平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「信長公記」を読む 3
秋雨前線と台風の影響で、雨続き。散歩も出来ないから、少し古い9月28日撮影の写真を載せる。
雨の中、「駿遠の考古学と歴史」講座に出席する。頼まれていた、「山崎久麻呂 大地震の記」の解読を渡す。
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「信長公記 巻五」の解読を続ける。
信長公より討ち果すべきの旨にて、遣わさる御人数、佐久間右衛門、柴田修理亮、森三左衛門、坂井右近、蜂屋兵庫、斉藤新五、稲葉伊予、氏家左京亮、伊賀伊賀守、不破河内、丸毛兵庫、多賀新左衛門、この外五畿内、公方衆を相加え、後詰め(ごづめ)として御人数出され、取出(とりで)を取り巻き、猪垣(ししがき)廻し置かれ候処に、風雨の紛(まぎ)れに切り抜け候これなり。三好左京太夫殿は、若江に楯籠(たてこも)り、松永弾正は大和の内、信貴(しぎ)の城に在城なり。息、右衛門佐は奈良の多門に居城なり。
※ 後詰め(ごづめ)➜ 先陣の後方に待機している軍勢。 予備軍。
※ 猪垣(ししがき)➜ 竹や枝つきの木で粗く編んだ垣。獣が田畑に侵入するのを防ぐためのもの。また、戦場で敵を防ぐのにも用いた。
五月十九日 信長天下の儀、仰せ付けられ、濃州岐阜に至りて御下り。
七月十九日 信長公の嫡男、奇妙公(きみょうこう)、御具足初め(ぐそくはじめ)に、信長御同心(どうしん)成され、御父子、江北表に至りて御馬を出され、その日、赤坂に御陣取り、次の日、橫山に御陣を居(きょ)せられ、廿一日、浅井居城大谷へ推し詰め、めひはり山、虎御前山へ御人数上げられ、佐久間右衛門、柴田修理、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、蜂屋兵庫頭、仰せ付けられ、町を破らせられ、一支(ひとささえ)も支えず押し入り、水之手まで押し上げ、数十人討ち捕る。柴田修理、稲葉伊予、氏家左京助、伊賀伊賀守、これらを先手(さきて)に陣取(じんど)らせ、次の日、阿閇(あつじ)淡路守楯籠(たてこも)る居城、山本山へ、木下藤吉郎差し遣され、麓を放火。然るべき間、城中の足軽ども百騎ばかり罷り出で、相支え、藤吉郎見はかり、噇(どっ)と切りかかり切り崩し、頸(くび)数五十余討ち取る。信長公御褒美、斜(なな)めならず。
※ 奇妙公(きみょうこう)➜ 織田信長嫡男、織田信忠の幼名。
※ 具足初め(ぐそくはじめ)➜ 武家で、男子が元服してはじめて甲冑を着用すること。また、その儀式。
※ 同心(どうしん)➜ ともに事にあたること。協力すること。
※ 一支(ひとささえ)も支えず ➜ 無抵抗なさまを表す。
※ 斜めならず(ななめならず)➜ 並ひととおりでない。格別だ。
(「信長公記 巻五」解読、つづく)
読書:「逢魔時の賊 八丁堀剣客同心 2」 鳥羽亮 著
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