先週の土曜日深夜、ツイッターでエア第8話実況を追う形で無事に「『おっさんずラブ』のない土曜日」を乗り越えました。
…なんて、実は私がリアタイ視聴したのは最終回の第7話だけだったので、ちょっと盛った表現ではありますが、まあこのところ本当に楽しかったのは事実なので、ついでにちょっといろいろ書いておきたいと思います。てかいつにも増して丸カッコで話題がズレまくる文章多めで、ホントすんません…
東大が女性の顔の魅力をAIで研究するとかなんとかいった「ねえ、馬鹿なの?」としか言いようがないニュースが最近ありましたが、もちろん男性の顔にも美醜(とあえて表現します。つーかこの研究者たちの容貌は醜悪に違いありません、顔にはその人の知性や教養や人柄が表れるものですからね!)はあるワケで、それで言うと私は自身の容貌に特別な自信がないせいで、やたらな二枚目とかハンサム(古い表現だな)、ザッツ・美形みたいな男性のことは敬して遠ざけるみたいなところがあるというか、恋愛対象的に向こうもそうだろうからまずこっちからアウト・オブ・眼中ぶるというか、な卑屈なところがあります。要するに面食いではまったくないのです。
リアルでも、いわゆるタレントさんとか芸能人の好みについても同じで、イケメン枠に対してはむしろ引きます。私はスルーするのでどうぞよそで、という、まあ過剰な自意識の裏返しなんだと思ってはいるのですけれどね。
ちなみに美人、美女は大好きですし、それを男女差別と言われようが男女は非対称なんだから仕方ないじゃんとしか私は言いようがありません。というかあくまで個人の感覚です。だが東大の研究は個人の問題ではないのだから、当然問題があるのです。ホント、馬鹿なのかな?
前置きが長くなりましたが、そんなわけで田中圭はもともと大好きな俳優さんです。失礼ながらイケメン枠でないところがいい、と私はかねてより思っていたのです。もちろん上手い、いい役者さんですしね。私は音楽に疎いので星野源はドラマ『逃げ恥』まで知りませんでしたが、この人も同じ感覚で好感を持ちましたし、そのちょっと前に世間的にはブレイクした(あえていやらしい言い方をしています。テレビがすべてじゃないんだよ役者なめんなよな今さらブレイクとか言うな)高橋一生も同じ枠だと捉えています。万人が認めるバリバリの整ったギリシア彫刻的美形、とかではなく、ちょっと外してたり残念だったり、それでかえって愛嬌やある種の色気があるようなタイプの顔、とでも言いましょうか…まあ要するに好みだってだけの話だろ、と言われてしまえばまったくそのとおりなのですが。
というわけでさらに前置きが長くなっていますが、私にとって田中圭は好きな俳優さんで、でもだから恋愛もののテレビドラマとかで主役を張るとかヒロインの相手役を演じるタイプではなくて、いい人だけどフラれる役とかヒロインの夫役なんだけど浮気される役とか主役ヒーローの親友役とかが似合う、でもそこがいい、とてもとても素敵な役者さん、というイメージだったのでした。
『おっさんずラブ』に関して、そんな彼の初主演ドラマで、以前単発ドラマもあってちょっと話題になってそこからの派生企画で、ヒロインは何故か吉田鋼太郎なのである…という知識は何故かどこからか得ていて、私は仕事柄、連ドラの第1話はひととおり見ておくようにしていることもあって、見る気ではいたのですがわりと直前まで録画の手配を忘れていて、確かほとんど当日に2016年版を見ていたお友達からオススメLINEをもらって慌てて録画予約した…ような記憶があります。
土曜深夜の放送でもあり、録画して数日後に暇ができたときにテキトーに再生したんだと思います。当初は、
「なんだなんだなんなんだコレは」
みたいな感想だったかと思います(笑)。
ヒロイン設定(?)は聞いていたしタイトルがタイトルなんだからいわゆる男性同性愛がモチーフのドラマ…なんだろうとまでは漠然と考えていたのですが、えっ? ライバルもいるの? それが林遣都なの? LGBTドラマ? てかBLってことなのむしろ? てかモテすぎだろうはるたん? でも古のトレンディドラマとか恋愛もののドラマとか、少女漫画、ラブコメなら定番のシチュエーション、演出のオンパレードな気も…わざと? てかパロディ? えええぇ? みたいな。正直、見方がよくわからないというか、笑っていいんだろうかときめいていいんだろうかととまどったというか、でした。
同性愛を笑いものにしているとか馬鹿にしている…という感じは受けなかったけれど、あまりにもナチュラルに進行しすぎている部分もあるようで、それはそれでざらりとした気になりもしたし、でもきゅんとするような萌えるような気もしたんだけどそれでいいんかいなと困惑する、というか。まさにはるたんの気持ち?
ちなみに「はるたん」というのは部長が春田を呼ぶときの愛称(?)なんだから部長派なのでない限り主人公のことは「春田」と呼ぶべきである、という考え方もあるでしょうが(普段なら私は多分こういう筋の通し方をしそうです)、今回に限り可愛いから、かつこの呼称が春田のキャラクターにとても合っている気がするから、ここでは「はるたん」呼びでいきます。
一般的な、というか多数派的な、スタンダードなまっとうな意見をいつも言うことで私が厚い信頼を寄せているお友達が
「部長の行動はただのパワハラに見える気もする」
と言っていたのも当時とても印象に残っていて、そうだよな、微妙っつーかグレーつっかほぼアウト? とも思いました。
でも「ハラスメントとは相手が嫌がればハラスメントなんだ」みたいな言い方が私には引っかかっていて、相手がどう思うかとかより本来は単にその人が相手の人権を尊重できるかという問題なのであって、でも愛情云々ってそういうものとはそもそもちょっと噛み合わない、なじみにくいものだから、だから部長のこの言動はハラスメントとかとはまたちょっと違うような…という困惑も感じました。
でも愛があればなんでも許されるってもんでもないし、でも愛は地球を救うとか言ってのけちゃうのが恋愛ものの神髄なんだし、はてこのドラマはどこを目指しているんだろう…?と困惑しつつも毎週録画をセットしたまま、ダラダラ追っかけていったのでした。
つまらないとなれば1話で見るのをやめて脱落するのが常の私としては、まあ、何かを感じたのでしょうね。あと、やっぱり田中圭が好きだった(笑)。これはこののちのことを考えるに、私にとっては大きなことだったのでした。
ちなみにHDDレコーダーの容量を空けるために私は見たらすぐ録画を消すタイプなので、のちに1話から5話をGYAOで買って見直すハメになりました。そのあたりまではまだこの萌えについて半信半疑だったんや…(笑)
以後もよくわからないながらも、歯を食いしばってニヤけに耐えたり吹いたり笑ったりうっかり泣いたり、再生を一時停止したりはたまた巻き戻したりしながら毎回楽しく見てしまい(そして録画を端から消していきました。のちに激しく悔やむハメになる…)、5話放送後には職場の後輩も見ていることがわかって話が盛り上がったりと、さらに楽しく過ごしてきました。で、6話のヒキからの最終回第7話までの辛抱たまらん一週間…となったワケですが、この後輩もでしたがツイッターなどでも牧春エンドを望む声が大きくて、でもホントにそこに落とすかな?と私はこれまたけっこう半信半疑だったので、このときはそんな彼我の違いもおもしろく感じたのでした。
キャラクターとしては牧みたいなのって大好物なはずだと自分でも思うんですけれど、私は林遣都には今ひとつそこまで興味が持てなくて(でもこれがまたどこからどう見ても120パーセント美少年!みたいな役者がやるんじゃなくて本当によかったとは思っています。てか林遣都、上手いよね! 知ってたけど!!)、というか私はあくまで、あまりにも田中圭が好きで、結果的に私には珍しく主人公のはるたんを好きになり(主人公に対してはキャラクターとしては私はわりとどうでもいいというか、みんなが好きなんだろうから私は他のキャラクターに行くね、とスルーすることが多いので、これは私には本当に珍しいことなんですよ!)、だからこそ彼の幸せだけを祈り、はたして彼にとっての幸せって、ハッピーエンドってなんだろう?と私は考えちゃったんですよね。好きな人の幸せだけを考える…牧か!(と武川さんにつっこんでほしい…てか眞島秀和もめっちゃ上手い…てか役者がみんなよかったのがこのドラマの勝因だよホント…)
私ははるたんの本当にザッツ・男子なところを愛していて、そこがいいキャラクターなんだと思っているし(腐女子だろうとユリ好きだろうと所詮は単なるヘテロかよ自分ケッ!とか思いましたよね…)、だからやっぱりここまで、なんのかんの言っても彼はただ流されているだけで、単に優しかったり優柔不断だったり決めなかったり断らなかったりしているだけなのであり、タイミングさえ合えばちずエンドなのが一番自然で単純だったんじゃないのかなとか、でもそれもちずちゃんに対して失礼だしな(ちずや蝶子さん、まいまいなど、女性キャラクターとその俳優もまた素晴らしかったことももちろんこのドラマの勝因ですよね!)とか思うと、誰とくっつくのがゴールと言えるほど彼は未だ真剣には誰とも恋をしていないようにも見えて、みんなから逃げ出して明日はどっちだ!?みたいになるオープンエンド(用語としては正確ではないか…)にするのかな?とか私は考えていたのでした。
が、あのラストでしたし、そもそも2016年版をきちんとなぞっていてあちらもそういうオチだったそうですし、一昨日の土曜に私は改めて1話から見直すひとり『おさラブ』祭りをしていたんですけれど、ちゃんと見れば(細かいところとかをわりとけっこう忘れていたので)やはり全体にちゃんとそういうふうにオチるよう最初からできていましたね。というかもちろん納得していますし萌えましたし最終ターンをもう何十回再生したかわかりません!(笑)いいラストでした、春牧なのもよかった!!(大笑)
というか映像として本当によくできていたなあ…あのCM明けの道路のシーンも、車が横切って画面が途切れるとカメラが向かいに切り替わっているのとか、もしかしたら映像のプロにはごく定番の演出や編集なのかもしけないけれど、本当にシビれました。実際にはあの道路を渡るのに、次の信号までが「ちょっと待ってて」の距離なんかじゃ全然ナイ、というのも実にイイよね!(笑)
というかやっぱりその前、「誓いのキスを」と言われて固まるはるたん、というのがもう、すべての伏線を回収する勢いで、見ていてテレビの前でマジで奮えましたよね私。
部長はヒロインでオトメだから同棲しててもプラトニックで結婚式までは清いカラダで、ってのもあったんだろうけれど、そこはやっぱり無理強いしない大人であるとかふたりの完全な合意の上でないとしないできないとかはるたんの「そこまでウェルカムじゃない気持ち」を感じ取ってはいたんだろうでも好きで外堀埋めちゃいたかったんだろう最後の最後まで夢見たかったんだろう、とかいろいろ思うと本当にせつなくて悲しくて愛しいです。
そしてそもそもこれら部長の迫りをパワハラだと言うなら牧の無理チューだってほとんどレイプも同然なんだけれど、そういう意見はほぼ見なかったのはやはりそこには残念ながらある種のバイアスがあるということで(ぶっちゃけおじさんはNGで若いイケメンならいいのか問題、ってことです。てかタイトルが年齢差別に対して挑戦的なものになっているのも、このドラマの特異でおもしろい点ですよね。対照として逆バージョンが話題になったときに『おばさんずラブ』ではなく『おねえさんずラブ』とされた問題もある…これについてはまた別の機会に)、それは作中でもある程度反映されていて、はるたんはどちらに対しても同じように困惑していて、かといって完全に嫌悪していたわけでもなかったのだけれど、ではどちらをより受け入れてしまっていたかと言えばやはり牧だったワケですね。ふたりに対してはるたんは一度は正式にきちんとお断りしていて、その上で牧に対しては再度正式におつきあいを了承した、という流れもありますしね。おでこチューを別にしたら、二度目のキスに関しては「いいですよ、別に」と了承(笑)してもいるワケですしね。
これら既成事実の前に、やはり部長は引くしかなかった、敗れるしかなかったのでした。
牧なら受け入れられる、牧にならされてもいい、牧とならできる気がする、でも部長とはできない…その認識が、主人公をライバルの元へと走らせたのでした。ヒロイン設定のキャラがライバルに負けるという、かなり珍しいパターンです。
からの、ラストシーンですよ。
ずっとずっとずっと、するのはいつでも牧の方から、だけ、だったのに。なのに、やっと、最後に。
そして、その瞬間は見せない。
憎い!
上手すぎる!!
「んなわけねーだろっつーの」
こっちの台詞だよ!!!(笑)
しかし私がここに最大に滾ったのは、ふたりがやっと同等になったから、ということもあるかもしれないけれど、やはり春牧になったこと、もっと言えばはるたんが攻め、男に、雄になったこと、が個人的には嬉しかったんだろうなあ、と思うと、それはそれでなかなかいろいろ考えさせられたのでした。
てかBLの隆盛って、男女の恋愛とか性愛における力関係の不平等さとか非対称性に対する鬱屈からの逃避って部分がかなりあるんじゃないかと私は考えていて(実はバブル期に女性が元気になりかけたときにはむしろ、もはや男女は対等になってしまってドラマを盛り上げる「障害」は消え、たとえば身分違いみたいな歴史的な障害ももう消えてなくなってしまったので、あとはもう同性同士という障害に物語は頼るしかない、だからやおい…みたいな空気も確かにあったと思うんですけれど…むしろしぼんだよねその後の社会が。全然対等じゃないよね男女、とますます露呈する現代ってなんなんだホント後退してるじゃんか…)、だからこそせっかく同性で同等なんだからリバじゃないと意味ないじゃん、とか私は思うのですが、どうも界隈ではそうではないようですよね…
あ、あくまでBLの話です。実際の男性同性愛のことは当事者ではないのでわかりません。本物のゲイはこんなじゃないよと言われたら、どんなドラマも漫画も本物の男女はこんなじゃないし恋愛もセックスもこんなじゃないよね、としか言えません。現実とフィクションは違うし、でもフィクションにしか描けないものがあるんです。そこにしか現れえないドリームやファンタジーなるものが存在するのです。そこを踏まえての話です。
で、一般的に、
男/年上/支配/S/強い/能動的/攻める/挿入する/愛する/導く
女/年下/服従/M/弱い/受動的/守る/挿入される/愛される/導かれる
みたいな対比の構造が歴史的に社会的に、なんか知らないけど物語でも定番として、あるわけじゃないですか残念ながら。それが苦しくて、そこから逃げたくて、だからBLなんじゃないですか(ごく最近のことは正直言ってわかりませんが、少なくともやおい黎明期のころにはこういう傾向が確かにあったと体感として私は思います)。
男同士なら、対等で同等で平等だから。
そしてだからこそ、年下攻めもまた支持されるんだと思うんですよね。年長の方が攻め手、という定番もまたこれにより覆されるからです。私たちの反逆精神を見事に反映しているわけですよ。
だから牧は、まあ公式のキャラクター設定が「ドS」だったこともありますが、33歳のはるたんに対して25歳と年少でもあり、だからこその年下攻め支持、牧春派が多数派、ってことだったと思うんですよね。はるたんが基本的に流されキャラ押し切られキャラなので、結果的にアレコレ(笑)受け入れる側に回りそうじゃない?と見える、というのもある。
でも私は、さんざん語ってきましたが、腐目線で見るとか牧に萌えて見るとかよりは本当に単純にはるたんが好きでこのドラマを見ていたので、まあ普通だったらヒロインに感情移入してヒロインになりきって見て主人公が彼女と結ばれることで達成感を得るとかいう流れだったんだろうけれど何しろこのドラマのヒロインは部長なので(笑)、とにかくはるたんが幸せであればいいと思っていたし、だから相手が誰であれ、という言い方はアレなんだけれど、とにかくラストに男っぽいカッコいいはるたんが見られたことが満足だったわけです。牧を押しのけてからの、あの視線を一瞬外しつつもスイッチ切り替える感じね! その前の、牧の巨根(とあえて明言しますが)に動揺する表情との落差がまたたまりませんよね!!はー、イイ!!!(笑)
もちろんはるたんから牧にキスしたからと言って即春牧だってことにはならないんでしょうが、そんな厳密なこと言ってたら、たとえばこの一か月ではこのふたりはまだどうもなっていないやろとしか思えないし、挿入に至るなんて精神的にも技術的(?)にもハードル高くてそんな簡単にいくワケないやろ、としか言えません。
イヤ知らんけど。私は男性ではないのでね。
でも少なくとも、挿入イコールセックスでないこと、セックスイコール挿入でないことは知っています。ペニスの握り合いっこなら自慰の延長で簡単にできそうな気もするので(くりかえしますが私は男性ではないので本当のところはわかりません)、そういう「セックス」ならできるだろうししているかもしれない。でもその先は多分、いかにはるたんが流され上手で牧の指導が辛抱強くて懇切丁寧だったとしてもけっこうな困難が伴うと思われます。はるたん側に乗り越えなければならないハードルが高くそびえているだろうことは想像に難くないからです。
先ほどの男女にまつわる定説(?)を、今の社会で普通に育てば普通に思い込んで人は育ち上がります。まして男の子は、男たるもの上に立つ者で支配する者で挿入する者、さにあらざれば男にあらず人にあらず、みたいに刷り込まれてしまうんだと思います。
その抑圧、呪縛、思い込みから逃れるのは大変です。でもそれを乗り越えないことには、はるたんは牧と結ばれることはないのです。そこにはものすごく膨大な時間がかかるんじゃないだろうかとも思われますし、発想のコペルニクス的転回が必要なんじゃないかと思うんですよ。女性はそもそももうちょっと賢いし(笑)、「普通」を押しつけられたときに「ホントかよ」って抗う瞬間が大人になる前に絶対に一度はあるものだと思うので、とりあえず従う振りをするにしても全体にもうちょっと意識的だと思うんです。
でも男性は多分ダメだよね、押しつけられたまま「そうか、そういうものか」ってなんとなくなじんでしまうんだと思うんです。だからこそ、こういう、「今まで教えられてきたこと、そういうものしかないんだと思い込まされてきたこと」とは全然違う方向からの愛、に激しくとまどうんだと思うんです。
大変ですよねでもざまーみろ、とも思いますが、まあそれはまた別の問題です。そんな愚かな男など死滅するがよい、とは思ってはいますがそれはそれとして、今は、ここは、はるたんの幸せを願いたい。
となると、そんなふうにうっかり「自然に」育ち上がって、「俺はロリで巨乳が好きなんだよ!」と言ってはばからない「普通の」男だったはるたんが、牧に愛されることを受け入れるにはそりゃもう振り捨てなければいけない今までの押しつけや思い込みが山積みで、大変だろうと思うのですよ。そしてその上で、今度は自分が牧を愛してみたくなったとして、それができるようになるのにも本当はさらにもっとハードルがあるんじゃないの?とは思いますが(イヤ所詮男にとっては穴ならなんでも同じってのもあるのかもしれませんけどね…ホラこんにゃくでもいいとか言うじゃん…下品ですんません)、でも、そういうことを全部すっ飛ばして、というかそういう細かい点も全部全部内包してのあのラストシーン、牧がはるたんにキスしてはるたんが牧にキスし返す…だったんだと思うと、もうもうもう、本当に本当に心が愛で満たされて、ぽかぽかあったまりますよね! 人はわかり合える、譲り合える、思い込みを正せる、新たな道を選び直せる、幸せになれる…って、信じられるからです。そういうラストシーンになっているからです。
そうやって相互に、って言い方もヘンかもしれませんけれど、要するに同性ならリバってのが完全な性愛の形のひとつだと私には思えるので、単なる牧春エンドでなくってよかったなと思った、というのが私のひとつの結論です。
はるたんはゲイになったってことなの?とかもともとバイだったってことなの?とか言う人もいましたが、だからみんな、こんなにこのドラマに萌えたのだったら、これを機にちょっとセクシュアリティについて、またアイデンティティについて、人権なるものとその尊重について、ちょっとだけでいいから考えてみられるといいと思うんですよね。急に話がでかくなるようですが。
この異性愛マンセーの世の中で、自分の性別と、性愛の指向する先が異性であることを一度も疑わずに成人することはかなりたやすいことだと思います。疑ってみることを考えたことすらない人がほとんどなのではないかしらん。
でも本当はそれじゃダメなんだと思うんですよね。ダメというのとはちょっと違うかもしれないけれど、それこそそうやって世間がとか、常識みたく言われていることを何も考えずにただ受け入れてしまい流されてしまうんじゃなくて、一度静かに立ち止まってみて自分自身と向き合って、自分に真摯に問うてみなければいけない問題なんだと思うのです。
だってセクシュアリティって本当にアイデンティティの根幹に関わる問題です。自分が何者で、何を愛するのか。それについて向き合ってみること、考えてみること、そういう機会や時間を持つことが大事だし、そうやって考えてみてその上で自分で選択すること、自覚することが大事なんだと思います。
厳密にはもちろん、自分で決められるものでもないのだろうし、けっこうあいまいでバッキリ分けられるものでもないのだろうけれど、とりあえず向き合ってみることが大事なはずなのです。私たちは人間なのだから、野獣ではないのだから。
「あなたは男の子なんだから、腕白でいい、乱暴なくらいの方が元気があっていい、泣いちゃダメ、乗り物や戦隊ものが好きじゃなきゃダメ、ロリで巨乳が好きじゃなきゃダメ、威張っていいしセクハラしていい痴漢していいし呑んでつぶれていい誰かが介抱してくれるから、避妊しなくていい結婚しても家事しなくていい子供が生まれても子育て全部妻に押しつけていい、浮気は甲斐性、家計は全部背負え戦争行け」
「あなたは女の子なんだから、赤やピンクを好きじゃなきゃダメおしとやかにしてなきゃダメ、勉強ができなくても大丈夫黙ってニコニコしていれば世渡りできる化粧しろ痩せていろ美人でいろ露出しろ、誰かに勝手に触られても騒ぐな刃向かうな、早く結婚しろ改姓しろ夫を支えろ子供は三人以上産んで泣かせず育てろ保育園に頼るな社会的にも活躍しろ義理の親も介護しろ婚家の墓に入れ」
…主に性別によるこうした押しつけをまずは疑い、考えてみましょうよ。古くからのしきたりなんだか知りませんが、単なる思い込みにすぎず不当で理不尽なことには抗う勇気を持ちましょうよ。自分が何者で自分が何を愛し大事に思うのか、自分で考えてみましょうよ。その上で男であれ女であれ、誰が誰を好きになってもいいしその愛情は同等だし、国に対して勤労や納税の義務は負うにせよ人は国のために生きるのでも産むのでも戦うのでも死ぬのでもない、人が幸せに生きるために国はあるのだ、ということに立ち返ってみましょうよ、ということです。
セクシュアリティとかフェミニズムといった問題に対して、私自身は何故か漠然と昔から興味を持っていましたが、今も大事にしている1999年発行(私が所持しているのは2001年第4刷のものですが)の同人誌「LOVE REVOLUTION!」にあるとき出会って、ここからものすごく系統立てて学びました。
この世には自覚なき自称異性愛者、自分のことをあたりまえに世間並みで多数派で正常でスタンダードだと思い込んでいるだけの傲慢な人間が多すぎる。まずは自覚してみることが大事、自分へのカミングアウトが大事、そしてそれがシスジェンダーヘテロセクシャルだったとしても、それは確かに最も一般的で多数派かもしれないけれどだからといってそれが正常で他は異常だということにはならないこと、に思い至ってほしい。そのプロセスがあれば、他人の性自認や性指向を尊重することも必ず覚えるはずだ、変な偏見や差別はしなくなるはずだ…といったようなことがその本には書かれていました。目が覚める思いでした。
そして私は、性格的には女っぽくないし恋愛体質じゃないしタカラジェンヌ大好きだし、でもやっぱり自分のことを女性だと認識していて肉体への違和感もないし、男になりたいと思ったこともなくて、好きな男以外のほとんどの男は好きじゃないどころかむしろ嫌いだけれど性愛対象はあくまで男性で、要するに単なるシスジェンダーのヘテロセクシャルなんだな、と自分のことを捉えるに至ったのでした。その上で、ドリームとして、ファンタジーとして、でもまだ運命的な同性の恋人に出会っていないだけなんじゃないの…?みたいなのは、ある。でもそれはまた別の問題なので、ナイショです(笑)。
男性は女性以上にこういったことに自覚的でないと思うので、単に男として育てられるしだから当然女が好きなんだ、と思い込んでいる人が多いと思うのだけれど、でも性指向ってもっと広いしあいまいだし、ことに男性なんてホモソーシャル大好きだし根本的にミソジニーがあったりするんだし、無自覚なだけで潜在的なバイセクシャルってのはもっとずっと多いはずなんですよね。
でもそういうことを認めるのは男の沽券に関わるとか思ってるわけですよ馬鹿だから。男だ女じゃねーんだよ、野獣じゃなくて人間のつもりなんだったらまず考えてみろ馬鹿、そして認めろ、それが理性だろう馬鹿、としか言えません。
ちょっと脱線しかけていますが、要するに何が言いたいかというと、だから現状この押しつけや思い込みのせいでごくごく狭い世界で生きている人は多く、だからそれを超えるのにはまあまあ高い障壁ができちゃっているんだけれど、本当はそんなことはないはずで、人はもっと自由に、豊かに深く優しく広く生きられるはずで、でもここまで女性としかつきあったことがなかったはるたんがおそらく男性としかつきあってこなかった牧とアレコレ関係を進めていくことは一筋縄ではいかなくて大変だろうけれどだからおそらくできるしなんとかなるし大丈夫だからがんばれよ、ってことです(笑)。長いな!
おそらくこの先夏コミとかもあるし二次創作の壮大な徒花が咲き乱れセクシャルなものもたくさん世に出るんでしょうが、この物語をそうやってBLとして消費するのもいいけれど、ちょっとだけでも現実に還元して、まずみんなが自分へのカミングアウトをしてみるとか、自分や他人の性指向について考えてみるとか、そのどれもが同等で対等で数の差はあれどどれが正常で普通でどれが異常で変態だとかはないのだということに気づいてほしいし、そもそも生まれついてのものでどうにもならない部分もあるのだしそこを差別したりするのは間違っているしそのどうにもならなさを丸ごと受け入れ、認め合い、改めてお互いに尊重し合うようになってほしいのです。
キャラクターを愛すること、ドラマを愛すること、その世界を愛し彼らの幸せを祈ることは畢竟、我々が現実に生きるこの現実の世界をより良くすることにつながります。だって夢見ているだけではダメなんですよ、夢に見合う我々でなくては。
ドリーム上等、ファンタジー上等。それは理想であり逃避先であるのかもしれません。でも人は永遠に中二ではいられないのだから、現実の世界を理想に近づける努力をちょっとでもするべきなんです。みんなもういい大人なんだから。
そしてそれは、別に急に社会改革運動を推し進めましょう!とかいうことではなくて、まず自分自身に真摯になること、自分を見つめ自分と語らい、世の押しつけに流されることなく自分自身を大事にしてあげること、から始められるんだとと思うんです。自分を大事にできる人は他人のことも大事にできる。他人をむやみと差別しない、きちんと尊重する、偏見のない公正で公平な視点が持てるようになる。多様性を認められる。補え合える、助け合える。そうしたら世界はもう少し、優しく、寛容になるはずなんです。その延長でこそ牧春も春牧も存在できるのです。
愛と希望と夢を、優しさと強さと寛大さをもう少しだけ、持てるようになりましょうよ。それがこのドラマに萌えたことへの、最大の恩返しだと思います。
最終回第7話放送の一週間後、もし「第8話」があるとすればそれが放送される時間に、公式から、はるたんが脱いで落とした白い靴の画像が上げられました。シンデレラかよ!というつっこみは正しい。
彼らは、このドラマは、靴の片方を残して、魔法も解けて消え去ったのです。もちろん我々残された者は、王子たるべく行動を起こさなければなりません。
それは、また来週の土曜もエア第9話実況をすること、ではないと私は思います。
普通の連ドラは1クールが12か13話くらい? だからあと4、5回、毎週やっていってもいいけれど、どんどん人が減っていくのは寂しいし、第8話こそみんながある程度同じような、舞台は上海で大物俳優のゲストが新たなライバルとして現れてはるたんはあいかわらずで牧がカッコよく出張ってきて…みたいなストーリーの幻を一緒に見られていたと思うけれど、その先はどんどん拡散して散漫になり、やがて雲散霧消していっちゃうものでしょう? それって寂しい、悲しいことじゃないですか。だからそういうことはもう、終わりにしなければなりません。それは、エア実況を率先してやってくれた脚本家さんもわかっていると思いますよ。プロ作家ですからね。
同様に、二期も映画化もなくていいと私は思う。何匹目かのドジョウなんて味が落ちるに決まっていますし、雨後の筍のように現れかねない同種の浅薄なBL企画もノーサンキューです。
私たちはそんなものに頼らなくても大丈夫なはずです。シンデレラの靴を受け取ったのだから。だからこの世界の王子さまになるために、いつかシンデレラを迎えに行くために、現実を戦い始めるべきなのです。
女子だって、誰だって、王子さまになれます。プリキュアもウテナもそう言っていました。世界は革命できるのです、それが私たちの「愛」です。愛が地球を救うって、そういうことだと私は思います。
天に星、地には花。心に愛を、世界に革命を。
フォーエバーおさラブ!
ブルーレイ、予約しました。韓ドラにハマっていた時期があるのでそのボックスはたくさん持っていますが、日本の連ドラでは私は他に『マジすか学園』しか持っていません。自分のこの揺るぎなさに奮えます。2016年版も見てみるのが楽しみです。またアレコレ長々書き出すことがありましたら、おつきあいいただけたら嬉しいです。
…なんて、実は私がリアタイ視聴したのは最終回の第7話だけだったので、ちょっと盛った表現ではありますが、まあこのところ本当に楽しかったのは事実なので、ついでにちょっといろいろ書いておきたいと思います。てかいつにも増して丸カッコで話題がズレまくる文章多めで、ホントすんません…
東大が女性の顔の魅力をAIで研究するとかなんとかいった「ねえ、馬鹿なの?」としか言いようがないニュースが最近ありましたが、もちろん男性の顔にも美醜(とあえて表現します。つーかこの研究者たちの容貌は醜悪に違いありません、顔にはその人の知性や教養や人柄が表れるものですからね!)はあるワケで、それで言うと私は自身の容貌に特別な自信がないせいで、やたらな二枚目とかハンサム(古い表現だな)、ザッツ・美形みたいな男性のことは敬して遠ざけるみたいなところがあるというか、恋愛対象的に向こうもそうだろうからまずこっちからアウト・オブ・眼中ぶるというか、な卑屈なところがあります。要するに面食いではまったくないのです。
リアルでも、いわゆるタレントさんとか芸能人の好みについても同じで、イケメン枠に対してはむしろ引きます。私はスルーするのでどうぞよそで、という、まあ過剰な自意識の裏返しなんだと思ってはいるのですけれどね。
ちなみに美人、美女は大好きですし、それを男女差別と言われようが男女は非対称なんだから仕方ないじゃんとしか私は言いようがありません。というかあくまで個人の感覚です。だが東大の研究は個人の問題ではないのだから、当然問題があるのです。ホント、馬鹿なのかな?
前置きが長くなりましたが、そんなわけで田中圭はもともと大好きな俳優さんです。失礼ながらイケメン枠でないところがいい、と私はかねてより思っていたのです。もちろん上手い、いい役者さんですしね。私は音楽に疎いので星野源はドラマ『逃げ恥』まで知りませんでしたが、この人も同じ感覚で好感を持ちましたし、そのちょっと前に世間的にはブレイクした(あえていやらしい言い方をしています。テレビがすべてじゃないんだよ役者なめんなよな今さらブレイクとか言うな)高橋一生も同じ枠だと捉えています。万人が認めるバリバリの整ったギリシア彫刻的美形、とかではなく、ちょっと外してたり残念だったり、それでかえって愛嬌やある種の色気があるようなタイプの顔、とでも言いましょうか…まあ要するに好みだってだけの話だろ、と言われてしまえばまったくそのとおりなのですが。
というわけでさらに前置きが長くなっていますが、私にとって田中圭は好きな俳優さんで、でもだから恋愛もののテレビドラマとかで主役を張るとかヒロインの相手役を演じるタイプではなくて、いい人だけどフラれる役とかヒロインの夫役なんだけど浮気される役とか主役ヒーローの親友役とかが似合う、でもそこがいい、とてもとても素敵な役者さん、というイメージだったのでした。
『おっさんずラブ』に関して、そんな彼の初主演ドラマで、以前単発ドラマもあってちょっと話題になってそこからの派生企画で、ヒロインは何故か吉田鋼太郎なのである…という知識は何故かどこからか得ていて、私は仕事柄、連ドラの第1話はひととおり見ておくようにしていることもあって、見る気ではいたのですがわりと直前まで録画の手配を忘れていて、確かほとんど当日に2016年版を見ていたお友達からオススメLINEをもらって慌てて録画予約した…ような記憶があります。
土曜深夜の放送でもあり、録画して数日後に暇ができたときにテキトーに再生したんだと思います。当初は、
「なんだなんだなんなんだコレは」
みたいな感想だったかと思います(笑)。
ヒロイン設定(?)は聞いていたしタイトルがタイトルなんだからいわゆる男性同性愛がモチーフのドラマ…なんだろうとまでは漠然と考えていたのですが、えっ? ライバルもいるの? それが林遣都なの? LGBTドラマ? てかBLってことなのむしろ? てかモテすぎだろうはるたん? でも古のトレンディドラマとか恋愛もののドラマとか、少女漫画、ラブコメなら定番のシチュエーション、演出のオンパレードな気も…わざと? てかパロディ? えええぇ? みたいな。正直、見方がよくわからないというか、笑っていいんだろうかときめいていいんだろうかととまどったというか、でした。
同性愛を笑いものにしているとか馬鹿にしている…という感じは受けなかったけれど、あまりにもナチュラルに進行しすぎている部分もあるようで、それはそれでざらりとした気になりもしたし、でもきゅんとするような萌えるような気もしたんだけどそれでいいんかいなと困惑する、というか。まさにはるたんの気持ち?
ちなみに「はるたん」というのは部長が春田を呼ぶときの愛称(?)なんだから部長派なのでない限り主人公のことは「春田」と呼ぶべきである、という考え方もあるでしょうが(普段なら私は多分こういう筋の通し方をしそうです)、今回に限り可愛いから、かつこの呼称が春田のキャラクターにとても合っている気がするから、ここでは「はるたん」呼びでいきます。
一般的な、というか多数派的な、スタンダードなまっとうな意見をいつも言うことで私が厚い信頼を寄せているお友達が
「部長の行動はただのパワハラに見える気もする」
と言っていたのも当時とても印象に残っていて、そうだよな、微妙っつーかグレーつっかほぼアウト? とも思いました。
でも「ハラスメントとは相手が嫌がればハラスメントなんだ」みたいな言い方が私には引っかかっていて、相手がどう思うかとかより本来は単にその人が相手の人権を尊重できるかという問題なのであって、でも愛情云々ってそういうものとはそもそもちょっと噛み合わない、なじみにくいものだから、だから部長のこの言動はハラスメントとかとはまたちょっと違うような…という困惑も感じました。
でも愛があればなんでも許されるってもんでもないし、でも愛は地球を救うとか言ってのけちゃうのが恋愛ものの神髄なんだし、はてこのドラマはどこを目指しているんだろう…?と困惑しつつも毎週録画をセットしたまま、ダラダラ追っかけていったのでした。
つまらないとなれば1話で見るのをやめて脱落するのが常の私としては、まあ、何かを感じたのでしょうね。あと、やっぱり田中圭が好きだった(笑)。これはこののちのことを考えるに、私にとっては大きなことだったのでした。
ちなみにHDDレコーダーの容量を空けるために私は見たらすぐ録画を消すタイプなので、のちに1話から5話をGYAOで買って見直すハメになりました。そのあたりまではまだこの萌えについて半信半疑だったんや…(笑)
以後もよくわからないながらも、歯を食いしばってニヤけに耐えたり吹いたり笑ったりうっかり泣いたり、再生を一時停止したりはたまた巻き戻したりしながら毎回楽しく見てしまい(そして録画を端から消していきました。のちに激しく悔やむハメになる…)、5話放送後には職場の後輩も見ていることがわかって話が盛り上がったりと、さらに楽しく過ごしてきました。で、6話のヒキからの最終回第7話までの辛抱たまらん一週間…となったワケですが、この後輩もでしたがツイッターなどでも牧春エンドを望む声が大きくて、でもホントにそこに落とすかな?と私はこれまたけっこう半信半疑だったので、このときはそんな彼我の違いもおもしろく感じたのでした。
キャラクターとしては牧みたいなのって大好物なはずだと自分でも思うんですけれど、私は林遣都には今ひとつそこまで興味が持てなくて(でもこれがまたどこからどう見ても120パーセント美少年!みたいな役者がやるんじゃなくて本当によかったとは思っています。てか林遣都、上手いよね! 知ってたけど!!)、というか私はあくまで、あまりにも田中圭が好きで、結果的に私には珍しく主人公のはるたんを好きになり(主人公に対してはキャラクターとしては私はわりとどうでもいいというか、みんなが好きなんだろうから私は他のキャラクターに行くね、とスルーすることが多いので、これは私には本当に珍しいことなんですよ!)、だからこそ彼の幸せだけを祈り、はたして彼にとっての幸せって、ハッピーエンドってなんだろう?と私は考えちゃったんですよね。好きな人の幸せだけを考える…牧か!(と武川さんにつっこんでほしい…てか眞島秀和もめっちゃ上手い…てか役者がみんなよかったのがこのドラマの勝因だよホント…)
私ははるたんの本当にザッツ・男子なところを愛していて、そこがいいキャラクターなんだと思っているし(腐女子だろうとユリ好きだろうと所詮は単なるヘテロかよ自分ケッ!とか思いましたよね…)、だからやっぱりここまで、なんのかんの言っても彼はただ流されているだけで、単に優しかったり優柔不断だったり決めなかったり断らなかったりしているだけなのであり、タイミングさえ合えばちずエンドなのが一番自然で単純だったんじゃないのかなとか、でもそれもちずちゃんに対して失礼だしな(ちずや蝶子さん、まいまいなど、女性キャラクターとその俳優もまた素晴らしかったことももちろんこのドラマの勝因ですよね!)とか思うと、誰とくっつくのがゴールと言えるほど彼は未だ真剣には誰とも恋をしていないようにも見えて、みんなから逃げ出して明日はどっちだ!?みたいになるオープンエンド(用語としては正確ではないか…)にするのかな?とか私は考えていたのでした。
が、あのラストでしたし、そもそも2016年版をきちんとなぞっていてあちらもそういうオチだったそうですし、一昨日の土曜に私は改めて1話から見直すひとり『おさラブ』祭りをしていたんですけれど、ちゃんと見れば(細かいところとかをわりとけっこう忘れていたので)やはり全体にちゃんとそういうふうにオチるよう最初からできていましたね。というかもちろん納得していますし萌えましたし最終ターンをもう何十回再生したかわかりません!(笑)いいラストでした、春牧なのもよかった!!(大笑)
というか映像として本当によくできていたなあ…あのCM明けの道路のシーンも、車が横切って画面が途切れるとカメラが向かいに切り替わっているのとか、もしかしたら映像のプロにはごく定番の演出や編集なのかもしけないけれど、本当にシビれました。実際にはあの道路を渡るのに、次の信号までが「ちょっと待ってて」の距離なんかじゃ全然ナイ、というのも実にイイよね!(笑)
というかやっぱりその前、「誓いのキスを」と言われて固まるはるたん、というのがもう、すべての伏線を回収する勢いで、見ていてテレビの前でマジで奮えましたよね私。
部長はヒロインでオトメだから同棲しててもプラトニックで結婚式までは清いカラダで、ってのもあったんだろうけれど、そこはやっぱり無理強いしない大人であるとかふたりの完全な合意の上でないとしないできないとかはるたんの「そこまでウェルカムじゃない気持ち」を感じ取ってはいたんだろうでも好きで外堀埋めちゃいたかったんだろう最後の最後まで夢見たかったんだろう、とかいろいろ思うと本当にせつなくて悲しくて愛しいです。
そしてそもそもこれら部長の迫りをパワハラだと言うなら牧の無理チューだってほとんどレイプも同然なんだけれど、そういう意見はほぼ見なかったのはやはりそこには残念ながらある種のバイアスがあるということで(ぶっちゃけおじさんはNGで若いイケメンならいいのか問題、ってことです。てかタイトルが年齢差別に対して挑戦的なものになっているのも、このドラマの特異でおもしろい点ですよね。対照として逆バージョンが話題になったときに『おばさんずラブ』ではなく『おねえさんずラブ』とされた問題もある…これについてはまた別の機会に)、それは作中でもある程度反映されていて、はるたんはどちらに対しても同じように困惑していて、かといって完全に嫌悪していたわけでもなかったのだけれど、ではどちらをより受け入れてしまっていたかと言えばやはり牧だったワケですね。ふたりに対してはるたんは一度は正式にきちんとお断りしていて、その上で牧に対しては再度正式におつきあいを了承した、という流れもありますしね。おでこチューを別にしたら、二度目のキスに関しては「いいですよ、別に」と了承(笑)してもいるワケですしね。
これら既成事実の前に、やはり部長は引くしかなかった、敗れるしかなかったのでした。
牧なら受け入れられる、牧にならされてもいい、牧とならできる気がする、でも部長とはできない…その認識が、主人公をライバルの元へと走らせたのでした。ヒロイン設定のキャラがライバルに負けるという、かなり珍しいパターンです。
からの、ラストシーンですよ。
ずっとずっとずっと、するのはいつでも牧の方から、だけ、だったのに。なのに、やっと、最後に。
そして、その瞬間は見せない。
憎い!
上手すぎる!!
「んなわけねーだろっつーの」
こっちの台詞だよ!!!(笑)
しかし私がここに最大に滾ったのは、ふたりがやっと同等になったから、ということもあるかもしれないけれど、やはり春牧になったこと、もっと言えばはるたんが攻め、男に、雄になったこと、が個人的には嬉しかったんだろうなあ、と思うと、それはそれでなかなかいろいろ考えさせられたのでした。
てかBLの隆盛って、男女の恋愛とか性愛における力関係の不平等さとか非対称性に対する鬱屈からの逃避って部分がかなりあるんじゃないかと私は考えていて(実はバブル期に女性が元気になりかけたときにはむしろ、もはや男女は対等になってしまってドラマを盛り上げる「障害」は消え、たとえば身分違いみたいな歴史的な障害ももう消えてなくなってしまったので、あとはもう同性同士という障害に物語は頼るしかない、だからやおい…みたいな空気も確かにあったと思うんですけれど…むしろしぼんだよねその後の社会が。全然対等じゃないよね男女、とますます露呈する現代ってなんなんだホント後退してるじゃんか…)、だからこそせっかく同性で同等なんだからリバじゃないと意味ないじゃん、とか私は思うのですが、どうも界隈ではそうではないようですよね…
あ、あくまでBLの話です。実際の男性同性愛のことは当事者ではないのでわかりません。本物のゲイはこんなじゃないよと言われたら、どんなドラマも漫画も本物の男女はこんなじゃないし恋愛もセックスもこんなじゃないよね、としか言えません。現実とフィクションは違うし、でもフィクションにしか描けないものがあるんです。そこにしか現れえないドリームやファンタジーなるものが存在するのです。そこを踏まえての話です。
で、一般的に、
男/年上/支配/S/強い/能動的/攻める/挿入する/愛する/導く
女/年下/服従/M/弱い/受動的/守る/挿入される/愛される/導かれる
みたいな対比の構造が歴史的に社会的に、なんか知らないけど物語でも定番として、あるわけじゃないですか残念ながら。それが苦しくて、そこから逃げたくて、だからBLなんじゃないですか(ごく最近のことは正直言ってわかりませんが、少なくともやおい黎明期のころにはこういう傾向が確かにあったと体感として私は思います)。
男同士なら、対等で同等で平等だから。
そしてだからこそ、年下攻めもまた支持されるんだと思うんですよね。年長の方が攻め手、という定番もまたこれにより覆されるからです。私たちの反逆精神を見事に反映しているわけですよ。
だから牧は、まあ公式のキャラクター設定が「ドS」だったこともありますが、33歳のはるたんに対して25歳と年少でもあり、だからこその年下攻め支持、牧春派が多数派、ってことだったと思うんですよね。はるたんが基本的に流されキャラ押し切られキャラなので、結果的にアレコレ(笑)受け入れる側に回りそうじゃない?と見える、というのもある。
でも私は、さんざん語ってきましたが、腐目線で見るとか牧に萌えて見るとかよりは本当に単純にはるたんが好きでこのドラマを見ていたので、まあ普通だったらヒロインに感情移入してヒロインになりきって見て主人公が彼女と結ばれることで達成感を得るとかいう流れだったんだろうけれど何しろこのドラマのヒロインは部長なので(笑)、とにかくはるたんが幸せであればいいと思っていたし、だから相手が誰であれ、という言い方はアレなんだけれど、とにかくラストに男っぽいカッコいいはるたんが見られたことが満足だったわけです。牧を押しのけてからの、あの視線を一瞬外しつつもスイッチ切り替える感じね! その前の、牧の巨根(とあえて明言しますが)に動揺する表情との落差がまたたまりませんよね!!はー、イイ!!!(笑)
もちろんはるたんから牧にキスしたからと言って即春牧だってことにはならないんでしょうが、そんな厳密なこと言ってたら、たとえばこの一か月ではこのふたりはまだどうもなっていないやろとしか思えないし、挿入に至るなんて精神的にも技術的(?)にもハードル高くてそんな簡単にいくワケないやろ、としか言えません。
イヤ知らんけど。私は男性ではないのでね。
でも少なくとも、挿入イコールセックスでないこと、セックスイコール挿入でないことは知っています。ペニスの握り合いっこなら自慰の延長で簡単にできそうな気もするので(くりかえしますが私は男性ではないので本当のところはわかりません)、そういう「セックス」ならできるだろうししているかもしれない。でもその先は多分、いかにはるたんが流され上手で牧の指導が辛抱強くて懇切丁寧だったとしてもけっこうな困難が伴うと思われます。はるたん側に乗り越えなければならないハードルが高くそびえているだろうことは想像に難くないからです。
先ほどの男女にまつわる定説(?)を、今の社会で普通に育てば普通に思い込んで人は育ち上がります。まして男の子は、男たるもの上に立つ者で支配する者で挿入する者、さにあらざれば男にあらず人にあらず、みたいに刷り込まれてしまうんだと思います。
その抑圧、呪縛、思い込みから逃れるのは大変です。でもそれを乗り越えないことには、はるたんは牧と結ばれることはないのです。そこにはものすごく膨大な時間がかかるんじゃないだろうかとも思われますし、発想のコペルニクス的転回が必要なんじゃないかと思うんですよ。女性はそもそももうちょっと賢いし(笑)、「普通」を押しつけられたときに「ホントかよ」って抗う瞬間が大人になる前に絶対に一度はあるものだと思うので、とりあえず従う振りをするにしても全体にもうちょっと意識的だと思うんです。
でも男性は多分ダメだよね、押しつけられたまま「そうか、そういうものか」ってなんとなくなじんでしまうんだと思うんです。だからこそ、こういう、「今まで教えられてきたこと、そういうものしかないんだと思い込まされてきたこと」とは全然違う方向からの愛、に激しくとまどうんだと思うんです。
大変ですよねでもざまーみろ、とも思いますが、まあそれはまた別の問題です。そんな愚かな男など死滅するがよい、とは思ってはいますがそれはそれとして、今は、ここは、はるたんの幸せを願いたい。
となると、そんなふうにうっかり「自然に」育ち上がって、「俺はロリで巨乳が好きなんだよ!」と言ってはばからない「普通の」男だったはるたんが、牧に愛されることを受け入れるにはそりゃもう振り捨てなければいけない今までの押しつけや思い込みが山積みで、大変だろうと思うのですよ。そしてその上で、今度は自分が牧を愛してみたくなったとして、それができるようになるのにも本当はさらにもっとハードルがあるんじゃないの?とは思いますが(イヤ所詮男にとっては穴ならなんでも同じってのもあるのかもしれませんけどね…ホラこんにゃくでもいいとか言うじゃん…下品ですんません)、でも、そういうことを全部すっ飛ばして、というかそういう細かい点も全部全部内包してのあのラストシーン、牧がはるたんにキスしてはるたんが牧にキスし返す…だったんだと思うと、もうもうもう、本当に本当に心が愛で満たされて、ぽかぽかあったまりますよね! 人はわかり合える、譲り合える、思い込みを正せる、新たな道を選び直せる、幸せになれる…って、信じられるからです。そういうラストシーンになっているからです。
そうやって相互に、って言い方もヘンかもしれませんけれど、要するに同性ならリバってのが完全な性愛の形のひとつだと私には思えるので、単なる牧春エンドでなくってよかったなと思った、というのが私のひとつの結論です。
はるたんはゲイになったってことなの?とかもともとバイだったってことなの?とか言う人もいましたが、だからみんな、こんなにこのドラマに萌えたのだったら、これを機にちょっとセクシュアリティについて、またアイデンティティについて、人権なるものとその尊重について、ちょっとだけでいいから考えてみられるといいと思うんですよね。急に話がでかくなるようですが。
この異性愛マンセーの世の中で、自分の性別と、性愛の指向する先が異性であることを一度も疑わずに成人することはかなりたやすいことだと思います。疑ってみることを考えたことすらない人がほとんどなのではないかしらん。
でも本当はそれじゃダメなんだと思うんですよね。ダメというのとはちょっと違うかもしれないけれど、それこそそうやって世間がとか、常識みたく言われていることを何も考えずにただ受け入れてしまい流されてしまうんじゃなくて、一度静かに立ち止まってみて自分自身と向き合って、自分に真摯に問うてみなければいけない問題なんだと思うのです。
だってセクシュアリティって本当にアイデンティティの根幹に関わる問題です。自分が何者で、何を愛するのか。それについて向き合ってみること、考えてみること、そういう機会や時間を持つことが大事だし、そうやって考えてみてその上で自分で選択すること、自覚することが大事なんだと思います。
厳密にはもちろん、自分で決められるものでもないのだろうし、けっこうあいまいでバッキリ分けられるものでもないのだろうけれど、とりあえず向き合ってみることが大事なはずなのです。私たちは人間なのだから、野獣ではないのだから。
「あなたは男の子なんだから、腕白でいい、乱暴なくらいの方が元気があっていい、泣いちゃダメ、乗り物や戦隊ものが好きじゃなきゃダメ、ロリで巨乳が好きじゃなきゃダメ、威張っていいしセクハラしていい痴漢していいし呑んでつぶれていい誰かが介抱してくれるから、避妊しなくていい結婚しても家事しなくていい子供が生まれても子育て全部妻に押しつけていい、浮気は甲斐性、家計は全部背負え戦争行け」
「あなたは女の子なんだから、赤やピンクを好きじゃなきゃダメおしとやかにしてなきゃダメ、勉強ができなくても大丈夫黙ってニコニコしていれば世渡りできる化粧しろ痩せていろ美人でいろ露出しろ、誰かに勝手に触られても騒ぐな刃向かうな、早く結婚しろ改姓しろ夫を支えろ子供は三人以上産んで泣かせず育てろ保育園に頼るな社会的にも活躍しろ義理の親も介護しろ婚家の墓に入れ」
…主に性別によるこうした押しつけをまずは疑い、考えてみましょうよ。古くからのしきたりなんだか知りませんが、単なる思い込みにすぎず不当で理不尽なことには抗う勇気を持ちましょうよ。自分が何者で自分が何を愛し大事に思うのか、自分で考えてみましょうよ。その上で男であれ女であれ、誰が誰を好きになってもいいしその愛情は同等だし、国に対して勤労や納税の義務は負うにせよ人は国のために生きるのでも産むのでも戦うのでも死ぬのでもない、人が幸せに生きるために国はあるのだ、ということに立ち返ってみましょうよ、ということです。
セクシュアリティとかフェミニズムといった問題に対して、私自身は何故か漠然と昔から興味を持っていましたが、今も大事にしている1999年発行(私が所持しているのは2001年第4刷のものですが)の同人誌「LOVE REVOLUTION!」にあるとき出会って、ここからものすごく系統立てて学びました。
この世には自覚なき自称異性愛者、自分のことをあたりまえに世間並みで多数派で正常でスタンダードだと思い込んでいるだけの傲慢な人間が多すぎる。まずは自覚してみることが大事、自分へのカミングアウトが大事、そしてそれがシスジェンダーヘテロセクシャルだったとしても、それは確かに最も一般的で多数派かもしれないけれどだからといってそれが正常で他は異常だということにはならないこと、に思い至ってほしい。そのプロセスがあれば、他人の性自認や性指向を尊重することも必ず覚えるはずだ、変な偏見や差別はしなくなるはずだ…といったようなことがその本には書かれていました。目が覚める思いでした。
そして私は、性格的には女っぽくないし恋愛体質じゃないしタカラジェンヌ大好きだし、でもやっぱり自分のことを女性だと認識していて肉体への違和感もないし、男になりたいと思ったこともなくて、好きな男以外のほとんどの男は好きじゃないどころかむしろ嫌いだけれど性愛対象はあくまで男性で、要するに単なるシスジェンダーのヘテロセクシャルなんだな、と自分のことを捉えるに至ったのでした。その上で、ドリームとして、ファンタジーとして、でもまだ運命的な同性の恋人に出会っていないだけなんじゃないの…?みたいなのは、ある。でもそれはまた別の問題なので、ナイショです(笑)。
男性は女性以上にこういったことに自覚的でないと思うので、単に男として育てられるしだから当然女が好きなんだ、と思い込んでいる人が多いと思うのだけれど、でも性指向ってもっと広いしあいまいだし、ことに男性なんてホモソーシャル大好きだし根本的にミソジニーがあったりするんだし、無自覚なだけで潜在的なバイセクシャルってのはもっとずっと多いはずなんですよね。
でもそういうことを認めるのは男の沽券に関わるとか思ってるわけですよ馬鹿だから。男だ女じゃねーんだよ、野獣じゃなくて人間のつもりなんだったらまず考えてみろ馬鹿、そして認めろ、それが理性だろう馬鹿、としか言えません。
ちょっと脱線しかけていますが、要するに何が言いたいかというと、だから現状この押しつけや思い込みのせいでごくごく狭い世界で生きている人は多く、だからそれを超えるのにはまあまあ高い障壁ができちゃっているんだけれど、本当はそんなことはないはずで、人はもっと自由に、豊かに深く優しく広く生きられるはずで、でもここまで女性としかつきあったことがなかったはるたんがおそらく男性としかつきあってこなかった牧とアレコレ関係を進めていくことは一筋縄ではいかなくて大変だろうけれどだからおそらくできるしなんとかなるし大丈夫だからがんばれよ、ってことです(笑)。長いな!
おそらくこの先夏コミとかもあるし二次創作の壮大な徒花が咲き乱れセクシャルなものもたくさん世に出るんでしょうが、この物語をそうやってBLとして消費するのもいいけれど、ちょっとだけでも現実に還元して、まずみんなが自分へのカミングアウトをしてみるとか、自分や他人の性指向について考えてみるとか、そのどれもが同等で対等で数の差はあれどどれが正常で普通でどれが異常で変態だとかはないのだということに気づいてほしいし、そもそも生まれついてのものでどうにもならない部分もあるのだしそこを差別したりするのは間違っているしそのどうにもならなさを丸ごと受け入れ、認め合い、改めてお互いに尊重し合うようになってほしいのです。
キャラクターを愛すること、ドラマを愛すること、その世界を愛し彼らの幸せを祈ることは畢竟、我々が現実に生きるこの現実の世界をより良くすることにつながります。だって夢見ているだけではダメなんですよ、夢に見合う我々でなくては。
ドリーム上等、ファンタジー上等。それは理想であり逃避先であるのかもしれません。でも人は永遠に中二ではいられないのだから、現実の世界を理想に近づける努力をちょっとでもするべきなんです。みんなもういい大人なんだから。
そしてそれは、別に急に社会改革運動を推し進めましょう!とかいうことではなくて、まず自分自身に真摯になること、自分を見つめ自分と語らい、世の押しつけに流されることなく自分自身を大事にしてあげること、から始められるんだとと思うんです。自分を大事にできる人は他人のことも大事にできる。他人をむやみと差別しない、きちんと尊重する、偏見のない公正で公平な視点が持てるようになる。多様性を認められる。補え合える、助け合える。そうしたら世界はもう少し、優しく、寛容になるはずなんです。その延長でこそ牧春も春牧も存在できるのです。
愛と希望と夢を、優しさと強さと寛大さをもう少しだけ、持てるようになりましょうよ。それがこのドラマに萌えたことへの、最大の恩返しだと思います。
最終回第7話放送の一週間後、もし「第8話」があるとすればそれが放送される時間に、公式から、はるたんが脱いで落とした白い靴の画像が上げられました。シンデレラかよ!というつっこみは正しい。
彼らは、このドラマは、靴の片方を残して、魔法も解けて消え去ったのです。もちろん我々残された者は、王子たるべく行動を起こさなければなりません。
それは、また来週の土曜もエア第9話実況をすること、ではないと私は思います。
普通の連ドラは1クールが12か13話くらい? だからあと4、5回、毎週やっていってもいいけれど、どんどん人が減っていくのは寂しいし、第8話こそみんながある程度同じような、舞台は上海で大物俳優のゲストが新たなライバルとして現れてはるたんはあいかわらずで牧がカッコよく出張ってきて…みたいなストーリーの幻を一緒に見られていたと思うけれど、その先はどんどん拡散して散漫になり、やがて雲散霧消していっちゃうものでしょう? それって寂しい、悲しいことじゃないですか。だからそういうことはもう、終わりにしなければなりません。それは、エア実況を率先してやってくれた脚本家さんもわかっていると思いますよ。プロ作家ですからね。
同様に、二期も映画化もなくていいと私は思う。何匹目かのドジョウなんて味が落ちるに決まっていますし、雨後の筍のように現れかねない同種の浅薄なBL企画もノーサンキューです。
私たちはそんなものに頼らなくても大丈夫なはずです。シンデレラの靴を受け取ったのだから。だからこの世界の王子さまになるために、いつかシンデレラを迎えに行くために、現実を戦い始めるべきなのです。
女子だって、誰だって、王子さまになれます。プリキュアもウテナもそう言っていました。世界は革命できるのです、それが私たちの「愛」です。愛が地球を救うって、そういうことだと私は思います。
天に星、地には花。心に愛を、世界に革命を。
フォーエバーおさラブ!
ブルーレイ、予約しました。韓ドラにハマっていた時期があるのでそのボックスはたくさん持っていますが、日本の連ドラでは私は他に『マジすか学園』しか持っていません。自分のこの揺るぎなさに奮えます。2016年版も見てみるのが楽しみです。またアレコレ長々書き出すことがありましたら、おつきあいいただけたら嬉しいです。
おっさんずラブ
まさか、こちらにも言及いただけるとは。
私も圭くんがなんとも言えず好きでして
(上裸のシーン、ヤバかった)。
圭くんの顔芸はさておき、優柔不断具合がたまらなく女子で、愛おしかった。
これからも私の大好きな宝塚はじめ、多岐にわたるご感想お聞かせください。
セクシュアリティなんて本当に自分でも分からないんですよ。ちゃんと説明できる方がいいのかなと思うこともあるけど、できたらカテゴライズしないで生きていきたい。
セクシュアリティに関わらず、カテゴライズしないで、個人は個人、と受け止められる世界だといいなとこれを読んで心から思いました。
今までひっそり読んでくださっていたのですね。
そんなもったいない、がっつり絡んでくださいよ!(笑)
それはともかく、突然のおさラブ語りにも引かないでくださって嬉しいです。
私にははるたんはザッツ男子、ザッツ男にしか思えなかったんですが、
そうか女子っぽいと見る見方もあるのか…
私の女子像が雄々しく凛々しすぎるのかしらん(笑)。
でもチャーミングなキャラクターですよね、しょーもないとこもあるけど愛しい、嫌いになれない。
それを田中圭が絶妙に演じてくれているんだと思います。
というワケで『サメと泳ぐ』も観に行っちゃいます、楽しみです!
また読みにいらしてくださいませ。
●駒子●
というかotoさんはわかっていてくださると思っていますが、
記事がカミングアウトを強要しているように読めたら問題だな、と思い至りました。
自覚、自分へのカミングアウト、はっきりつかめなくても自分と向き合うこと、は大事だと思っていますが、
それを公言したり他人に干渉されたりカテゴライズされたりする必要はないし、
セクシュアリティなんてプライバシーの最たるものであって絶対不可侵のものだと思っています。
みんなが自分を大事にするように他人のことも大事にする世の中になるといいと思っていますが、
現状、自分で自分のことすら大事にできない幼稚な人間が多すぎるからさ…
そしてそういう人に限って他人に干渉し、他人に同調を強い、「みんな同じ」ってことに安心しようとするんですよ。
その弱さが嫌いです。
自分に向き合ってみたことがある人は、わからなかったとしても「結局わからなかった」ということも受け入れてつきあって生きていけると思うんです。
そう、けっこうわからないものだったり、コロコロ流動的だったりすることもあるものだとも私はちゃんとわかっているつもりです。でも記事が言葉足らずでしたら本当にすみません。
…ただ、自分に関して言えばどうも強固なヘテロっぽくて、百合ドリームが敗れそうなのが寂しいってだけの話です(笑)。
またグータン会しましょうね!
●駒子●
これを読んですごく救われた気持ちになったのです。
またグータン会、楽しみにしています♪