平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
田子乃古道 7 見附宿の移転と吉原宿命名の由来
(富士塚「浅間山」)
昨日、再び吉原を一人で訪れた。目的は富士塚を見ることであった。その前に、富士市博物館を訪れて、特別展「鳥の目で見た富士」を見学した。その話はまた触れることがあると思う。吉原宿関連の展示もしてあったので、いくつかパンフ類を頂き、最後に富士塚のことを尋ねた。
応対してくれた係員は、今はコンクリで固めてしまって、昔のようではないと断りながら、昔の写真と、今の写真を比べるように見せてくれた。昔の写真は、海岸から少し入った砂地の松林に、手で持てる程度の石がうず高く積まれているだけのものであった。
その後、車で富士塚まで走らせた。今は宅地化が進み、所々に松林が残るだけで、あとは住宅で埋まっていた。松林に車を停めて、場所を聞き、複雑に入り組んだ道を歩いて住宅の中に残された、富士塚のための空き地に円錐状に丸石をコンクリートで固めて作った富士塚があった。てっぺんには浅間宮の石の祠が載っていた。
「田子乃古道」の解読を続ける。
さてまた、この見附の所替えの謂われは、東西に町屋を並べ、数年、営み居りしに、風波の起る毎に、砂山吹き崩れ、押しかゝり、家居を埋むる事、数家なり。誠に責めにあうよりもつらく、住居成りがたく、今井と見附宿の間九町有りて、今井にて伝馬役相勤め来りし所、急御用弁じがたく、また殊に砂山吹き崩れ、難義両様故、御願い立て、東は今井坂口、西は地蔵前まで、かねのてに、北へ壱丁程曲り、町並ぶ西のはしというは、鈴川湊道、地蔵の辺りなり。
(鈴川地蔵堂)
今の地蔵の松は、古道の丁場の松にて、この松むかしを残す。この名仏の尊像は旧古より松に添いて立ち給う。古帳面にこの山下の字、地蔵の下と有り。今の松原は田地なり。砂山吹き崩れるに依って、砂余りの土手を築きしに、その土手成りの今は壱平の松原なり。
地蔵前より二町ばかり南へ下り富士塚、この小山は自然の砂山にあらず。造作(つく)れる山なり。ここに北条阿波守様より、元吉原古湊辺りに、伊勢新九郎殿の霊塚これ有るよし、度々御尋ね有り。その節、知るものなし。今、按ずるに、この富士塚なるべし。何れの頃よりか、冨士参詣の輩は浜ほりして、石壱つずつ迦(かつぎ)登りて、頂上へ積み上げ、登山の安全を願う。依って冨士塚と云う。
富士塚の案内石碑によると、「‥‥役の小角が、その姿富士に、なぞらえて、この小山を築き、はるか大富士の遥拝処としたといわれる。室町時代から江戸時代にかけて、吉原湊に上陸した富士導者が、水清き田子浦辺で精進潔斎、水垢離をなし、玉石一つを浅間宮の祠に捧げ登山の安泰を祈った富士信仰の霊場であった。」とある。この記述が本当であれば、伊勢新九郎殿の霊塚であるはずはない。
見附の吉原と改名せしは、今井村と見附宿と一所に成りて、御伝馬御用宿など勤むるに、両村の名は呼びにくしという。一統相談の上、吉原宿とは名附く。この訳は、東宿の原、西宿の蒲原の、中の宿故、所の繁昌は名に依りてというて、吉原宿とは名付けしなり。その後、あやまって葭原宿と書きしもの有り。この古事云いて止むという。その証拠は、御代官、渡邊刑部左衛門殿の御免状に、万治元年戌年吉原村米可納免状の事と書き有り。翌戊申年より改まり、鈴川村となる。
※ 翌戊申年 - 万治元年戌年は1658年、そして翌戊申年とは、次の年ではなくて、寛文8年(1668年)で10年後のことである。
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今日紹介された富士塚には「海から富士山・剣ヶ峰」の登山のとき毎年お詣りしています。
この写真には写っていませんが、実際は富士塚の後ろに大きな富士山が見えています。
探していた阿字神社は吉原駅の南側の「富士と港の見える公園」にあったのですね。
来年の登山のときは寄ってみようと思っています。
富士塚は今も参拝後、富士登山される方がいるのですね。この日は残念ながら富士山は見えませんでした。