平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
「竹下村誌稿」を読む 94 榛原郡 30
漸く雨が上がり、暖かくなった。ジパング倶楽部の会費を払う。来年こそ、しっかり使い、3割引きの恩恵を受けたいと思う。早速、週明けの帰郷の切符を購入した。
午前中、近所のWさん来訪。2時間ほど、お話をした。はるみの施肥の話は参考にしようと思う。
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「竹下村誌稿」の解読を続ける。
河根地方(今、上川根、中川根、下川根)
郡志に、古昔、山香郡の一部にして、河手若しくは東手と呼びたるが如くにして、南北朝以前に在りては、依然同様の状態にありしも、両朝合一の後に至りて、この地方一帯の地域は、本郡に帰入せられたるが如し。而して、往古は周智郡の北部(山香郡)と同じく、御料の園地として存したるものにて、自然、京家に関係が多く、南北朝当時の如きは、何らか南朝に縁故を有したるが如き口碑、伝わらざるに非ざれども、素より的確なる徴証なし。降りて、今川氏の所領となるに及び、大要、犬居の豪族、天野氏領所として、その管下に存したるものゝ如し。
とある如くにして、この地方は、鎌倉以後に於いては、天野氏が庄職を領せし事は、周智郡志に、
犬居山中に於いては、源頼朝の侍臣、天野遠景の子孫が領家職として、また地頭職として、城郭を犬居に設け、大峰、平山、犬居など山香庄全部を領して、三百年間、統治の権を握り、領所も多かりき。
とあり。今川氏の遠江を領するに当たりても、その実権は、天野氏の支配に一任せしものゝ如し。そは、今川範泰、氏親、義元、氏真などより、天野氏に宛てたる三十余通の文書の、或る書に見えたれば、略々、その要領を推知せらるゝものゝ如し。氏真没落後に至りても、なおこの地方一帯の政事は、天野氏の手に存したるものなるべし。永禄十二年(1569)四月十三日、徳川家康より天野宮内右衛門尉へ与えたる朱印状に、
河根五百貫文の地、手長として申付く上は、無沙汰なく、石川伯耆守方へ、年貢など、氏真時の如く、納めらるべきものなり。仍ってくだんの如し。
※ 手長(てなが)- 宮中や貴人の家で、酒宴などの際に膳部を次の間まで運び、取り次ぎをする役。また、その人。おてなが。
また石川伯耆守の添え状に、
仰(おお)せの如く、近日は申し承らず候。家康、三河へ罷り越し候間、拙者はこの地にこれ有り事、御用など候わは、仰せ蒙り候。就中(なかんずく)、家山鱸(すずき)、縁類源兵衛、氏真御供申し、罷り越し候由、仰せ越され、この方へは御理(ことわり)一段、祝着の到りに候。その段、三州(家康)へも申し遣すべく候。惣別、その筋の儀は、貴所御指図次第、申し付かるべく候。何事に於いても、御心置かれず、仰せ蒙るべく候。なお面談の時を期し候。恐々謹言。
後五月二十二日 石川伯耆守
天野内、右御請
※ 祝着(しゅうちゃく)- うれしく思うこと。満足に思うこと。
※ 惣別(そうべつ)- およそ。だいたい。
とあるにて知るべし。
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