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田子乃古道 8 鈴川村検地の話

(見附宿跡の砂山に群生するセンニンソウ)

富士市立博物館から頂いた、吉原宿の移り変わりのパンフによれば、見附から元吉原宿に宿場が移されたのは、天文年間(1532~1554)と云われている。さらに慶長六年(1601)には、江戸幕府のもとで、改めて吉原宿と指定された。続いて、寛永16年(1639)に標砂や高波の被害にあって、依田橋村の西方に所替えした、これが中吉原宿である。更に延宝八年(1680)年の8月6日の大津波の被害で、新吉原宿に所替えされた。ところが、その引き金になった地震が何という地震だったのか、江戸時代の地震年表に見当たらない。

鈴川村に御検地があったのは、その大津波があった年の前年、延宝七年(1679)の夏であった。宿場が移ってしまってから久しい時代であった。「田子乃古道」の解読を続けよう。

延宝七辰夏、国々田地引方御詮議として、御勘定衆、御目附衆、御巡見有りて、御検地改むる礼(例)なる村は、御取り揚げに相成るよし。鈴川村は三拾八石砂入り、その印、松山と成りて御有るよし申し上げ、悉く御改めの上、若し隠し田これ有るにおいては、御検地の上、御仕置き請くべきの請文差上げ申すなり。

御奉行は駿府諸暑庄之進の御手代、中嶋平蔵殿、所の御手代、清水七右衛門殿、名主は町、庄左衛門、並びに我ら両人、棹打ち弐人、天神の神前にて信文をして、検地初むる。元よりつまりたる田地のことゆえ、検地不足する位の事なり。打ち終わりて改め見れば、三石八升地、古間より不足、検地の上不足にては、不足田にて堤外くり舟添いにて上畑をこしらえ、漸々勘定合い、三百五拾九石弐升、鈴川村有り高と成る。
※ 棹(竿)打ち(さおうち)- 江戸時代、間竿(けんざお)で田畑の面積を測量したこと。また、検地のこと。竿入れ。
※ 信文(神文)- 起請の内容に偽りがあったり違背した場合、神仏の罰を受けるべき旨を記した文。


惣じてこの辺り、備前縄の古間つまるいわれ、聞き伝うるに、伊奈備前守様御奉行にて、日本惣検地初まり、国々郡々手分けして検地に相成る。その節、庵
原郡の辺りにて、竿打ち、百姓より賄賂を取りたる事あらわれ、その棹打の首を切り、桶に入れ、検地の村々へ廻す。その時この辺へ廻し来るによって、それを恐れて竿詰めとなり。


「竿打ち」はどんな身分のものか不明であるが、おそらく下っ端役人だったのだろうと思う。いつの時代も厳罰に処されるのは下っ端役人で、百姓より賄賂を取って不正を働き、首になるのでは収まらず、哀れにも文字通り首を刎ねられ、見せしめの道具にされた。

その直後の検地では首を恐れて「竿詰め」となったという。この竿詰めが良く判らないが、尺となる竿を詰めると、面積が大きく計測される理屈になる。だから検地で正しく測りなおすと、面積が足らないことになる。総面積を合わせるために、計算に入れていない荒地を畑として加える操作がされる。もっとも、荒地では年貢の計算は出来ないと思うが。
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