映画 ご(誤)鑑賞日記

映画は楽し♪ 何をどう見ようと見る人の自由だ! 愛あるご鑑賞日記です。

聖なる犯罪者(2019年)

2021-12-06 | 【せ】

作品情報⇒https://moviewalker.jp/mv71769/


 
 以下、上記リンクよりあらすじのコピペです。

=====ここから。

 少年院で神父と出会った20歳のダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は、熱心なキリスト教徒となる。前科者は聖職者になれないとわかっておりながら、神父になることを夢見ていた。

 仮釈放が決まったダニエルは、少年院から遠く離れた田舎の製材所に就職することに。製材所へ向かう道中、偶然立ち寄った教会でマルタという少女に冗談で自分は司祭であると言ったところ、新任の司祭と勘違いされ、そのまま司祭の代わりを任されてしまう。

 村人たちは言動も行動も司祭らしからぬ様子に戸惑うものの、ダニエルは若者たちとも交流し、やがて親しみやすい司祭として信頼されていった。一年前にこの村で七人が亡くなる凄惨な事故が起き、事故が村人たちに深い傷を負わせたことを知ったダニエルは、残された家族を癒してあげたいと模索。

 そんな彼のもとに同じ少年院にいた男が現れ、すべてを暴くと脅す……。

=====ここまで。
 

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 この映画は、公開前から楽しみにしていて、今年の1月に公開されて喜んで劇場まで見に行ったのに、不覚にも途中で度々ウトウトしたらしく、終わってみれば何だかよく分からなかったという、、、。まあ、当たり前ですが。

 あんまし劇場に見に行って睡魔に襲われることってないのですが、大抵、睡魔に隙を与えている場合は、その映画が(私にとって)ひどくツマンナイか、前日かなり寝不足かのどちらかですね。本作の場合は、後者でした。中盤までは結構しっかり見ていたのになぁ、、、。

 で、DVDで再見しました。やっぱし、肝心なシーンを見落としていた、、、。


◆司祭の適性はあっても暴力的な彼。

 本作はポーランド映画なんだが、ポーランドといえばカトリックのお国。パンフによると、ポーランドではニセ司祭ってのは割とよくある事件らしい(へぇ、、、)。

 ダニエルは前科者ゆえに司祭になれないのだが、何の前科かといえば、喧嘩の挙句の“殺人”である。ダニエルが司祭になりたいと思ったのは、別にキリスト教に心酔したからという感じではなかった。少年院に来ていたトマシュという司祭の説教やその振る舞いに対する憧れからくるものではなかったか。

 前科者が聖職に就けないことの是非はともかく、せっかく“これだ!”ってのが見つかったのに、絶対的にその道が自分には閉ざされていると知れば、やはり絶望的な気持ちになるだろう。“これだ!”という道に進むことは、更生の可能性が高いもんね。

 でも、成り行きで臨時の司祭になってみると、ますます“これだ!”と体感するダニエル。憧れの“トマシュ”の名を勝手に名乗り、型破りな説教をしたり振舞ったりして、村人からも信頼を得ていく、、、。

 まあ、結果的には、そんな偽りの姿は長く続くはずもなく、本物のトマシュ司祭にバレて、少年院に送り返されるハメになり、ラストシーンは壮絶な暴力の応酬が繰り広げられる。ちょっと正視に堪えない。あんな司祭の真似事をして人々の心を捉えていたダニエルだが、彼の持つ暴力性はゼンゼン変わっていなかったということなんだろう、、、、ごーん。


◆聖職、、、このいかがわしきもの。

 本作で考えさせられるのは、そんなダニエルが、司祭としては前任者の正式な司祭よりもよほど有能で、人々の心の救済の役に立っていたってこと。人を殺したことのある人間が、一方では、傷ついて亀裂ができた村人たちを癒して和解に導くということができてしまう。前任の正式な司祭はしようと努力すらしなかったことを、ダニエルは敢えてやってのけたのだ。

 ダニエルがトマシュ司祭に村から追い立てられる際、ダニエルと親しくなったマルタがトマシュ司祭に「トマシュ(ダニエルのことね)司祭がいなくなったら、教会はどうなるんですか?」と聞くシーンがある。そこで本物のトマシュ司祭は「すぐに次の司祭が来ます」と答えるんだが、そのときのマルタの表情がすごく印象的。本物のトマシュ司祭に対する不信感を隠さないのだ。

 マルタはダニエルがニセ司祭と薄々分かっているが、それでもダニエルを信頼していて、村人たちも同じなのに、本物かなんか知らんが、村の人たちの気持ちも考えずにダニエルを辞めさせるトマシュ司祭は、正しいけどイヤな奴でしかない。

 ……こうして見ると、人の心を救う仕事って何なのかねぇ、、、というのが、本作の主たるテーマなのかな、と思う。

 ちなみに、ダニエルの前任者である正式な司祭はアル中でまともに司祭の仕事がこなせなくなっていた。だから、ダニエルが新任の司祭と勘違いされたのよね。アル中と殺人の前科者と、どっちが司祭にふさわしいか、、、というわけでもないが、なかなかアイロニカルな設定ではある。

 本作を見ていて思ったけど、司祭ってのは、教会のプロデューサー的な役回りなのかなと。ありがたいお説教もいいけど、信者たちをいかに満足させ、納得させるか。正しいことをしていたからって、信者たちが喜ぶとは限らないもんね。田舎の保守的な人たちとはいえ、アル中なくせに四角四面の面白みのない司祭よりは、破天荒でも人間的な魅力のある司祭の方が良いに決まっている。

 ダニエルは、司祭を演じる一方で、ヤクも酒もセックスも俗人と変わらずやっていたわけだが、ホント、じゃあ“良い聖職者”って何?ってなるよね。

 パンフのインタビューで監督は「彼のこの一連の行いというのは、もしもう一度チャンスを与えられれば自分はこのように応えられると社会に訴える絶望的な試みだ」と言っている。また、「もしダニエルが罪を犯さなかったとしたら、そもそもそこまで聖職や教会というものに惹かれていただろうか? そうでないということは容易に想像がついた」とも語っている。

 こうしてみると、前科者は聖職者になれない、という掟は果たして妥当なのか疑問になってくる。罪を犯していない人間なんているのか? という問いも成立するしね。法的な罪を犯していない人間は汚れていないとでも?? かといって、過去に人を殺したことがある人に、心の在り様を解かれても、それも大いに違和感あるしね。まあ、私は今さら宗教に救いを求めようとは思わないけれど。

 ダニエルを演じたバルトシュ・ビィエレニア(またも難しいポーランド人のお名前、、、)は、ポーランドでは名の知れた舞台俳優さんのようだ。シェイクスピア劇もかなりの数出演しているみたい。彼が暗闇でラリッているときの表情が異様で怖い。あのアニメ『ファンタスティック・プラネット』に出てくる巨人ドラーグ族とイメージが被る。でも、司祭の服を着ると、司祭に見えるんだから、さすが俳優、大したものだ。

 なかなかの秀作だけど、劇場で寝てしまったということは、いくら寝不足だったとはいえ、そこまで圧倒的に引き込まれる感じではなかったということだから、は少なめです。どんなに寝不足でも、まったく眠くならない映画もいっぱいあるので。

 

 

 

 

 

 


原題は「キリストの体」という意味だそうです。意味深だ、、、。

 

 

 

 

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