駒子の備忘録

観劇記と乱読日記、愛蔵コミック・コラムなどなど

『神土地』の風は凪ぎ、ただ美しく雪が降るのだ。

2017年09月03日 | 観劇記/タイトルか行
 六度の観劇を終えて今、くーみんへの詫び状を認めようとしています。前回の記事はこちら。上田久美子先生に、そのときの一方的な暴言を謝罪したく思います。
 イヤ、初日は本当にああ感じたのです。それは撤回しないしできるものでもないし、劇場でもみんながみんな傑作キタコレ!みたいな空気にはなっていなかったと記憶しています。でももちろん、最初からいいと言っていた方も多かったのです。そして今、私は自分の不明を恥じています。だからこその、詫び状です。
 今日(9月1日13時。レビュー記念日でした!)初めて、前回(8月31日11時)には確実になかった台詞の追加に気づき、そしてそれは私にはちょっと言わずもがななものに思えたので、そろそろくーみんも迷走に入ったのかなと心配になりましたが(^^;)、ともあれほぼ毎回観劇していて毎回ダメ出ししているらしく、細かい追加や削除や修正の手を入れているようです。でも、もういいよくーみん、そろそろおちつかせてもいいと思うよ、あとは役者に任せても大丈夫だよ、それくらいすべて出揃いましたよ、もうカンペキですよ。そもそもすべては最初の脚本に、そして初日の舞台にきちんとあったのでしょう。修正と言ってもそれはたとえば例に出すにもはばかられるようですが『邪馬台国の風』の変更の「そこじゃねえ」感とはまったく無縁で、たとえるならちょっとだけ引っかかってキシキシいっていた箇所に油を差してなめらかにするような(名香智子の傑作社交ダンス漫画『パートナー』にそんな比喩があったな…)、そんなごくささやかな修正で、でもそれで本質がより鮮やかに立ち上がってきて、こちらがあえて読み取ろう補完しようと無理にがんばらなくても自然にしみしみと心に入ってくるような、そんなドラマが舞台に今、現出しています。そしてそれは、本当に美しいものなのでした。
 今でも私だったら、というか私がたとえばプロデューサーだったら、いっそ題材ごと変えるか、これをやるならもうちょっとだけキャッチーにしたら?という提案をしてしまうと思います。でもおそらくくーみんがやりたいことはズバリ今のこれなのであり、そういう外野の助言もあるいはよけいなお節介も全部消化した上でやっぱりこれでいきます、という信念のもとにこの作品はこう書かれたのだろうし、それであればやっぱり作品というものは名前を出して世に出す作家のものなのです。だからたとえファンでもとやかく言えるものではないのでした。
 もう一段階だけドラマチックに、わかりやすくして涙、涙という演出にももちろんできたことでしょう。でもそれをあえてしていないのだ、そしてそれをしなかったことでよりせつなく立ち上がる美しいドラマがあるのだ…ということに、やっと私の目が開かれたのでした。私はナンパで幼稚で無精なのでわかりやすいエンタメを愛しているし、そういうものをたくさん作ってたくさん売ってたくさん楽しくなろうというポリシーのもとにエンタメ業界で働いてきた人間なので、こと商業作品に関しては好みや視野が狭く、文学的なものや芸術的なものに対しては好みだからこそ特別視しすぎていて心が狭いというタイプの、しょーもない人間なのです。ホントすんませんでした…
 幸い客入りもいいようだし(私が観ている回はすべて立ち見が出ていました。商業演劇なんだからこの要素だけは譲れません。仮にもトップスターの退団公演なのにガラガラだったとしたら、たとえ中身がどんなに良くて高尚でも私は暴れる。プロとしてその仕事は違うと言う。イヤ何かを言う権利なんか全然ないんだけれど! それでも!!)、評判も尻上がりに良くなっているようなので、本当によかったなと思います。あとはこの作品が広く世に受け入れられ、記憶に残る作品として輝いていくことを祈るのみです。
 ミュージカル・プレイ『神々の土地』は、静かで悲しく、せつなく美しい。心を激しく揺さぶるような劇的な嵐が劇中で巻き起こることはないけれど、風は静かに凪いで空気が澄んで、雪だけがただ音もなくはかなげに降っています。その中で呼び起こされる感動、震わされる心というものがあるのだということに、私はやっと気づかされたのでした。

 第1場Bはやっぱり説明台詞が重いと思うのだけれど、第2場は言葉数が少なくても漂う情感がとても雄弁ですね。
 やはりドミトリーとイリナは、セルゲイ大公の甥と妻として初めて出会ったのでしょうね。だから彼女が結婚でロシアに来る前、ドイツではイレーネと呼ばれていたことをドミトリーは知識としてしか知らなくて、もう当人も「イリナよ」と名乗っているし今さら呼べなかったんだけれど、でもずっと呼んでみたいと胸に秘めていたのでしょうね。
 イリナはダンスの名手で、セルゲイ大公が存命だったころはたくさん踊って社交界の華で、でも未亡人になってからは公の場では決して踊らなくなってしまったのでしょう。社交ダンスはノン・シークエンス・ダンスで、リーダーの男性が即興で考えたフィガーをパートナーの女性が瞬時に読みとって追随することで生み出されるカップル芸術です。ドミトリーとイリナはかつてたくさん踊ったし、息が合っていて見栄えのいい、お似合いの、素晴らしいカップルだったのでしょう。
 イリナがお嫁に来たときドミトリーはもう大公家に身を寄せていて、外交だの軍事だのに忙しい家長に代わってイリナの家庭教師となり社交界でのエスコートとなり、姉弟のような親友のような、深い情愛を育てていっていたのでしょう。ときにドミトリーが戯れのように恋情を表すことがあっても、イリナは優雅にいなしてきたのでしょう。そういうことが、この舞台のこの場面のふたりを観ているだけで、自然と想像されるのです。
 大公が皇帝をかばって凶弾に倒れ、世界大戦が勃発し、皇族として軍隊や民衆を鼓舞するためにあえて前線に出たドミトリーの生き方は、いかにもロマノフの血を引く者の考え方であり、それはセルゲイ大公も確かにそうだったもので、「叔父上に似ているとしたら、嫌だな」と言われてもやはり争えないその血ゆえのものなのでした。それでもドミトリー自身は単に血とか皇族の義務からとかではなく、自分の考えで選んで生きているのだと言い張り、「なんのためにどう生きるかは自分で決める」と言うのです。そしてそれはお嫁に来ただけだけれどすでに立派なロマノフでもあるつもりのイリナも同じで、野戦病院で従軍看護婦として働くことを決心している…この物語は、己が信念に従って生きようとするふたりが今別れんとするところからそもそも始まるのでした。
 公の場でないからいいでしょう? 僕の望みを叶えてくれたらあなたの望みどおり首都に行くからいいでしょう? …いたずらっぽく提案してイリナをダンスに誘うドミトリーと、踊っているうちにやっぱり楽しくなってしまうイリナがともにいじらしい。主役のいない壮行パーティーの会場ではブツブツした蓄音機から流れるだけだった曲が、ここでは優雅なBGMとして流れるのも美しい。
 でもドミトリーがそのままキスになだれ込もうとすると、さすがにイリナはそれは拒否する。それでドミトリーはちょっとおどけてみせて、騎士として貴女の命令に従います、なんて言ってみせる。でも返す刀でイリナに驚かされ、「寂しくなったら言ってちょうだい」なんて軽口が言えるイリナの方がやっぱり一枚上手なのかもしれません。
 ともあれこの難しい時代に、ロマノフの末裔として、それぞれ誠実に生きることを選び誓い合ったふたりは、ひととき静かに別れる…ここでのまぁ様のソロへの前奏の入り方の素晴らしいこと! いかにも主役が一曲歌います、みたいなタイミングではあるんだけれど、物語の空気をうまくまとったまま銀橋に出て囁くように歌い出すまぁ様が素敵ですし、何度か観たあとではお芝居のラストに再びこの渡り方、この歌でドミトリーが現れるフラッシュバックがすでに襲ってきて、もう本当につらいのでした…
 ニクい演出すぎますよくーみん…!

 そして私が前回の記事で書いた、皇帝一家と皇太后・貴族一派がものすごく対立していることの描写がもっとあった方がいいのでは、みたいなことは、私が見えていなかっただけでちゃんと第3場で描かれていたのでした。赤絨毯の大階段をバックに任官式で踊るコンスタンチンさんの唇の端に笑みがひらめくのに気を取られすぎて(なんなのキャラ違うじゃんやっぱ軍人だから嬉しくてハイになっちゃうのなんなの素敵やめてイエもっとしてー!)そのあと彼を追っかけすぎてしまい、ドミトリーが皇太后派の貴族たちにことごとくスルーされる流れを完全に見落としていました…皇帝一家の孤立もここでまたきちんと描かれており、離宮に下宿することで彼もまた微妙な立場に立たされていることもちゃんと描かれていたのでした。
 この場面の不安げな音楽の終わり方がたまりません。上手い!

 ジプシー酒場ツィンカの場面は、コンスタンチンとラッダの逢瀬に割って入るそらマキシムの憎々しい低い声が本当にいいですよね…そして貴族のボンボンと酒場の女といったら『バレンシアの熱い花』のロドリーゴとイサベラと同じなんだけど、ラモンに平手打ちを返したロドリーゴと違って打たれるがままのコンスタンチンったらもう…そもそもドツかれて抗弁するのも微笑みながらだし、殴られて立ち去る前にラッダに謝るときにも笑みを絶やさないし…それは優しさや誠意というよりは笑ってとりつくろうとする彼の弱さなのかもしれないけれど、でも彼はそういう人なのよ…そしてやっぱりラッダは、たとえ花が腹の足しにならなかったとしてももらって嬉しかった、貴族の令嬢のように丁重に扱われて優しい言葉をかけてもらって、嬉しかったと思うのよ…それは弟ゾバールとどんなに堅い絆で結ばれていたのだとしても、彼からは与えられなかったものなのでしょう。
 そしてここで一瞬友達になるアレクセイとミーチャね…子供同志はすぐ仲良くなれる、そのすこやかな愛しさ美しさと、でものちにアレクセイは皇太子として銃殺されるしミーチャもコンスタンチンを助けようとしたドミトリーに射殺されてしまう…くーみんホント鬼だな!? でもホントに上手いです。
「神父様のところにつれていって、早く!」
 という悲痛なオリガの叫び声が、いい。まどかちゃんはまだ台詞が流れるところもあるんだけれど、こういう絶叫がちゃんとできるところを私はとても買っています。あとこの場面終わりの照明が本当に素晴らしい。

 愛ちゃんラスプーチンの素晴らしき怪演については今さら言いますまい。祈祷に踊らされる民衆たちもちょっと怖くて、たとえば本来スミレコードというものはこういうところにも発動されるべきものなのではないかと思うのだけれど、ギリギリのところかと思いますし、ざらりとした感触を残してくれて、いいですね。アレクセイを黒いマントで包んだラスプーチンのセリ下がりと被せるように、ドミトリーとフェリックスを登場させる流れも本当に見事です。
 続くドミトリーと皇后アレクサンドラの会話で私が引っかかっているのは、短い台詞の中で二度出る「彼」が最初はラスプーチンのことで次はフェリックスのことであること。あそこは改善した方がわかりやすいと思います。
 それはともかく、ここのりんきらも本当に素晴らしい。そしてこの場面の終わり際、フェリックスがドミトリーの手を握ってから退場する振りが初日の舞台稽古でついたという恐ろしさよ…!

 続く第6場のセットがまた素晴らしいですよね。隙間があって、盆が回っても奥が見えるところが素晴らしい。マリアの紹介でオリガの世界が開けていくのが見える一方で、ドミトリーとイリナ、そして乱入するフェリックスの会話がなされます。
 ベタなチャイコフスキーの使い方はやっぱり謎で、これからバレエの『白鳥の湖』を観るたびに思い出してしまいそうですけれど。
 ドミトリーがちょっとはしゃぎすぎてふざけてしまい、イリナにたしなめられるように手荒れを見せられるところも、ちょっと『翼ある人びと』にありそうで個人的には引っかかるのですが、まあ中の人が同じなのだし仕方ないのかな。手袋を脱いで素手を見せるというのはなかなか色っぽいですね。
 その流れでオリガとの結婚話を持ち出すのはドミトリーのささやかな復讐なのかもしれないし、本当に迷っているのかもしれません。イリナとしてはいいことだと思うとしか言えませんよね。フェリックスは「結婚してほしいの?」という言い方をしますが、そう言われたらもちろん本当はしてほしくないんだけれど、そもそもしてほしいとかほしくないとか口を出す権利なんかないわけで…とまっとうに考えるのがイリナで、それはフェリックスもわかっているんだろうけれどだからこそ拗ねて激昂しちゃうんですよね。フェリックスもそもそもドミトリーとは結婚できないんだから、逆に言えば誰が嫁に来ても関係ないと考えるようになってもいいようなものなのに、やっぱり嫌で妬いちゃうんですね。これは初日から改変された台詞だと思うのだけれど「婿入り」というのがまた的確でわかりやすい言葉で、いい。
 そしてどこにでも現れるラスプーチン…ドミトリーは王子様としてオリガを守り、ともに立ち去り、そして彼女との結婚を決意したのでしょう。皇室と、国への責任を改めて感じた、と言ってもいいのかもしれません。

 一方ですっかりラッダと恋仲になっているコンスタンチンですが、描かれていない間にナニがあったのかしらねワクテカ! 結婚を持ち出して、キスされて、それは口をふさぐためのものだとわかって、つまり今はまだラッダにはその気はないんだなとわかって、だからちゃんと引き下がるのがコンスタンチンくんなんですけれど、ラッダは恋する乙女だからちょっと不安になっちゃって「怒ったんだね」とか言っちゃうんですよね。ささやかな痴話トークですが、それがラッダをつけてきたゾバールに機密が漏れることにつながるワケで…くーみんってホント(以下略)。
 第9場のマリアの煙草ネタが本当に素晴らしい。そしてもえこロマン、ごめんね台詞だけで殺してしまって…(ToT)
 ここで兵士たちが駆け込んでこなければ、ドミトリーはたとえ嘘でも「オリガを愛していきます」と言ったと思うんですよね…
 続く第10場の銀橋のありさラッダの台詞はちょっと緩急がなくて実は私はもの足りないと思っているのだけれど、ずんちゃんゾバールのギラギラさは素晴らしいですよね。彼は両親の復讐を姉に誓い世界をともに変えることを誓ったんですよね。「世界を革命する!」ですよヤバい。シスコン以上の情念と執着、狂気を感じさせて素晴らしい。姉と別れたことで彼の暴走はスピードアップするのです、コンスタンチンくんがホント結果的にいろいろごめん…
 酒場でうそぶくゾバール、でもドミトリーたちに踏み込まれて、そして…もう本当に本当にコンスタンチンの中の人のファンとしては謝るしかない展開です。ミーチャ、すまん…!
 ともあれ、イリナを殺そうとした者たちを捕らえるため、そしてコンスタンチンを危機から救うため、手を汚したドミトリーはついに悟るのでした。暴力でしか守れないものがある、得られない結果がある、と…

 そしてトップ娘役でもなかなかしないような、長いトレーンを引いて銀橋を渡るりんきらアレクサンドラ様よ…! 付き従う愛ちゃんラスプーチンが完全にうつむいていて顔も見せなくて不吉な影みたいになっているのがまた素晴らしい。入れ替わるようにしてドミトリーが銀橋に出てきて…こんな劇的な銀橋の使い方を私は他に知りません。
 これまた以前の記事で、私は仮にも宝塚歌劇の主人公が、トップスターが演じる主人公が暗殺、テロに走るなんて、と書いたものでしたが、ここでラスプーチンが全然簡単に死んでくれなくて、だからドミトリーとしてももう仕方なく手に掛けるしかなくて…というフォローがちゃんと効いているんですよね。これまた私の不明でした。
 放心したドミトリーが階段をゆっくり、ただ上がっていく演出も素晴らしい。「捕えなさい!」というアレクサンドラの悲鳴だけが残る…
 ラスプーチン暗殺に狂喜する民衆を扇動するかのようにしてやっとフェリックスのソロが来るんだけれど、やはり彼には、ドミトリー絡みでもう一押しなんらかの場面、なんらかのエピソードが入れられていたらベストだったでしょうね。手を触っていくだけじゃなくてさ(^^;)。
 クーデターは失敗し、ドミトリーは逮捕される。ラスプーチンを殺した救国の英雄への処罰に民衆は怒り狂い、ラスプーチンの幻の扇動もあって革命への気運が高まっていく。国民に譲歩するようにと言うオリガの願いはアレクサンドラに受け入れられず、ドミトリーはペルシャ戦線に送られることになる。死ぬのが確実の激戦地に…だがドミトリーはそれを受け入れる。冒頭にあった、銃声と雷鳴のコンボが再び現れるのも見事です。
 私が以前の記事で書いた、イリナが一連の顛末をどう考えているのかはやはり描かれていません。それは必要ないとされているのですね。彼女が事態を浅ましいことと思っていようが仕方なかったと考えていようが起きたことは起きたことで、彼女にどうすることもできなかったことで、ペルシャに発ったというドミトリーに対してももう何をしてあげられるわけでもないのですから、描く必要はないのでしょう。ただイリナもまたひとりのロマノフとして、国民の犠牲の上に暮らしてきた貴族として、国から逃げ出すことなどせずに責任を取ろうとしている、ということが語られます。亡命など考えられないし、それはドミトリーも同じだろう、と思っている…それは、十分に伝わります。離れていても、ふたりは同じように行動するのだ、ということが顕わになっているのです。
 彼が現れて、イリナは驚く。そのときのドミトリーの「僕はあなたがかわいそうだった」という言葉の、なんとシンプルで、でも豊かで深いことか…それは単なる同情なんかではもちろんなく、我が身以上に相手のことを想う、愛おしむ、慈しむ、その幸福を祈るという告白です。
 ゆっくりと近づいてくるドミトリーをもはやイリナは拒みません。キスも受け入れる。それでドミトリーはさらにキスを深め、ドミトリーの背に回されたイリナの手が強く握りしめられる。最後だから、最後の夜だけのことだから。ふたりを裁くものはただ神のみ…!

 ドミトリーを愛し、しかしまったく違う生き方をしているフェリックスは、母親に頼んで外国への亡命の手配をして、ドミトリーを迎えに来る。邪魔するなと言われたふたりの散歩に割って入りにいく。
 広い、見渡す限り雪景色の大地で、静かな散歩を楽しむドミトリーとイリナ。ここの「教科書なんてくそくらえ!」で、私は『誰がために鐘は鳴る』のアグスティンの「戦争なんてくだらねえ!」の絶叫を思い起こしました。やはりあちらの方がわかりやすい台詞です。この「教科書」は世の中のすべての規範とかルールとか、それこそロマノフとしての義務とか責任とか、愛に反するすべてのことごと、そういったもの全部が含められているのでしょう。それを最後の最後に「くそくらえ」と言って泣くイリナ。本当は愛を一番に、愛だけを選びたかったのに…いう想いをこういう言葉で表させるくーみんよ…! 美しい顔を涙でぐちゃぐちゃに歪め泣くイリナに、ドミトリーは抱きしめてその顔を覆ってやることしかできない。ふたりでどこへでも逃げちゃえばいいのに、と観客みんなが思います。しかしそこに憲兵ならぬフェリックスの車が来てしまうのでした。だからなおさら、「僕は行かない」になるのです。そしてフェリックスは「車で待つ!」としか言えないのです。
 ドミトリーはずっと呼びたかった結婚前のイリナの名を最後に呼んで、立ち去ります。「我が麗しのイレーネ」…なんという詩的な響き。かつてイリナに憧れてつきまとったオリガは彼女を「麗しのイレーネ」と呼びました。ドミトリーは万感の「我が」をつけて呼んだのです。「イリナよ」と言われても「イレーネ」と呼んで、去る。その明るい笑顔に泣かされます。その笑顔がイリナの胸に焼きついたことでしょう…

 革命が起きて皇帝一家は銃殺され、イリナも獄死します。いわゆるナレ死ですが、これまた上手いと思いました。
 フェリックスはマリアやジナイーダ、妻アリーナとともにニューヨークに亡命し、三流絵画をロマノフの遺産と偽って成金に売りつけたりしている。ドミトリーも一時期は一緒にいたのかもしれませんが、体の傷が癒えたのか、今はどこかへ行っていて、送った手紙も届かない。
 彼が今どこでどう暮らしているのかは、もはや問題ではないのです。彼の想いは今もなお、ロシアの大地に戻っていく。すっしぃマリアの台詞はいかにもサヨナラ公演らしいもので、こんなある種の迎合をくーみんがしてくれることに驚きと感謝しかありません。こういうの、大事です。
 いつか必ず帰るロシアの地とは宝塚歌劇のことであり舞台のことであり板の上のことであり、そこに現れる神々とは現役含め今までそこに立ってきたすべてのタカラジェンヌのことでしょう。彼女たちこそが神なのです。
 最終場。大地の記憶のように、かつてそこに生きた人々が再び現れ、踊り、行き交う。コンスタンチンとラッダの視線が合うことはありません。それは泡沫の夢だったのでしょう。中の人が言うとおり、彼はきっと脱獄や亡命などせず、逮捕されたまま処刑されて果てたのでしょうね…
 カゲソロはずんちゃんかな? もちろん美声で選ばれたのかもしれませんが、ラッダが歌った歌詞のバージョン違いなので、ゾバールの歌のようでもあり、民衆代表としての歌のようでもあります。
 人々が去り、最後に残って見つめ合うのは、ドミトリーとイリナ。お互いに向かってゆっくりと歩み始めたところで、幕…
 こんなにがっつり相手役なら、この公演だけでもトップ娘役として…!と思わないでもないのですが、それはくーみんにはどうしようもないことなのでしょうし、だからこそ意地でも、のこのヒロインだったのかもしれません。

 前回の記事へのコメントで気づかされたのですが、確かに私は柴田スキーですし、それはわかりやすく色恋をテーマにしていることでエンタメ性、普遍性が高くなっていることを評価しているからなんですね。
 それからすると色恋以上にキャラクターの生きざま、人生みたいなものを描こうとしているくーみんは、わかりづらく見えるしエンタメ度、普遍性が低く見えて、その点で私は不満に思うというか、もの足りなく感じるというか、両方取ってさらに高みを目指してくださいよと強欲になるというか、なのでしょう。でもやっと『AfO』みたいな全方向に伝わる作品がオリジナルでできたのだから、一方でくーみんや大野先生みたいな趣向と世界観の作品も増えていってもいいのかもしれない、とも思うようになりました。
 あの土地に、雪の中に、早くまた行きたいです。次の観劇が本当に楽しみです。


シベリアの風よ答えておくれよ
あの人がどこへ行ったか
大地よ答えて私はどこへ消えるのか
土よ雪よ聞いてくれ
嘆き叫ぶこの声を
おまえに刻もう 我ら生きてるこの証を
踊れ踊れこの土に
歌え歌えこの命
はかない恋とおまえのために歌った歌
歌って大地よ
私がどこかへ消えても
この日々生きた場所だけ覚えているこの歌を

土よ雪よ ただ歌え
光る夏に巡る冬に
祖国への愛を 尽きぬ我が愛我が想いを
草よ木々よ ただ歌え
遅い春に急ぐ秋に
あなたへの愛を 消えぬ我が愛我が想いを
覚えていてくれ僕がすべてを忘れても
あの日々生きた場所だけ 覚えているこの愛を
あの日々生きた場所だけ 覚えているこの愛を
 



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