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「当代記 巻一」を読む 10

(散歩道の渋柿畑、21日撮影)

散歩道で渋柿畑を初めて見た。10本ほど植わっている。実が生らないと気付かないものだが、植えたのはそれほど昔ではなさそうである。今年もいよいよ干柿の季節が到来した。天候も安定したみたいで、そろそろ始めようかと思う。

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「当代記 巻一」の解読を続ける。

甲斐国の主、武田大膳大夫晴信と云う人有り。入道(にゅうどう)の後、信玄と号す。これは源新羅三郎義光(伊予守頼義の三男)の後胤(こういん)なり。この人、若輩の時、父信虎快(こころよ)からずして、晴信弟左馬頭に、信虎遺跡(いせき)を譲るべしの由、内々思い立つの間、晴信遮(はば)みて信虎を追い出さる。信玄廿一歳。この時、晴信信州、西上州を取りて、その後大勢(たいせい)たるの間、天下を取るべき内心有り。まず永禄十一年戊辰(1568)十二月十三日に、駿州へ発向。時に当国の主、氏真、一戦に及ばず、遠州掛川へ退去了(おわ)んぬ。かの氏真は信玄甥なり。この頃、間柄常に快からず。氏真より慮外(りょがい)の企てさるゝの間、無拠(よんどころなく)出馬と称す。
※ 入道(にゅうどう)➜ 仏道にはいって修行すること。また、出家・剃髪ていはつして仏道にはいった人。
※ 遺跡(いせき)➜ 先人ののこした領地・官職など。
※ 大勢(たいせい)➜ 大きな権勢。強い勢力。
※ 慮外(りょがい)➜ 無礼であること。また、そのさま。


この時、氏真舅(しゅうと)(関東の主)氏康、同息氏政、加勢として、駿州に陣を進めらるといえども、終(つい)に以って、信玄、駿河を静謐(せいひつ)になされ、この意趣(いしゅ)を以って、元亀元年庚午(1570)、信玄関東へ相動き、氏康、氏政居城、小田原惣門(そうもん)まで押し詰め放火し、退散の期(とき)に臨み、敵相(した)の間、築井の近所、三増(みませ)峠にて、信玄人数返し合い、一戦に及ぶ。小田原衆敗軍、数百人討ち捕り、甲州へ皈陣(きじん)。然(しこう)して、氏康逝去の後、氏政、信玄と和睦せしめ、この氏政は信玄の聟たるといえども、父氏康の命に従い、近年は鉾楯(ほこたて)
※ 静謐(せいひつ)➜ 世の中がおだやかに治まること。また、そのさま。
※ 意趣(いしゅ)➜ 他人の仕打ちに対する恨み。遺恨。
※ 惣門(そうもん)➜ 外構えの大門。また、城などの外郭の正門。
※ 慕う(したう)➜ あとを追う。
※ 鉾楯(ほこたて)➜ 争い。合戦。戦闘。

(「当代記 巻一」の解読、つづく)

読書:「おしかけた姫君 はぐれ長屋の用心棒 21」 鳥羽亮 著
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