映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

ラブレス(2017年)

2018-04-15 | 【ら】



 モスクワで暮らすジェーニャとボリス夫婦は、そこそこ裕福だが、夫婦関係はとっくに破綻していた。お互い離婚の意思は一致しているものの、一つだけ問題があった。

 それは12歳になった息子のアレクセイをどうするか、ということ。なぜなら、ジェーニャにもボリスにも、もう恋人がおり、2人とも新しいパートナーと人生仕切り直したいと考えているからだ。新生活にアレクセイは、邪魔なのだ。そんな、自分を押し付け合い罵り合っている両親の大喧嘩を、アレクセイは聞いてしまう。

 一人哀しみ泣いていたアレクセイは、ある日、夫婦の前から姿を忽然と消してしまう。慌ててアレクセイを探す夫婦だが、息子の行方は杳として知れない。果たしてアレクセイはどこへ行ったのか、、、。 
   
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 衝撃的な予告編の映像にKOされて、迷わず劇場へ。……見ているのが辛かった、、、がーん。


◆顔も見たくない、声も聞きたくない、同じ空気吸いたくない!!!

 予告編を見てそそられたのもあるけど、本作の監督が、あの『裁かれるは善人のみ』と同じ人だと知ったから、ってのも見たいと思った一因。アンドレイ・ズビャギンツェフ、、、と、絶対覚えられないお名前。『裁かれる~』も、結構、見ていてしんどかったけど、本作はしんどいというより、辛い、キツい、という感じだった。

 というのも、内容が本作は子どもがいなくなっちゃう話だから、ってのが大きい。どちらの作品も、人間のエゴを描いているけど、本作の方がより直截的で辛辣。しかも、そのしわ寄せが幼い子どもに向かうという、最悪の展開。嗚呼、、、。

 寒々とした風景の描写とか、全体に暗い画面とか、でもとても美しい映像なのは前作と同じだった。前作は朴訥な語り口だったけれど、本作は淡々としていて、しかし、実にエグい描写が続くので辛いのよ。なんか、容赦がない、ここまで醜い描写って、怖い。まあ、確実に誰もが持ち合わせている嫌な一面を抉っていて、ある意味、破壊的な説得力を持っている。誰も、こんなことただの映画での話、なんて言えないはず。

 とにかく、ジェーニャとボリス夫婦が、互いにその存在がストレスの要因としかなっていないという、悲惨な関係で、それをまあ、これでもかこれでもかと描く。しかも、実にリアリティがある描写の連続。私も、実態のまるでない結婚生活数ヶ月での離婚を経験したが、この夫婦の、というかジェーニャの心理が手に取るように分かってしまうのが苦笑ものだった。同じ空間にいると衝突しか起きない関係。同じ空気を吸っているのも不快、相手のあらゆる言動が不快、もう理屈じゃない。とにかく、物理的に離れるしか解決策はない。

 夫婦関係がこじれたことのない人から見ると、何でジェーニャはあんなにボリスにすぐに突っかかった物言いをするのか、と不思議に思うだろうけど、あれはねぇ、ああなるのよ、マジで。しかも、このボリスという夫、ジェーニャ以上に身勝手。なぜなら、自分はアレクセイを引き取る気など1ミリもないくせに、ジェーニャには「母親が引き取るのが普通だ。施設なんかに入れたら母親が責められるぞ」とかほざくわけだ。こんな男だったら、穏やかに口をきく気にもなれないのはよく分かる。

 そして、夫婦が破綻して一番犠牲になるのは子どもだ。仮面夫婦を続けるにしろ、離婚するにしろ、子どもは計り知れない影響を受ける。

 序盤、ジェーニャのアレクセイへの態度は非常に憤りを覚えるものがある。いくら、夫が嫌いでも、思いがけず授かった息子でも、あれは母親としてはサイテーだ。

 ジェーニャがそんな風になったのは、ジェーニャ自身が母親と関係が悪かったから、ということになっている。母娘関係が悪いのは、確かに、娘の子育てに影を落とすだろうと思う。しかし、それはジェーニャの言動を正当化する理由には全くならない。

 作中、夫婦とアレクセイのそれなりに仲良さげな家族写真も出てくるので、恐らく、年中ジェーニャがあのようにアレクセイに接していたのではないだろうけれど、少なくとも、息子を押し付け合う夫婦の詰り合いを、息子に聞かれるかも知れない状況でしてしまうジェーニャとボリスは、親としてサイテーであることだけは間違いない。

 とはいえ、アレクセイは、夫婦が破綻していることをとっくに知っている。両親の仲が悪い家庭で育つ子どもは、早く大人になることを余儀なくされるのだ。アレクセイは少年だけれど、恐らく、相当に悩み、考え、精神的には両親よりも大人になっていただろうと思う。だからこそ、両親を早々に見限ったのだ。


◆ロクでもない大人たちと、ボランティアの人々。

 本作に出てくる大人は、ボランティアでアレクセイを捜索してくれる人たちを除いて、皆例外なくロクでもない人間ばかり。

 特に、私が嫌いだと思ったのが、ジェーニャの恋人であるオッサン。このオッサン、ジェーニャが、アレクセイを愛せない理由(母親に愛されずに育ち、ボリスなんて好きでもないけどたまたま妊娠したから産んじゃっただけで、妊娠さえしなきゃ良かった!!みたいな内容)を寝物語で語るわけだが、それをヘラヘラ笑って聞いている。そして、ジェーニャが「私ってモンスターかしら?」と言うと、そのオッサンは「世界一素敵なモンスターだ」とか言うんだよね。

 私がこのオッサンだったら、母親と仲が悪かろうが、夫を嫌っていようが、それはゼンゼン構わないが、我が子を産まなきゃ良かったと堂々と言う女のことは信用できないと思う。あまりにも無責任すぎるから。こういう女は、結局、どういう状況でも不満を探して文句ばかり言う女と相場が決まっている。そんなことに、イイ歳こいたオヤジ面下げて気がつきもしないなんて、頭が悪すぎると思ってしまう。

 まあ、そんなオッサンだから、ジェーニャなんぞに引っ掛かるんだろうけれども。

 ボリスの若い恋人も、ちょっとなぁ、、、という感じではあるけれど、まあ、ああいう女性は一杯いそうな気もする。ジェーニャの母親は、ロクでもないけど、ジェーニャが妊娠したときに「堕ろせ」と言ったというのは、ある意味、親として真っ当な対応だとも思う。子育ては綺麗事では済まないからね。

 『裁かれる~』に出て来ていた大人たちも、確かみんな自己チューだった。あちらは宗教がらみで余計に胡散臭さがあったけれど、こっちは、醜い人間性が全開になってこれでもかと描写し、こっちとしては自分の姿を見せつけられているような感じで、おぞましさに襲われる。

 監督のズビャギンツェフは、パンフのインタビューでこんなことを言っている。

 「私は悲観的なのではありません、現実的なのです。もし、このストーリーをもっと楽観的なものにしていたら、観客はきっと、悪いのは相手や状況の方で、自分が変わる必要はないと思うでしょう。私は、“これではいけない、自分こそが変わらなきゃいけないんだ”と思って欲しいのです」

 「他人への思いやり、共感、尊敬がいかに大事なことか。これこそが、人間性が失われつつある現代人への警告なのです」


 ……“人間性が失われつつある現代人”ってのは???だけど、確かに本作は現実的だし、周囲への思いやり・尊敬が欠けると、こうなるという悲劇の典型を描いている。

 本作で、アレクセイをボランティアで探索する人たちがいて、これは、実際にロシアにあるボランティア団体をモデルにしているそう。よくぞここまで赤の他人のために、、、と思うほど、その捜索ぶりは徹底している。そして、本作でもロシアの警察がいかに無能かが描かれており、このようなボランティアが生まれる背景となっている、ということらしい。

 監督の言葉は、自分のことしか考えないロクでもない両親やその恋人と、無私で他人のために動く、まさしく思いやりとを、対照的に物語っている。


◆アレクセイは帰ってくるのか?

 以下、盛大なネタバレなので、未見の方はご注意を。

 そう、見る人が全員気になる、“果たしてアレクセイはいずこへ?”である。

 結論から言うと、アレクセイは不明のまま、本作は終わる。アレクセイがいなくなったのが2012年、本作のエンディングが2015年だから、3年経っても行方知れずのまま、ということだ。

 私は、アレクセイは、最初から、もう戻ってこないつもりで家を出たのだろうと思う。だから、きっと、どこかでサバイバルしているはずだと、見終わってから思った。明確な根拠はないけれど、家を出る日の朝の、ジェーニャとの会話や、防犯カメラに映らないルートで行方をくらましていることなどから、帰らぬ意思を持っていたと感じたし、結果的に発見されなかったことで、さらにその感を強く抱いた次第。

 アレクセイという我が息子が不明となったことで、ジェーニャとボリスには、計り知れない罪悪感がのし掛かったのか、互いに新生活を始めてはいるが、どちらも決して幸せそうでない描写で本作は終わる。

 では、このアレクセイ失踪事件がなく、当初の予定通りアレクセイを寄宿舎に入れていれば、2人の新生活は幸せなものになっていたのだろうか?

 まあ、なっていたかも知れないが、多分、結果は同じだったろうと思う。何か上手く行かないときに、周りのせいにして環境を変えてみたところで、監督の言葉通り、自分が以前と同じ自分であれば、同じ結果しか得られないのだろう、と思う。

 アレクセイは、こんな愚かな両親から離れて正解だったのだ。きっと、どこかで逞しく自分の人生を切り開いているに違いない。そう思わなければ、あまりにも本作は報われない。


  






ラブレスというより、ナルシシズムだろうね、これは。




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