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「当代記 巻一」を読む 5

(新東名高架下は「門出」の駐車場になった、10月15日撮影)

昨日の夕方、近所の班長さんが配りものに来て、来年度、区の総代をお願いしたいと聞く。区には自治会長がいて、市など対外的なやり取りを受け持ち、区内のことは総代三名で行う。任期は一年、まあ一度は受けなければならないと思っていたから、受けるしかないかと思う。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

その以後一両年中に、松永、美濃国岐阜へ相下り、信長公へ属すべき条、早速動揺あるべき由申し、終に信長の天下成る。その後、三好日向守、同下野は、堺に隠居せしめ、老病にて相果て、左京大夫は、始めは松永同心の間、信長へも出仕し、一味たりしが、終に佐久間右衛門(信長家老)、計略を以って(ちゅう)れ、松永も後は、信長へ謀反(むほん)せしめ、攻害(こうがい)を被(こうむ)り畢(おわ)んぬ。(この末に委(くわ)しく、これを注す)岩成は淀の城にて、信長のため、攻害を被る。後代物語としてこれを注す
※ 動揺(どうよう)➜ 騒動。騒擾。
※ 誅す(ちゅうす)➜ 罪あるものを殺す。
※ 攻害(こうがい)➜ 攻め殺すこと。
※ 注す(ちゅうす)➜ 説明を書きつける。また、記す。


永禄十一年戊辰(1568) 信長公、京入り。家康公、遠州入り。武田信玄、駿河入り。
十二己巳(1569) 六条崩れ。懸川落つ。
十三庚午(元亀元年なり)(1570) 江州小谷合戦。金崎崩れ。浅井敵の事。信玄小田原へ動く。
元亀二辛未(1571) 叡山對治(たいじ)す。
三年壬申(1572) 信玄、遠江出張、浜松合戦。
天正元癸酉(1573) 武田信玄死去。朝倉義景討ち死。義秋将軍京落ち。長篠、家康公攻めらること。作手、家康に属すこと。
二甲戌(1574) 武田四郎、東美濃出張。高天神、武田に属すこと。尾州長島落去(らくきょ)のこと。但し志摩国か。
三乙亥(1575) 長篠後詰め合戦のこと。小山表へ武田四郎出張のこと。
四丙子(1576) 信長安土へ御移りのこと。天王寺へ信長後詰めのこと。信長、居鷹(すえたか)叡覧(えいらん)のため、禁中御庭まで参り給うこと。
※ 對治(たいじ)➜ 悪いものや害を及ぼすものをうち滅ぼすこと。
※ 落去(らくきょ)➜ 落ち去ること。
※ 居鷹(すえたか)➜ 鷹狩り用の鷹。
※ 叡覧(えいらん)➜ 天子が御覧になること。天覧。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「涙の万年橋 剣客船頭 17」 稲葉稔 著
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