駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』(書肆侃侃房)、『シェイクスピア劇を楽しんだ女たち』(白水社)

2020年04月04日 | 乱読記/書名あ行
 前者の副題は「不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門」で、後者は「近世の観劇と読書」。サイゾーのウェブサイトに連載されたコラムをまとめたものと、博士論文にもとづくもので、いずれもちょっと前に話題になっていました本でしたが、やっと買えて、読めました。
 ツイッターでリツイートされた記事を見かけたりしていたこともあって、前者は思っていたよりだいぶライトな本に感じました。あえてそう書いている部分もあるのでしょうし、もとがウェブのコラム記事なんだから本になってもまあそういうものかな、とも思います。
 一方で後者は、もとが論文だからか今度は単なる歴史的な事実の羅列にちょっと見えてしまいました。もちろんその「歴史的な事実」を探る学術研究はたいそう価値があるものでしょうし、それで発掘できた事実のうちから何をどう選択して書き並べるか、というところには著者の意図が表れるし、それに対する考察なんかもきちんと書き加えられてはいるのですが、どうしてもやや無味乾燥に思えました。どちらも、わりと、「うん、知ってる」と、生意気にもそういう気がしちゃうことしが書かれていない気がしたのですね。なんとなく、もっと違うタイプの本だと勝手に想像して、勝手に何かもっと深い知識が得られるはずだと思い描いていたのかもしれません。
 ただ、だからといっておもしろくなかったというわけではないのも、またおもしろい感覚でした。
 特に後者は、帯の「追っかけから始まるシェイクスピア女子の歴史」というよりはむしろ、「追っかけ女子から始まるシェイクスピアの(受容の)歴史」の本に私には読めました。これはシェイクスピアの舞台や戯曲を受容した女性たちがいかにシェイクスピアを「正典化」してきたか、を記した本だからです。もちろん、男性たちによる受容についてはすでに今まであちこちで言及され研究され尽くしたものだからこそ当然のようにこの本ではあえてスルーしているのであって、女性の方が先だったとか慧眼だったとかいうことではないのでしょうが、今まで日が当てられなかった分野なのでしょうし、何よりそこにあるのは現代に生きる私たちに通じる姿だったのですよね。ヅカオタが舞台観てル・サンク読んであーだこーだ語るのと一緒、ってことですもんね(台無し)。
 現代とはまた違った形での男女差別があった社会で、男性の受容と女性の受容、それぞれの正典化の違い、みたいなものが語られるともっとおもしろかったのかもしれません。そういうものが如実にあれば、ですが。でもなんとなく、女性の方が男性より先にシェイクスピアの価値を認めた、正典化し価値を高めた、要するにシェイクスピアは女にウケた、だから今なお上演され続ける大家になったのだ…まで言えたら、けっこう大きいことだったのかもしれません。イヤそんな事実はないのならそれは捏造になってしまうのだけれど。でも当時の他の作家に比べたらシェイクスピアにはややフェミニンな面がある、とかは、ないのかしら…私は研究家ではないからわからないけれど、なんかちょっとありそうですよね。少なくともあまりマッチョなタイプではなかったというか、いい女性キャラクターを書けるタイプの作家だったというか…まあ私は現代でシェイクスピアをまんま上演するのはけっこう無理があるんでねーのとか思っている派なんですけれど…もちろんそんなくわしくないけど別にものすごく好きな作家とかでもないし…
 でもたとえばコミケとかガンダムの歴史において、最初っから少なからぬ数の女性ファンがいてその盛り上げ、ムーブメントに大きく参加していた事実があったにもかかわらず、女なんかいなかった、あとから湧いて寄ってきただけみたいに歴史を書き換えようとする最近のおバカな動きなんかを見ているとなおさら、イヤむしろ最初におもしろがったのは女だろう、と思いたくなるんですよね。そういう部分の自由さが、おそらく当時も今も、男性より女性の方にあったのかもしれないなとも思えるからです。そういうところまで語れると、よりおもしろかったのかもしれません。
 またそれとは別に、今はそれほどでもないかもしれないけれど当時は本当に、女性はあくまで「見られる側」で、けれど「芝居を観る」という行動において女性は「役者を観る観客」になるのであり「見る側」になれる、「欲望する主体」になれたのだ、という観点は今の私には新しかったです。自分が主体なのは当然、と思える育ちを私がしたからです。でも今でも、女性が女の身体は女自身の物だと主体的に声を上げただけでキレちらかす馬鹿男がわんさといるんだから、残念ながらそこはあまり変わっていないのかな…でも、映画もテレビもなかった当時、「見る」ことができたものは舞台演劇だけだったのでしょうから、これが女性にとってのはじめの一歩だったのかもしれませんね。当時の女性にはいろいろと行動制限がかけられていたものですが、よくもまあ観劇が許されたものです…たとえばギリシア演劇とかはどうだったのかしらん、でもこれも観客は男女ともにいましたよね?
 高等教育が受けられない中でも、舞台を観て戯曲を読んで本を貸したり贈ったり譲ったりし合った女性たち…キャラ萌えしたり、自分でも書いてみたり、素人劇を演じてみたり…多分やってること、今と変わりません。物語に惹かれる人間がいて、その半分は常に女であるというのは、人間の半分が女なんだから自明なことなんですけれど、こうした研究で光を当てられなければ誰にも言及されないまま、勝手になかったことにされてしまうものだったのでしょう。そして男が勝手に歴史を書き換えていく…そんなことにならなくて、よかったです。
 「解釈共同体」という用語は初めて知りましたが、そこで行われるファン活動やファンダムの在り方には身に覚えがありすぎです。今もエンタメを愛好し金を落とし支えるファンの半分は女でしょう。作り手側にいる女の比率も当時よりずっと上がったことでしょう。この本は近世イングランドの女性の観劇と読書を扱ったものですが、突き詰めれば要するに、当時も今も世界の半分は女である、というごく単純な真理を、しかしどうも世のおバカな男どもには見えていないらしい真実を書いただけのものである、と言ってもいいのかもしれません。
 楽しく読みました。


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