映画 ご(誤)鑑賞日記

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女は二度決断する(2017年)

2018-04-22 | 【お】



 ドイツ人女性カティヤと、トルコ系移民ヌーリ、一人息子で6歳のロッコは、ドイツ北部のハンブルクで幸せに暮らしていた。しかし、ある日、ヌーリの事務所の前に仕掛けられた爆弾が炸裂し、事務所内にいたヌーリとロッコは即死した。

 一人残されたカティヤは、検挙されたネオナチの夫婦の刑事裁判に参加する。裁判は、ネオナチ夫婦を有罪にできるかに見えたが、彼らのアリバイを証言する者が現れるなど、雲行きが怪しくなり、結果的に、夫婦に無罪判決が下る。

 再び絶望の底に突き落とされたカティヤは、ネオナチ夫婦のアリバイを証言したギリシア人の下を訪れ、その証言が偽証であることを突き止め、ある決意をするのだが、、、。
   
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 あちこちで紹介されていて、一応、見ておこうと思った次第。この結末を受け容れられるか否かで、本作品への評価も分かれるでしょう。ネタバレ満載なので、未見の方はご注意ください。


◆また出た、ポリティカル・コレクトネスを問う記事。

 なんだか言い訳みたいだけど、私はこの結末、頭では受け容れられないが、気持ち的には大いに共感できる。なので、股裂き状態なのだけれども、本作は良い映画だと思う。

 結論から言うと、カティヤは、このネオナチ夫婦の逃亡先まで出向いていって、彼らの暮らすキャンピングカーに自作の爆弾を抱いて乗り込み、彼らと共に爆死するのである。つまり、自爆によって、夫と息子の復讐を果たす、ということ。

 この結末に対し、某新聞で「「目には目を」の映画 いいのか」という見出しで、ファティ・アキン監督へのインタビューが掲載されていた。この記事を書いた記者(映画関連記事でよく目にするお名前で編集委員)は、明らかにこの結末に対し不満を持っており、というよりも、もっと言うと“間違っている”とさえ言いたげな書きっぷりであった。

 曰く「裁判をここまで感情的に描写すると、「推定無罪」など近代法の根本を否定し、時計の針を「目には目を」というハムラビ法典の時代にまで戻しかねない」、曰く「優れた映画は優れたプロパガンダになりうる。この映画も「裁判じゃラチがあかない」と思わせる破壊力を持つのでは?」、曰く「果たして芸術で優先されるべきは理性なのか、感情なのか」といった具合。

 記者の言いたいことは分かるし、私も、正直本作を見終わった直後、それは感じた。これでは、結局、何ら前向きな解決につながらないではないか、という感覚。

 でも、それは結局、ポリティカル・コレクトネスを創作活動に求めることに他ならず、非常に虚しいことである。そして、私は、その感覚以上に、カティヤの心情を考えると、むべなるかな、、、という感覚に支配されたのである。それに、映画とは、社会問題の解決策を提示するために撮るのではない。

 前述の記事で、アキン監督は「法律が人間の感情を満足させられないのも事実」と言っている。それはまさにその通りで、現実には法治社会に生きる人間として、法の裁きの不条理感や無念さを抱えながら葛藤して生きていくわけだが、出来ることならこの手で加害者に制裁を加えてやりたいと怒りを持ち続ける被害者や遺族がいるのは当然で、本作のカティヤはそれを実行に移してしまったわけだ。

 もちろん、賞賛されるべき行動ではないものの、カティヤの行動を正当性を盾に断罪することも難しい。私が彼女の立場でも、そうしたいと思うだろう。

 カティヤは、一度は、自分で作った爆弾を、ネオナチ夫婦のキャンピングカーの下に仕掛け、自分は安全圏に待避してリモコンのボタンを押そうとする。しかし、そこで思いとどまり、キャンピングカーの下から爆弾を回収するのである。このカティヤの行動が本作におけるキモだと思う。

 つまり、カティヤは自らも爆死することで、復讐と(殺人の)報いを受けるという両立を、彼女なりに果たしたということだろう。それで、彼女の犯した罪が消えるわけではないが、少なくとも、自分だけは安全な場所に待避し、憎むべき相手“だけ”を爆死させては、結局、自分のやったことがネオナチ夫婦と同じ次元に堕ちる、と考えたのではなかろうか。憎むべき人間と同類になるのは、それこそ死んでもイヤだったのだろう。

 自ら死を選ぶことが、彼女の罪に報いることになるとは言えないだろうし、絶望の底にいた彼女にとって自爆がむしろ救いになるかも知れないなど、議論の余地は大いにあると思うが、彼女なりの筋を通したのだ。


◆映画監督の矜持

 前述のアキン監督のインタビューで、私が最も共感を覚えたのは、記者に「この映画も「裁判じゃラチがあかない」と思わせる破壊力を持つのでは?」と聞かれたことに対する答えである。彼はこう言っている。

 「観客は我々の想像以上に成熟しているんです。この作品を見ても、『ネオナチをぶっ殺せ』という短絡にはつながらないと思いますよ」

 優れた映画監督というのは、観客に対する信頼が根底にあると、私は常々感じている。例えばハネケ作品を見ると、それは非常に強く感じる。優れた映画は、肝心なことを描かなかったり、省略したりするものである。そこは、観客の想像力で補わせようとするのだ。

 そして、実際にアキン監督の言うとおり、本作を見て、やられたらやり返しても良いのだ、と考える人は、皆無ではないかも知れないが、ほとんどいないだろう。この記者の問いかけと、監督の立ち位置は、あくまで前提条件が違うのである。創造とはそういうものではなかろうか。

 編集委員ほどのキャリアを重ねた全国紙の記者でも、そこを履き違えるものなのか。この記事を読んで、そもそもこの記者こそ、冷静さを欠いているのでは?と感じたのだが。監督はインタビューの冒頭でこうも言っている。「私自身がカティヤの行動に賛同しているわけではありません。賛同しないが、理解はしています。観客の皆さんもそこは同じだと思う」

 むしろ、アキン監督が本作を見てもらいたい人たち(思想の違いによる殺人を肯定しかねない人たち)ほど、本作を見ないだろう。彼らのアンテナに、本作の情報がポジティブに引っ掛かるとは到底思えない。なぜなら、本作はそれらの人たちを正面から否定しているからだ。そこは明快である。だから、それらの人たちは、本作を敢えて見る必要などないのだ。

 果たして、憎しみの連鎖は断ち切れるものなのか。断ち切るには、そりゃもう、この記者の言うとおり「理性を働かせる」しかないわけよ。そして、大半の人々はそうして、哀しみや怒りと葛藤しながら生きている。復讐譚は嫌いだとどこかでも書いたけれど、結局、連鎖するから嫌いなわけだけど、本作にはあまり嫌悪感を抱かなかった。それは明らかに犯人であるにもかかわらず無罪となった不条理が前提にあって、いわゆる“逆恨み”ではないと考えるからだ。

 私なら、やはり自爆するのは怖ろしさが先に立って、できないと思う。だから、きっと、自らの手で制裁を加えることもできないだろう。妄想は四六時中するだろうが。


◆その他もろもろ

 本作は、実際にドイツであったネオナチによる連続テロ事件に着想を得て撮られた映画とのこと。被害者がトルコ系の移民で、本作のヌーリもそうだったが、過去に麻薬密売に関わっていたなどの経歴から、仲間内の抗争事件との見込み捜査が展開され、ドイツ警察の戦後最大の失態といわれているそうな。初動を誤ったことにより、テロによる被害を拡大させ、大問題になったらしい。

 パンフで、ダイアン・クルーガーが語っているが、いまだに、金髪碧眼のドイツ人と、トルコ系の移民の結婚はタブー視されているとのこと。やはり、そういう民族感情というのは根強いものなのだ、、、。

 ヌーリの事務所が爆破されたとき、カティヤは友人とスパでリフレッシュしていた。それも、彼女の絶望感をさらに深めたに違いない。実際、2人の葬儀の時、ヌーリの母親に「あなたがロッコと一緒にいたら、孫は助かっていたのに」(セリフ正確ではありません)と言われ、彼女は更なる苦しみに苛まれるのだ。

 彼女を支えた弁護士のダニーロの言動にちょっと不可解な点もある。ヌーリとロッコが亡くなり、哀しみに打ちひしがれるカティヤに、ダニーロは薬物(大麻?コカイン?)を手渡すのだ。気分転換にと、、、。それで彼女は警察に調書を取られる。それが裁判に当然不利になる。また、ネオナチ夫婦のアリバイを証言する怪しいギリシア人の証言内容について、彼は現地に行って確かめることもしない。弁護士としてこれってどーなの?

 まぁ、別に気にするほどのことでもないのだが。

 印象的だったのは、ネオナチ夫婦の夫のお父さん。このお父さんが、警察に通報したことで、彼らの検挙に至ったのだ。彼は、法廷でカティヤに哀悼の意を表わし、この瞬間だけが、本作で少し慰められるシーンかも。お父さんとカティヤは、法廷の外で短い会話を交わし、お互い出身地が近いことを知る。そしてお父さんは「いつか、コーヒーを飲みに来てください」と言う。彼がこう言った真意は分からないが、「お互い苦しいけれど生きていきましょう」ということだったのでは。このシーンは、結末から辿ると、非常に胸が詰まる。

 昨年、ベルリンに行った際、トルコマーケットを(駆け足だったけど)訪れた。たくさんの店がでていて、山のような商品が並んで、皆が楽しそうで、、、。それは、移民がベルリンという街に根付いて、社会を築いた象徴のように感じたのだが、それはベルリンだからだったのか。北部の街は、まだまだ保守的だったのだろうか。……いや、きっと、どこにでもネオナチ的な者たちはいるに違いない。けれども、本作のモデルとなった事件は、たまたま、その舞台が北部だったんだろう、、、。どの街にも、いろいろな側面があるのだ。

 ダイアン・クルーガーの出演作、多分これが初めてだと思うのだけれど、非常に正統派の美人で、なおかつ知的で品もあり、とてもステキな役者さんだと思った。他の作品も見てみたくなった次第。

 




やりきれなさに襲われる。




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2 コメント

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わしも決断したい (松たけ子)
2018-04-26 00:24:19
すねこすりさん、こんばんは!
この映画、カンヌでダイアン・クルーガーが女優賞を獲った時から気になってました!監督の「消えた声が、その名を呼ぶ」も佳作でしたし、この新作も期待してます!観た後に、あらためてこちらのレビュウを拝読します(^^♪
今年のフランス映画祭のラインナップが発表されましたけど、すねこすりさんは参加されるのかしらん?オゾン監督の新作やイザベル・ユペール出演作があるので、映画祭に行ける方が羨ましいです。
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平和公園に猪!! (すねこすり)
2018-04-26 21:48:12
たけ子さん、こんばんは〜☆
きっと期待を裏切らない作品だと思います。是非レビュー拝読したいですわん♪
アキン監督作品は初めてだったのですが、他の作品も見たくなりました。
フランス映画祭、今年は横浜でやるんですねぇ。横浜かぁ、ちと遠い…。なんて! たけ子さんに呆れられちゃいますね(^^; 魅力的なラインナップなので、これから吟味してみます。
カープ、3タテ!! 衣笠さんの訃報で奮起したのですかね。今年もぶっちぎりで優勝してほしいです。
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