏として骨を残し、後の世で骨が発掘されて『源氏』が現実のものだったという証しになる…というようなことを望んでいたわけです。それを知った男士たちは男を殺すことを躊躇する、しかし歌仙兼定だけがある種の覚悟を持って男を斬る。こうしてこの男を殺しその骨が地中に埋もれたとして、千年後に必ず発掘されるとは限らないから。むしろ正しいもののみが発掘され「歴史」として認められるのだろうと彼は考え、その「正しさ」に賭けたのでしょう。男をせめて死なせてやったことは、彼なりの理屈、彼の「物語」を持つこの男への、あるいはその物語への同情やシンパシーもあったのかもしれません。だから男を地中に弔うことまではする。だが発掘され発見されることはないと信じている。だって男が現実としようとしたことはただの嘘だから。真実ではないから。正しい歴史ではないから。
 歌仙兼定は「歴史」と「物語」が混同されないこと、峻別され続けることに自信があったのでしょう。というか、世界がそういうものだと信じている。世界は紡がれてきた歴史によってあるものなので、その歴史が不当にも改変されたらそれは正すべきで、自分たちはその改変の戦いのために顕現させられた「刀剣男士」。あくまで物であり、付喪神であり、人ではなく、だが現実のもの、という矜持。だから、この男を斬って葬れた。この男はただ自分だけの物語を追った、ある種のいかさま師で、現実化しようとした彼の物語は単なるまやかしでしかないから後世にも決して認められるはずはないから、です。
 たかが男ひとりの骨が出ただけで何故それが光源氏の骨だということになるのだ、どんな鑑定すんねん、『源氏』が現実になったら実際の皇統と狂うだろう、とかいろいろつっこみはありますが、この骨が発掘されるというどこかの未来の「現実」ももちろんありえるのかもしれない。けれどそれは南泉がつい想像しちゃっただけのもの、夢告げの鳥がおぼろに語るだけのもの。平行世界の単なる可能性のひとつとしてならありうるかもしれないけれど、決して現実にならないはずの夢幻…
 トロイア遺跡が発掘されて、トロイアという都市やトロイア戦争という歴史が証明されても、アキレウスやオデュッセウスのモデルになった人間の実在が証明されたしたとしても、アポロンやアテナたち神々の存在は証明できないし、多分そういう意味での神様なんて現実にはいなかったよね、ということでしかないしょう。そしてそれとホメロスの偉業とは別問題です。彼の詩が創作として、芸術として素晴らしいことに変わりはありません。それでいうと光源氏にもモデルとなった人物はいたわけだけれど、それと紫式部の創作の遺業とは別問題です。
 何より、『源氏物語』は嘘だから、妄想だから、物語だから、創作だから価値があるわけです。しかも実在した、夫も子もいて、宮廷の女房としてもバリバリ働いたキャリアウーマンの女性が独力で、己の思想と欲望のままに書き上げた、世界最古の長編小説といわれる偉大なる物語。その価値を、たかが現実、歴史なんぞに反転されたくないのです。そんな男の歴史、なんぼのもんじゃい、なのです。
 光源氏に「刀の木偶人形」と呼ばれる刀剣男士たちは、男でないどころか人間ですらなく、確かに「物」なのであり、元主とその愛刀の「物語」がパワー、エネルギーとなって顕現、現実化した存在です。その「物語性」に絶大な自信を持っている。というかそこに寄って立つ存在です。だからこそ紫式部の物語を、つまり『源氏物語』を救えたのでしょう。
 物語は嘘で、創作で、絵空事で、妄言で、想像の産物で、現実でも歴史でもない。でもだから無価値だ、ということではなく、位相が違うだけで「本物」ではあるのです。何故なら強い物語には必ず人の心が寄せられるから。その想いが物語を別の意味での本物に、真実にする。事実や現実とは位相が違うだけで、等価値の「本物」、それが「物語」。千年を超えて読み継がれる『源氏物語』の強度と同じくらいの強さを、刀剣男士たちもまた持ちえるのだ…という高らかな宣言が朝焼けの空を眺めながらなされて、物語は終わります。その明るい光は客席をも照らし、『刀剣乱舞』を愛する観客の心も照らす。私たちが彼ら男士たちの物語を愛することを寿ぎ、担保してくれる幕切れ…実に鮮やかでした。

 しかしこの「何者でもない」男が女に反転せずちゃっかり光源氏になっているところがホントいけずうずうしくてホント何様、男さまって感じですよね。イヤ私はシスヘテロ女性であるし男はわりと好きなんですけど、それはそれとして男の愚かさをいくらでも罵倒できるのでした。男士が男でなくてよかったし、今回は中の人が宝塚歌劇の元男役だけど要するに現実の女性、というのもホントよかったよ…なので私はやはり本来の刀ステは楽しめないのかもしれません、わからんけど。好きな男しか好きじゃないから…でもうっかりゲームを触ったりして好きな男士ができたら、それに扮する男優さんも好きになって楽しいのかなあ、もちろん男優さんが出演する外部の舞台は私もフツーに楽しく観ているわけですが…でもこの舞台はやはり刀剣男士というキャラありきのものですものね、そこがちょっと違う気がします。
 プロローグとエンディングで歌われる歌は謡曲『源氏供養』の、最初と最後がやはり逆に置かれたものだそうです。なんでも誰かが知っていて解説してくれるツイッター、ホントすごいですね…


 さて、というわけでやっともう一方の『刀剣』パートについてです。刀剣男士について、『刀剣乱舞』について。でもなにぶんド素人が語る話で申し訳ございません。
 ところで男士たちの出陣は常に六振りで一チームなのでしょうか、人選は誰がしているのでしょうか。一応開演前にプログラムをざっと読み、男士たちのプロフィールというか来歴?には目を通して、そういう設定なのねとかそういう関係性なのね、というのはなんとなく把握していたのですが、今回のチームは前衛二振りと後詰め一文字一家(「一家」ってナニ?)四振り、に分けられる感じなんですよね? で、この四振りが、設定の年齢というか刀の創作年の古さの順と、今回演じる中の人のタカラジェンヌとしての学年順が逆転しているという、ここでも細かい仕掛けがされているのでした。す、すごい…
 ともあれ我が贔屓は五番目にクレジットされている人なので、初日開演前にお友達とバッタリしてどちらも席が下手だったんですけれど、六人口の五番手となると宝塚ではセンターから上手上位で配するので横一線に並んでもV字隊形になっても上手端がメインのポジションとなるだろう、なので私たちの席からは遠くなるが顔は中央つまり下手に向けて立つことが多くなるだろうからかえって観やすいのでは?…みたいな話をしたりしました。で、プロローグ、そのとおりだったので、暗い中になんか胡座かいて佇んでいるときからもうおもしろくなっちゃいました。ショーで探すときとか、いつもこんな感覚だったなあぁ…
 で、なんかおそらくゲーム開始時の定番台詞みたいなのから始まって、それぞれがプロフィールを語りポーズを決めるターンに入ったわけですが、正直この六人は現役時代に芝居が上手い芝居の人だと私が思ったことのない人揃いで(ホントすんません…)、舌もノメるし私が聞き慣れない単語ゆえか聞き取れない言葉も多く、初日はオイオイ大丈夫かいなとけっこうヒヤヒヤしました。ただカッコいいことはビンビンに伝わるので、まあもういいか、みたいな気持ちにすぐなりましたけどね。これはそういうキャラの型芝居なんですね、というのは十分わかったので、その心持ちで以後もついていけたのでした。
 ちなみに当初二回の観劇で終える予定がもう一回追加できたんですけれど、台詞の滑舌も芝居の緩急も会話の間合いも格段に良くなっていて、もちろん殺陣にも迫力が増していて、それは私の目や耳が慣れたせいとかではないと思えたので、やはり役者も舞台も必ず進化、深化するよなあぁ、と感心したのでした。公演期間が短くて残念です、贅沢な言い方かもしれませんが…
 あとは、お衣装の生地が妙にペカッとしていて、ぶっちゃけ安っぽく見えたのには驚いたのですが、これもおそらくわざとで、おそらくゲームのアニメ画面の質感に合わせているんですよね? プログラムのクレジットによれば宣伝用のお衣装(宣伝刀剣男士衣裳/恵藤高清)は別に作られているようで、確かに宣材写真のものは質感が全然違いました。これは写真で、そして紙に印刷して映えるもの。対して舞台衣装(刀剣男士衣裳・甲冑製作/はせがわ工房)はぐっとゲームに似せて、かつ動きやすく軽く作られていたりするのでしょう。
 あと、照明プラン(照明/加藤直子)も私が普段観るような舞台とは全然違っていて、おそらくセット(美術/秋山光洋)がほとんどなくて階段のついた盆くらいしか装置がないので、宝塚歌劇みたいに正面からバンとライトを当てちゃうと後ろに何もないのも丸見えになっちゃうから、サスや横からのピンスポットみたいなのを多用しているようでした。客席にとっては一部目つぶしになることもありますが、男士たちは顔を見せるよりシルエットとして浮かび上がらせられることが多く、それがよりゲームの男士の三次元化感を醸し出しているのだろうな、と感心しました。逆に言うと宝塚歌劇ってホント、スターの顔を客席に見せることに特化した照明になっていますよね、それに慣れると外部の舞台はいつもなんか薄暗いと感じるものです…
 まあそんな感じでそれぞれが口上?を述べて、本編スタート。その後も出てくる台詞や口調はみなゲーム準拠のものなのでしょう、と思わせられました。刀ステでは男優さんたちがゲームの声優さんの声にかなり寄せて台詞を言うらしく、なので今回はさすがに違和感を持った、という感想ツイートも見かけたりしました。女声だからというよりは、やはりもとのゲームの声に似せるには限界があるので、という意味のようでした。ただ私は六人とも、最も縁遠かったシュウシオツキですら現役時代の声の記憶がきちんとあり、みんな声だけで識別ができたので誰が話しているかも遠目にも十分わかって、混乱することもなく助かりました。そう、お芝居での声ってホント重要なんですよね…そしてそれでいうと女君たちもみんな声の感じが違う女優さんが揃えられていて、そしてみんな台詞が明晰で聞きやすく、力や艶のあるいい声をしていました。
 それから、刀ステでは殺陣が見どころのひとつだそうで、それは斬る方も斬られる方も女性となってスピードが落ち見応えは劣るだろう…と心配されていたそうなのですが、正直これまでの舞台を観たことがない者にとってはなんの問題もありませんでした。というか殺陣はすべて斬られてくれる方の上手さがすべてで、それがもう本当に素晴らしかったです。こちらは六振りひとりずつのソロターンでも、斬られる方は何度も斬られては引っ込みまた出て斬られて、を繰り返してくれて、獲物も槍だの薙刀だのまで取っ替え引っ替えだし階段も転げ落ちてみせるしうちの贔屓はリフトまでしてもらって、なんとまあ力強く鮮やかなことよ、と目が点になりました。アンサンブルさまさまですが、女性で殺陣ができてもよそではなかなか起用してもらうチャンスがないものだろうから、アンサンブルさんたちにとっても今回は良き企画でしたよねえ。ホント素晴らしかったです、どうぞ千秋楽までお怪我のありませんように。中では打ち身や青タンばっかりだったりするのかな…

 座長で主人公のかいちゃん、ホント素敵でした。文系の刀ってナニ?とか、私は細かいことがよくわかっていませんが、なんかそういうちょっとマイルドな、雅なキャラなのを絶妙に上手く演じていると思いました。前作で歌仙兼定と戦う側の立場だったの? なので殺陣とかポーズとかが既存の刀ステの歌仙兼定にひときわ上手く似せられているとも聞きました、ホントすごいことです。初日カテコのラストにひとりだけ舞台に再登場してきてお辞儀したの、ホント感動的でした。すごいよなあ…お稽古場とかでもきっと頼もしいリーダーだったことでしょう。パイオニアとして生きていくのは大変な面も多々あるでしょうが、好きなことを好きなようにやっているだけでもある。気負いすぎず悩みすぎず、でも我慢したり慮りすぎることなく、引き続きまっすぐ進み続けていってほしいな、とやや無責任ながらも祈っています。
 ダブルリーダーみたいなポジションだけど歌仙兼定に従わない孤高のキャラで…みたいななぎしょも絶妙だと思いました。中の人はわりと気のいい姉ちゃんみたいなキャラだと知っているだけに、でもこういうちょっと古風な硬派キャラがまた似合っちゃうんだよねーとニヤニヤしました。ここにも配役の妙を感じましたね。こーいうお衣装がまた似合うんだ!
 一文字一家の長老、ご隠居さん、爺、御前なあやなちゃんも、オスカルばりの見た目がまた、ゲーム再現率が素晴らしいんだと聞いています。口調も絶妙だとか。かいちゃんの元主がガラシャないしその夫でガラシャはかつて『綺伝』でかいちゃんが演じていて…ってのは仕込めるけど、あやなが沖田総司をやったのはなんせ現役時代だしさ、刀と配役とがどういう順で決まったのか知らないけれど、ホントここもエモいですよね…! てか一文字一家のあれやこれやを勉強したくなりましたが、それより怖くて震えたのが「顕現実験疑似本丸」なる不穏な用語がさらりとぶっ込まれたことでした。これってなんかすごいことを言ってるんじゃないんですか…? なのでこの一家は、通常の任務とは別の特命を帯びていて、リーダーのかーちゃんもそれは知らされていなかったってことなんですよね? 闇…!
 まおくんは、実は読めなくて、「やま、どり…げ? なワケないしな…」と放り出していたので音読みか!となりましたし(笑)、ツイッターでよく見かける「ちょもさん」ってコレか!となりました。生徒の愛称くらいわかりませんね!?(笑)それはともかく、あいかわらずの超絶スタイルと、ちょっとのんきなくらいのダンディさ、周りへの気遣いや優しさや当たりの柔らかさに、ヤダまたナニこのキャラ…!とハートがキュンキュン震えました。でも「お頭」なんですね、強い…! まおくんのニンにも合っていたのではないかしらん、ホント絶妙な配役しますよね。
 シュウシオツキ氏は、現役時代からするとこの中では最も番手とか路線とかとは離れたところにいた生徒さんで、卒業も早かったし、逆にその後の芸能活動が最も長く濃く多岐に渡っている女優さんとなっている人で、それをこの最年少キャラみたいなところに当てる絶妙さと、これまた絶妙な上手さでちゃんと笑いを取り猫もできるという活躍っぷりに舌を巻きました。あとお稽古場が隣ということで、あきちゃんにかまい面倒を見てくれてSNSにも頻繁に上げてくれていつもホントありがとうございました…予科本科でも組も違ったし、きっとすごい人見知りで扱いづらかったことでしょう、すみません、とここで勝手にファンが謝る(笑)。
 そして我らが贔屓よ…! おそらくかいちゃんが呼んでくれたんだと思いますが、一応それなりにちゃんと悩んで考えて、それでも出演を決めてくれたんだと思いますが、ホント出てくれてありがとう、と言いたいです。これをきっかけに自分が『刀剣乱舞』という世界の一部でも知ることができたのが楽しかったし、何より舞台に出てくれないと私たちは「スターとファン」という関係で存在できないので、久々に「澄輝さやとのファンの私」ができて楽しかったワケですよ…! イヤ趣味が刺繍のヨガインストラクターのことも好きだけど、間遠なインスタも愛しているけれど、でも友達じゃないからさ、友達みたいにはつきあえないじゃん? イヤ現役時代もファンに対して友達みたいなスターだったけどさ、でも違うじゃん? だから芸能活動大歓迎だし、いいものを見せてくれてホント安心しました。卒業後の芸能活動という点でいえば一番なんにもしていない人なので(プログラムのプロフィールの舞台歴の寂しさよ…!)ホント体力とか大丈夫? ヨガで鍛えているし太ったりしていないけど、舞台でまだしゃべれるか動けるかはまた別だろうしスタミナだって…とホントただただ心配していたモンペでしたが、あいかわらず美しく艶やかで、素晴らしい運動量をこなし、そしてちゃんと姫で鶴なカンジになれていたのではないでしょうか。ホント過保護で甘くて単なる贔屓目ならすみません…が、未だゲームにしか登場していなくて、先行して男性が演じた男士がいない唯一のキャラ、というのもホントよかったと思います。その男士に似ていない、寄せられていない、という形の非難は浴びることがないわけですからね。殺陣も最も踊りっぽい振りがつけられているようで、それはやはり役のキャラクターや特性によるものでしょうが本人の良さも生かせていて、止めて決めるポーズはさすが美しく、でもリフトなんかもしてもらっちゃったりなんかして、羽ばたきのSEも入れてもらっちゃって、なんかもうホント手厚くて嬉しかったです。ゲームではきっともっとホントまったりなしゃべりかたなんでしょうね。ロイヤルで、でもダウナーなギャル、でもキレると厳つい(笑)みたいな、中の人には全然ない要素を盛り込まれているお役をきっちりそう演じてみせていて、ホント素敵だったしおもしろすぎました。当人も、久々にやってみてやっぱりお芝居楽しいな、またやりたいなもっとやりたいな、と思ってくれていたら、ファンとしては本当に嬉しい限りです…
 そして最後にあきら、みんなが着た切り雀なのにバンバン着替えて(笑)、光源氏の色男っぷりクズっぷりから「何者でもない」男のおたおたファンっぷり暴走っぷりまで、大活躍で素晴らしかったです。現役時代に『源氏』に出ていたというのもありますが、歌い踊る女君たちに囲まれることがなんと似合うことよ…! ОGメンツでただ一人二番手スターまで務めたキャリアもあり、男士チームに入らずトメとしてこの役、というのも納得の、絶妙な配役だったと思います。イヤしかし乳母の設定を入れている状態だとしても「若紫、逃げてー!」ってなりましたよね…(^^;)
 思えば、男士たちは便宜上「男」士と呼ばれているだけであくまで付喪神であり物であり、人間ではなく男でもありません。今回、男役ОGたちの中で唯一なお男役をやっているのはあきらだけなのでした。その特別感もふさわしい、すごいものです。
「何者でもない」男は神話が歴史になることもあるんだから物語が反転して歴史になってもいい、と言いました。日本の歴史に喧嘩を売るいい台詞です。でもやはりそれは歴史の捏造だと思う。物語は歴史に成り代わらなくても意味がある、物語であるだけで価値がある、むしろ物語だからこそ意義があるはずなのです。
 私は宝塚歌劇の男役ОGが卒業後もなお男役みたいなことをすることにわりと否定的でしたが、かいちゃんやみやちゃんみたいな活躍を見るとその料簡は狭いな、と気づかされました。宝塚歌劇の男役も(娘役も)また虚構のシステムで、彼女たち自身はもちろん実在する女性ですが彼女たちが表現しているものはある種の幻、噓、作り物です。物語と同じ絵空事です。でもだからこそ価値がある。男役の卒業後の新たな地平を先頭切って切り開いてきたかいちゃんが(過去に卒業後に男役をやったОGがいくらでもいることは知っていますが、それとは別レベルで)演じる歌仙兼定が、罪と言われようと地獄に落ちると言われようと供養しなきゃと言われようと知るか、と言ってくれる。イヤそんな台詞はないけど、物語だからこそいいのだ、愛し心を寄せてくれる人たちがいるから「本物」なのだ、と言ってくれる。男役出身者たちが扮する刀剣男士から発せられた言葉だからこそ、より重く響いたのかもしれません。
 また、シュウちゃんあっきーまおくんのインタビューにありましたが、これまでの刀ステは舞台経験の浅い男優が演じることによるフレッシュさ、キラキラさ、ギラギラさが魅力のひとつで、対してОGたちは立派な舞台経験を持つ女性たちでした。ここにもひとつそんな「反転」があったわけです。でもそれもまた本当に生きていたと思います。双方観る、そして何を見てもなんのファンにもならないという(笑)私の後輩は、刀ステでは今回が一番芝居、演技が上手かった、と言っていました。まあそれは宝塚ファンである私への配慮もあるかもしれませんが、殺陣はともかく演技の技術という点ではそういう良さもあるのかな、そういう「反転」もまたおもしろかった『禺伝』なのかな、とも思いました。


 ところでちょっとくわしいお友達に解説してもらって初めて知ったのですが、ゲームはただ主となって刀を、というか男士を育て集め戦わせるだけの、わりとのんきなものなんだって本当ですか? つまり、歴史を改変する「時間遡行軍」なるものと戦い歴史を正す使命を負った男士たち…というのは刀ステでの世界観なんですって? そ、そんな…末満さんてば、なんてひどい…イヤお見それしました、そのドラマチックさが刀ステの人気の秘密なのでしょうね。
 実はプログラムのあらすじにあった「励起する」みたいなのがよくわからないというか上手くイメージできなくて、あと「本丸」ってのも、何?なのです。ゲームから二次展開するいろいろなもの、ひとつひとつのこと? それともこの六振りワンセットで出陣するチームのこと? 本丸ってお城の、二の丸とか三の丸に対してのアレ、ですよね? なんかわかるようなわからないような、でおもしろい用語をおもしろく使いますよねえ…
 光源氏に「刀の木偶人形」と言われるとおり、確かに刀剣男士たちは、単なる刀の擬人化ではなく、刀とその持ち主、主が持つ逸話、物語がパワーとかエネルギーになって具現化した存在…なのかな? 彼ら自身は自分たちはあくまでも物だ、無機物だ、みたいな自覚というか意識があるのかもしれませんが、動物や有機体、生命体ではなくむしろ波動とかエネルギー、ポテンシャルみたいなものなのかしらん…私はまず最初に「刀なのに刀持つんかい」とか思ったものですが、この刀もまたそういう像で見えているだけで、実際の刀剣というわけではないのかな…?
 そして彼らは時間遡行軍と戦い改変された歴史を正すという使命を負わされた、武器であり兵器なのですね。そして「審神者」なる者たちだけが、刀を励起し刀から彼ら男士を「顕現」させられる。審神者とは、人間のうちの、何かそういう特殊能力を持った一部の人、なのでしょうか? てかこれを「さにわ」と呼ぶのはどこから来ているの…? てかさにわってナニ??
「物語を付与する」ってのも、具体的にどういうことをいうのでしょうか。それで男士のパワーがアップするとか、そういうこと?
 あと、人間も現実にいて、刀剣も現実にあって、でもその現実が、過去が改変されて変わってしまったら困る、だから改変を正す…というのはわかるんですが、タイムパラドックスの部分についてはどうなっているんでしょう?
 たとえば今回も、「何者でもない」男が改変した歴史が正され、もとどおりに『源氏物語』は紫式部が創作した物語、ということにおちついたら、やがて紫式部も小少将の君も、この六振りと出会いともに戦ったことは忘れてしまう、ということなのでしょうか。絡まった結び目が、解かれたら消えてしまうように…それはちょっと、寂しいことに感じられますね。
 でも、男士たちは覚えている、そういう戦いがあったことを、そのとき関わった人々のことを。私たち観客もまた覚えている、それを観せてもらっていたから。だから、それでいいのだ…そういうことなのでしょうか? 物に、物語に心を寄せるとはそういうことだ、というのが筆の結論でもあるような作品でした。
「物が語る、だから物語というのだ」というようなことを歌仙兼定は言いました。物上等、と。刀剣男士とは主と刀の物語が顕現したもの、のようですが、しかしその「顕現実験」ってのはなんなんでしょうね? 偽りの物語を付与して男士のパワーアップはありえるか計る、ということのようでしたが…どうやらそれはそうはうまくいかないということになったようで、それでも彼らは十分に強かったからよかったものの、もしより悪い方に失敗していたら折れてしまい壊れてしまって、消失してしまっていたかもしれないということでしょうか? というか彼ら男士は任務のために毎回顕現させられ、そして任務が終われば片付けられてしまうものなの? 彼らには任務中の記憶しかないの? 電源を入れられている間だけ動いて、あとは止まっていて死んでいるも同然の機械のような物なの? 彼ら男士を使役し時間遡行軍と戦わせている「時の政府」のお偉いさんである人間、っていったい何者なの…?
 このあたりがきっと、刀ステの作品が積み重なっていくたびにじりじりと掘られ、進む、大きな「物語」になっているのでしょうね。男士たちや彼らに扮する男優さんたちの魅力はもちろん、その世界観、「物語」が愛されているのが『舞台 刀剣乱舞』なのかもな、と思うなど、しました。
 本当におもしろい観劇をさせていただきました。ご縁があってよかったです。


 最後に以下、いくつかだけ、気になったことを。
 六条御息所が「妾」呼ばわりされてのにはけっこう驚きました。かーちゃんくらいの時代からしたら当然の感覚ってことかしらん? 一般的には愛人、とか…? なんかとにかくこれはきつい言葉に聞こえて、ちょっとこの世界観にそぐわない気もしました。
 それから「尼君」は「あまぎみ」じゃないのかなあ? 姫君はひめぎみ、と発音されていたでしょう、同じく濁るのでは? 「あまきみ」と発音されていたのでオヤ、と思いました。ただし私は耳年増ならぬ目年増で、目で覚えた単語に勝手な読み仮名を振っていたり勝手なイントネーションやアクセントを置いて覚えていて、のちに正しい読み方や音を知って驚く、ということがまあまあある人間なので、ちょっとアテにできません。
 あとは「逢瀬を交わす」も、よくある慣用表現では「逢瀬を重ねる」と「枕を交わす」じゃないかなあ、とちょっと引っかかりました。


 大楽は花組東京公演が友会で当たったので、あとでディレイ配信を見るつもりです。それでまた追記したりするかもしれません。てか東京楽は私は月組大劇場公演マイ初日からの博多座スーパー歌舞伎というハシゴ遠征をしていたんですけど、まさか夏の新作歌舞伎『刀剣乱舞』を観るべきなのかしら…とか思ったりしていて(笑)。イヤでも型芝居とか殺陣とか見得とか、このスーパー歌舞伎観劇で改めて『禺伝』の解像度が上がったんですよね、やはりいろいろ観ると勉強になるものです。しかしなんとも消化しきれず、毎度長いばかりでやや散漫な感想記になりました…失礼いたしました、おつきあいいただけたなら嬉しいです。
 2万字もあってすんません……


※追記
 1.演目発表時、というか主な配役発表時にこんな日記も書いていたのでリンクしておきます。
 2.そんなにゲームをやりこんでいたとは知らなかったよ…てかホンと仲良くしてくださってありがとうシュウちゃん、なインタビューはこちら
 3.大楽ディレイ配信と特典のナウオン…違った(笑)アフタヌーンティー映像も見ました。ホントゆるいしみんなただの綺麗なお姉さんで、知らない人にはホント誰がドレだろうな、とちょっとおもしろかったです。てかここでもグミしか話題がないの、大丈夫なのあきちゃん…(^^;)
 大阪公演初日にお友達からのレポで台詞が変わったり足されたりしていた、というのは聞いていたのですが、とりあえず私がここに書いた「妾」は変更になっていたので(早くからの愛人、だったか恋人、だったか…な表現になっていたような)それはホントよかったなと思いました。あとは、男士たちに実験的に付与された「物語」がそもそも誰の、ないしどこから由来のものなのかがよりわかるような、つまりゲームないしこれまでの刀ステで既出の台詞が足されていたそうです。なるほどね。
 私は最後の方に歌仙兼定が言う「光源氏も紫式部も現実の人間ではなかった(物語の中の人だった、だったかな? やはり「ル・サンク」プリーズ…)」みたいな台詞に、イヤ紫式部は実在した人物だよ女性作家だよそういう透明化ホントやめて?と引っかかりつつその後流されて忘れていたことに配信を見て改めて気づかされたのですが、それは男士たちが出会った「この」紫式部は、ということだったんですね。そう、これは、『源氏物語』が「現実」と反転した世界に出陣してきた、と思ったら実は「何者でもない」男が勝手『源氏供養』を進行していたという世界だったよ、というお話だったのでした。だから藤壺や空蝉や末摘花ら『源氏』の女君たちはもちろん、紫式部も小少将の君も中宮彰子も「現実」のものではないわけです。「本編」しかなくて「行間」なんかないのが当然なのです。
 そして確かに、実在した紫式部たちは男士たちに会ったことはなく、そんな「過去」「現実」「歴史」はないので、これまたある意味で当然です。男士たちが対峙し戦ったのはあくまであきら演じる「何者でもない」男、だけだったのでした。
 これはオールフィメールの舞台でしたが、男士とこの男の七人は宝塚OG、しかも全員元男役がやっている、その意味を改めて突きつけられた思いがしました。この階層が必要だったから、女君たちは元娘役がやるんじゃ駄目だったんだと思うんですよね。それじゃほんと単なるOG公演になっちゃうから、というのもあるけど、純然たる(?)女優さんと元男役で今は女優ないし俳優、声優、タレント、ヨガインストラクター…(^^;)な差が欲しかったのではないかしらん。まあもちろん、娘役も元娘役現女優も、純然たる女優さんとはちょっと違う位相の存在なのかなとは思うのですが…
 そしてOGの心配ばかりしていましたが、実は女優さんたちだって刀ステに出演することに臆したりハードル感じたり、ってのはあったはずなんですよね。だってかいちゃんとイチロさんがやるまでは女性は誰もその板に乗ってこなかったわけですから。でも企画意図と、出演依頼に意義を感じ意気に感じて、出演し、きっちりやりきり、そしてしっかり楽しんでいったのでしょう。ホントよかったです。スタッフさん側にも女性が増えているといいなあ、ホントの裏方さん含めて今や女性の手なしで回る業界なんてほぼ皆無かと思いますが、どうしても日がなかなか当たらないので…
 さて、「現実」の紫式部は男士たちに会っていない、というレベルで言うならあきらの演じたこの「何者でもない」男もまた「現実」には存在しなかった人間なのでしょうが、熱心すぎる、暴走してしまった粘着ファンという意味ではいかにもいそうな、というかいなかったことが証明できないくらいには絶対にいたに違いない存在だよな、というのがまた深いですよね。そう、いなかったことの証明は不可能なので、彼の虚実のあわいの居方の特殊さはなかなか感慨深いです。これは紫式部の「もうひとりの私」、なりたかった自分、男であればこうもいたかった自分、なのではなかろうか…というようなことを考察するツイートも見た気がします。ううむ、深い。何より、凸しちゃったのはアレだけどファンはファンなわけで、我々はその意味で彼を否定できないわけです。我々も確実に『刀剣乱舞』の、あるいは舞台の、フィクションの、物語のファンだからです。
 そんなわけでこの男はお召し替えまでして、超能力ではなく「意外と全然物理」(笑)で戦いかつ強いという困ったラスボスとなるわけですが、この男の「光源氏として死んで骨を残すことで『源氏物語』が現実だったことにさせたい」という望みを一見叶えてやるようでいて、その上をいくことを信じて彼を斬り捨てる歌仙兼定の姿に私はやはりシビれたのでした。
 彼は自分たちが刀とその持ち主の情愛や愛着、逸話などの「物語」が顕現した「刀剣男士」であること、改変された歴史を正す任務を負っていることに明確な自覚と誇りを持っている。物上等、物語上等、そこにプライドを賭けている。そらそうだ、そこに拠って立っている存在だからです。
 だからこそ、「物語」と「現実」は別物であり、価値や意義の上下があるものではなく単に位相が違うもの、反転したり入れ替わったりしないもの、混同されたりしないもの、だと信じている。というかそうでないと困る、そこに全存在を賭けているわけです。
 だから男を斬る。骨にする。だがその骨が発見されることはない、発見されても光源氏の骨と同定されることはないと信じている。現れる発掘隊の様子はあくまで幻なのです。可能性としてはなくはないが、絶対にないものと信じている、うたかたの夢。
 彼は現実と物語の峻別を肯定し、その上で物であり続け、物語をまっとうしようとしている。その姿の凜々しさ、潔さにシビれました。それこそが物語を愛する者に求められるべき姿勢でしょう。
 彼はまた、自分自身がそういう「物」だから、と言う一方で、物には必ず寄せられる誰かの心が、人の想いがあるから、と周りにも思いを広げてくれ、我々をも包み込み拾い上げてくれる。そして、刀剣男士たちの物語も本物なら千年愛され続けるだろう、と言うのです。なんと不遜な、だが誇り高き宣言でしょう…!
 欧米にも物を愛し擬人化したりの文化はあるけれど、日本ではことにその面が重く深く、それこそ何にでも付喪神が宿るのを見るので、国宝展だの博物館だのへの人出も実際に増えているわけですし、ひとつのゲームが7年かけてここまで世界と愛好人口を広げてきたわけで、それはここから千年続いても確かにおかしくないわけです。今生きる誰も、千年後の世界を見て確かめることはできませんしね…(まあ人類があと千年も保つかなあ、というのは別にして)
 なので確かめられないけれど、信じ、望み、願うことはできる。強き物語にはそんな力がある、と思える、そんなクリエイター万歳オタク万歳、なメッセージを持つ作品だったのかな、などと思いました。本当におもしろい、良き作品でした。出会えてよかったし、贔屓きっかけじゃないと知らないままに過ごしていただろうし、本当に感謝です。
 あとは、なので肝心の『刀剣乱舞』ないし他の刀ステ作品にはまだ手を伸ばせていない状態ですしなんならここ止まりかなと思わなくもないのですが、それはそれとしてやはり「顕現実験疑似本丸」なるパワーワードの不穏さにはちょっと、いやかなり興味があるので次作以降進展があったらちょっと教えていただけると嬉しいです(他力本願…)。イヤあのツートップが偽りの物語の付与を知らずに出陣していて一文字一家が観察/監察してるっての、かなり怖いでしょう。彼ら自身も知っているってだけでやはり物語の付与はされていて、自らの身体というのか存在というのか、を賭けて実験に参加しているわけでなおヤバい。強化されるとか劣化するとかのレベルならまだよくて、最悪折れるとか消滅するとかもあるかもしれないのに。そしてどうやらどの本丸(つまりその都度の出陣のことをこう呼ぶのかな? ここ、よくわかっていなくてすみません)でも裏でこうした実験を走らせてたんじゃね? そういう「疑似」じゃね? そしてそれはすべて表に出てこなかっただけのやはりオールフィメールの舞台世界だったんじゃね? みたいな…わあぁ怖! 時の政府、鬼! やはり最も恐ろしいものこそ人よのおぉ…
 なので、刀ステのファンってホント大変そう、とか勝手にちょっと同情したりもしたのでした。お疲れ様です…






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