駒子の備忘録

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『トーマの心臓』再読

2021年05月05日 | 愛蔵コミック・コラム/著者名は行
 私が持っているフラワーコミックス全3巻はPP貼りされていないカバーが折り目からもはや崩壊しそうなので、今回は『萩尾望都Perfect Selection』の1、2巻の方で再読しました。これは連載時のカラーや扉をそのままに収録していて、紙が良くて印刷が綺麗で、A5版と大きいので目に優しく、2巻の方には『訪問者』と『11月のギムナジウム』も収録されている優れものです。が、私はフラワーコミックス版がすでに血肉になっているので、連載の切れ目には毎度「ここで区切れるんだ!?」と驚くことになるのでした。
 舞台化のときに初めて『ポーの一族』を読んだ、というような方々は、主に時間経過描写というか話が時系列順に並んでいないことに関して読みにくさを訴えることが多かった印象があるのですが、この作品もまたそう感じる方々には「読みにくい、わかりにくい」と言われてしまうのだろうな、と改めて思いました。そこが苦にならない人、むしろ好きな人にはそここそがたまらないのだし、こんな構成のお話をよくも考えられるものだな!?と感心し感動するんですけれどね…
 そしてそういう漫画的な演出のことを全部抜きにしても、この素材というかテーマでお話を作る、ということがもうものすごいことだと改めて思います。だって多分作者は多くの日本人同様に、別に特になんらかの宗派の信徒とかいうことは全然ないんだろうと思うのですよ。漠然とした信心みたいなものはあるにせよ、それはお日さまのお恵みとかそうしたものに対してのものであって、さ。それなのに、この時代のこの国のこういう両親から生まれたこういう家庭の育ちのこういう人となりの少年の神様への信仰が、いかに裏切られその後どうなったか、というテーマで少女漫画を一本描くだなんて、並みの天才ではできない所業だと思います。ザッツ・天才of天才…!
「100分de萩尾望都」の中で、サイフリートたちがユーリにした「お遊び」「実証」には性暴力、もっと言えば強姦も含まれる、みたいなことを言うパネリストがいましたが、私は当時も今もその意見には与しません。私個人はそう読み取ったことはなく、またいろいろ考えてもそう読みたくはないのでした。今の再読の流れでいうと、これは「少年愛漫画」ではないと私は考えるから、というのもあります。作品冒頭に「この少年としての愛が 性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって 投げだされる」とあるとおり、これは性未分化の時を生きる者たちの物語で、同性同士だったのはたまたまこの時代のこの国の教育システムがこうしたものだったから、というだけのことにすぎないのではないかと考えているからでもあります(これはちょっと、卵か先か鶏が先か、感はありますが)。
 何より、そんな過剰さが要らないくらい、ユーリは十分に傷つけられたわけじゃないですか。神を捨てさせられるということがどんなにひどいことか、無宗教で無信心な私でも、いやそんな私だからこそわかります。特定の宗派に属すことがなくても、人はだいたいは本来的に、何か温かいもの、優しいもの、たとえばお日さまの恵みみたいなそういったもののありがたさを知っていて、それらを愛し敬い信じ感謝して生きるものじゃないですか。それを否定させられるのですから、人として生きる根本をもがれるも同然です。
 もちろん本当は神は人に応えることなどしないものであり、それはたとえば有名なところではその名もずばり『沈黙』という作品もあるわけですが(というかそういう意味ではもちろん神などいないわけですが)、それとこれとは別問題です。一個人によって暴力をもって強制的に否定させられる、その暴力性、卑劣さにむしろ心が折れるということです。そしてその心や魂の傷の前に、そうした暴力の前に、身体が、あるいは性器(あるいはそれ以外の器官? 内臓??)が傷つけられることなどなんだというのでしょう、と私は考えるからです。せめてそれくらいは守られていてほしい、というのもあるけれど、やはりそれはもはや必要のない観点だと思う、とでも言えばいいのかな…もちろんまず肉体的な痛みに耐えかねて神を捨てるに至るのだけれど、それは殴る蹴るだの鞭打ちだの煙草の火を押しつけるだので十分じゃないですか。そんな痛みくらい耐えられてしかるべきだ、もっとひどい痛みがなければこうはならない、だからレイプもあったんだ、などと言う人のことは私は信じられない。私は痛いのは嫌です。アッシュは特例で、そして彼自身はそんな特例をまったく希望していなかったのです。この悲しさ、過酷さがわからない人とは話ができない。肉体的な痛みに屈して神を捨て魂を売った、他人に暴力によって売らされた、という事実とその恥辱は、性的に陵辱されたかどうかなんてものを軽く上書きし凌駕してしまうものだと私は思うのです。それは別に性的なものを軽視している、とかではなくて、単に位相の差の問題だと思う。
 そしてユーリは「ぼくにはなんの価値もな」いと思うようになり、「自分はだれも愛してはいないのだといいきかせ」て日々を送り、だからトーマの好意も無視し、けれどトーマはユーリを愛していたので、ハナから「ただいっさいをなにがあろうと許していた」のです。
 本当は、私は弱虫なので、だからといってトーマがこんなふうに「ゆく」ことができることが実は信じられません。少なくとも自分にできる自信は全然ない。そりゃトーマは「恋神」だったのかもしれないけれど、それはあくまで喩えであって、そこまで特殊な聖人とかではなかったはずです。でもとても誰にでもできることだとは思えない。「からだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない」とは私は思えない。
 だからそこはお話なのではないか、と思います。でもあたりまえですよね、これは「お話」なのです。そして初めて読んだ当時は「それがわかった時」のユーリが神学校への転校を決意することにも納得しがたいものを感じていたのですが、それはやはり私が無宗教だからで、これはお話であり舞台はキリスト教世界なんだからそらそうなるんだよな、それが「お話」としてのあるべき流れだよな、と少し大人になると理解するようになりました。しかしそこまで描ける1974年の少女漫画なんて、いや少年漫画であれ青年漫画であれ小説であれ映画であれ、そんな「お話」があったか? いやない、ここにしかなかったのだ、なんなら現在に至るまでなお似たものすらないのだ…という厳然たる事実に、改めて心震えます。
 やはり名作、傑作です。このターン、結局それしか言ってないな私…

 しかしそれからすると『11月の~』にはあまり神様臭(言い方…)がないのですね。『訪問者』にはもちろんある、そもそもタイトルロールです。
 思えば『11月の~』は不思議な作品です。「キャラが同じ」と解説されているけれど、キャラクターのファーストネームとデザインが同じなだけでキャラ、つまり性格というか人となりはだいぶニュアンスが違うものが多い。オスカーだけは名字も同じなのですが(ここにオスカーの特別性を感じます。私はユーリがもちろん大好きなんだけど、結局はオスカーが一番好きなのかなあ…自分の作ったキャラクターにも名付けたしなあ…てかそんな人、何万人といそうですよね…)、オスカーのキャラもわりと違います。これまた違ったトーマの、いうなれば念者みたいなこのオスカーも、私はかなり好きです。
 そしてここのオスカーとトーマのカップル感のせいか、この作品はかなり少年愛漫画だと思います。ラストといい、単なるエーリクとトーマの兄弟ものではないと思う。そういう意味でも不思議な「スライド」をした作品だと思います。
『訪問者』までのセットは絶対にあった方がいいと思うけれど、『11月の~』はちょっと別かもしれません。「全然関係のない、別のお話」と解説されてもいますし、いわゆる手塚治虫式スターシステムで描かれたもの、と解釈する方がよくて、かつ内容が微妙に近くて違うだけに、むしろあえて棲み分けた方がいいのではないか、とも思うのでした。


 ちなみに持っているのを忘れていたくらいの森博嗣『トーマの心臓』(メディアファクトリー)も再読しました。「『トーマの心臓』の美しさの本質を再現したかった」という趣旨の企画のようなのですが、小説化というより謎のパラレル・ノベライズで、一応オスカーの一人称視点なんですけど、なんせ舞台がなんちゃって日本だし、キャラもエピソードも少しずつ歪んだようにねじれたように違っていて、別になんの「本質」も描かれていないと思われる代物です。ファンの二次創作だとしても出来が悪い。造本が美しいのと、描き下ろしの挿絵が数点あることだけに意味があるような本だと私は思います。しょぼん。





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